第二十九話:雪原の来訪者と黄金の粉
窓の外では、白い雪が静かに降り積もっていた。
風は穏やかで、森の木々は厚い雪の衣を被り、息を潜めるように佇んでいる。かつて私がこの「還らずの森」へと足を踏み入れたとき、そこは死と絶望の象徴であったはずだ。しかし今、暖かな室内から眺めるその景色は、厳しくも美しい、一枚の絵画のように私の目に映る。
暖炉の中では、オークの薪がパチパチと心地よい音を立てて燃えていた。
十分に乾燥させた薪は、嫌な煙を上げることなく、ただ純粋な熱だけをこの石造りの空間に提供している。揺らめく橙色の光が、磨き上げられた床石に長い陰影を落とし、部屋全体を柔らかな温もりで満たしていた。
私は手元のカップに視線を落とす。
そこにあるのは、お湯だ。
いや、正確には乾燥させた香草をわずかに浮かべただけの、代用茶と呼ぶのもおこがましい液体である。
「……味気ない」
思わず独り言が漏れる。
唇を離し、カップをソーサーに戻す際のカチャリという硬質な音が、静寂の中に響いた。
備蓄していた茶葉が底をついてしまったのだ。
市場で購入した一般的な茶葉は、香りも飛びやすく、味も平坦だ。それでも、温かい飲み物があるというだけで冬の生活には救いとなるが、一度でも「本物」を知ってしまった舌は、容易には妥協してくれない。
王城で暮らしていた頃、唯一の楽しみであった午後のティータイム。そこで供されていた東方産の最高級茶葉の香りを、私の記憶は鮮明に保持している。記憶とは残酷なものだ。失った贅沢を、こうも鮮やかに思い出させるのだから。
「おい、下僕。なぜ手が止まっている」
不満げな声が、私の思考を現実へと引き戻した。
視線を上げれば、深緑色のベルベット生地で覆われたソファの上、その中央を陣取る黒い毛玉が、金と赤の瞳を細めてこちらを睨んでいる。
我が家の主であり、同居人であり、そして伝説の魔獣でもあるベルだ。
彼は艶やかな黒毛を暖炉の熱で温めながら、器用に前足でクッションを押し、自分が最も快適な形状へと整えている最中だった。
「我のブラッシングがおろそかになっているぞ。あそこでの働きに対して、貴様の奉仕はいささか不足しているのではないか?」
あそこというのは、先日彼が一撃で吹き飛ばしたスタンピードの現場のことだろう。
確かに、彼の力添えがなければ、この教会も、そして麓の街も、今頃は魔獣の蹄の下で瓦礫の山と化していたかもしれない。その功績は認める。認めざるを得ない。
私は小さく息を吐き、手元の作業を再開した。
櫛を彼の背中に入れる。毛の流れに逆らわず、皮膚を傷つけないよう、適度な力加減で滑らせていく。その感触は、上質な絹織物を扱っているかのように滑らかだ。
手入れの行き届いた毛並みは、指に吸い付くようなしっとりとした重みを持っている。
「お言葉ですが、ベル。私の手は二つしかありません。お茶を飲むことと、貴方のお世話をすることは、同時には行えないのです」
「ならば茶など飲まねばよい。どうせその草の汁に、香りなどないだろう」
ベルは鼻を鳴らし、私の痛いところを正確に突いてきた。
この味の薄さと香りのなさについては反論の余地がない。
彼の嗅覚は、森の奥に潜む獲物の位置だけでなく、食材の鮮度、調理の出来栄え、そして私の淹れたお茶の品質までをも鋭敏に感じ取ってしまう。
彼にとっても、今の食卓事情は不満の種であるはずだ。
卵や肉、野菜といった基本的な食材は、温室と鶏小屋、そして彼自身の狩りによって十分に確保されている。飢えることはない。
だが、生活を一段階引き上げ、食事を「美食」へと昇華させるための『嗜好品』が、不足していた。
砂糖、香辛料、そして茶葉。
これらはフロンティアの市場では手に入りにくく、あっても法外な値段か、粗悪なものばかりだ。
「文句を言うなら、貴方がどこかから最高級の茶葉を見つけてきてください」
「我は狩人であって、採集人ではない。それに、草を摘むなど王者のすることではないわ。我に必要なのは、滴るような肉と、それを極上の味に変える調味料だけだ」
ベルはふん、と顔を背ける。
その横顔は憎たらしいほどに尊大だが、尻尾の先だけは正直に、私の再開したブラッシングに合わせてゆらゆらと揺れていた。
櫛が背中を通るたびに、彼は喉を鳴らし、目を細める。
外は冬景色だが、穏やかな雪の日だ。ここには平和な怠惰がある。
このまま日が暮れて、ありあわせのシチューを作り、眠る。そんな代わり映えのしない、しかし穏やかな一日になるはずだった。
その時だった。
「……誰か来たな」
ベルの耳がピクリと動いた。
ブラッシングに身を委ねていた体の力が抜け、代わりに狩人のような鋭い気配が立ち上る。金と赤の瞳孔が細まり、閉じられた教会の扉を射抜くように見据えた。
私も手を止めた。
耳を澄ませる。風の音はしない。しんしんと降る雪が音を吸い込む中、確かな異音が近づいてきていた。
ザク、ザク、という雪を踏みしめる足音。そして、荒い呼吸音。
それは扉の前で止まり、ためらうような沈黙の後、重厚な木の板を叩く音が響いた。
ドン、ドン。
「……人間か。また面倒な」
ベルが不快そうに髭を震わせる。
私は立ち上がり、警戒しつつ入り口へと向かった。
閂に手をかけ、ゆっくりと扉を引く。
冷たい空気が流れ込み、足元に雪の粉が舞い込んだ。
扉の向こうに立っていたのは、厚手のコートに雪を積もらせた大柄な男だった。
顔色は悪く、寒さで髭が白くなっているが、その特徴的な禿げ上がった頭部と、眼帯をしていない方の鋭い瞳には見覚えがあった。
「……急に押し掛けてすまん。入れてもらえるか」
聞き覚えのある、しわがれた声。
フロンティアの冒険者ギルドを束ねる男。ギルドマスターだ。
私は驚きつつも彼の腕を引き、教会の中へと招き入れた。
「ようこそお越しくださいました。この雪の中を単独で? 何かあったのですか?」
私が扉を閉め、冷気を遮断すると、ギルドマスターは安堵したように大きく息を吐き出した。
ベルは長椅子の上から、値踏みするような目つきで彼を見下ろしている。
「おい、人間。コートの雪を払ってから入れ。床が濡れる」
「おいおい……相変わらず、手厳しい相棒だな……」
ギルドマスターは苦笑しながらコートの雪を払い、暖炉の前へと歩み寄った。
私は彼に、先ほどまで自分が飲んでいた温かいお湯――代用茶を差し出す。
彼はカップを両手で包み込み、ゆっくりとそれを飲み干した。
しばらくして、ようやく人心地ついたのか、男は私に向き直り、真剣な表情で口を開いた。
「……すまん、コレット。だが、こうでもしなきゃ、あんたらに頼めなかった」
「手紙で済む用件ではなかったのですか?」
私が問うと、ギルドマスターの顔が険しく歪んだ。
「一刻を争う事態だ。それに、こんな話、文字に残せねえ」
彼は暖炉の炎を見つめながら、重い口を開いた。
単刀直入に言えば、街が干上がる寸前なのだという。
水源である湖が、突如として腐敗した。
三日前、湖面がどす黒い粘液で覆われ、強烈な悪臭を放ち始めた。魚は全滅し、水を飲んだ家畜が死んだ。
調査に向かった冒険者からの報告によれば、湖底に巨大な発生源がいるらしい。
ポイズン・スライムの変異種。汚泥の塊のような怪物が、毒素を垂れ流しているのだ。
「……選りすぐりの魔法使いパーティーも投入した。だが、あいつらの浄化魔法じゃ、表面の毒を薄めるのが関の山だった。原因を消し去らない限り、水は元に戻らねえ」
ギルドマスターは悲痛な面持ちで、私と、そしてベルを見た。
「頼む。力を貸してくれ。あんたたちの、あの理不尽なまでの力が必要なんだ。このままじゃ、街の貯水槽が空になる。住民を避難させるにしても、この雪だ。馬車を出すのも一苦労だし、年寄りや子供には過酷すぎる」
深刻な事態だ。
一つの街が機能不全に陥り、消滅しようとしている。
天候は大雪ではないが、降り続く雪は確実に道を塞ぎつつある。大規模な避難となれば、遭難者が出る可能性も高いだろう。
私はベルを見た。
彼は大きなあくびをして、前足を丁寧に舐め始めたところだった。
「断る」
一刀両断だった。
「人間どもがどこに住もうが、あるいは野垂れ死のうが、我の知ったことではない。それに、そんな汚らしい場所に行くなどごめんだ。毛並みが汚れるし、臭いが移る」
「そ、そこを何とかできないか!報酬なら、ギルドの金庫を空にしてでも……!」
「金貨など、何の腹の足しにもならぬ」
ベルは冷たく言い放ち、再び丸くなろうとする。
彼にとって、人間の営みなど興味の対象外だ。
私自身も、街の人々にはお世話になっているとはいえ、ベルの意思を無視してまで彼を危険な場所へ連れ出すことはできない。それに、ベルなしで私が一人で行っても、とても解決することはできないだろう。
私は困ったように肩をすくめた。
「……というわけです。残念ですが、彼が動かない以上、私の一存ではどうすることも」
私の言葉に、ギルドマスターの巨体が小さくなったように見えた。
しかし、彼は諦めていなかった。
最後の切り札を切るように、懐から風呂敷包みを取り出した。
「金が駄目なら、現物支給だ。……俺が個人的な伝手で調達してきた、とっておきだ」
彼が包みを解く。
現れたのは、装飾が施された小さな木箱と、銀色の缶だった。
ギルドマスターは、まず銀色の缶の蓋を開けた。
ふわり、と花のような香りが漂った。
私は目を見開いた。
それは、先ほどまで啜っていた草の煮汁とは次元が違う。春の野花のような華やかさと、若草のような瑞々しさ。
「北方の高山地帯で採れる『春告げの白茶』だ。王都でも滅多にお目にかかれない、最高級の茶葉だよ」
私の喉が鳴った。
これだ。私が求めていたのは、この香りだ。
しかし、ベルの反応は冷淡だった。片目を開けてチラリと見ただけで、すぐに興味を失ったようにそっぽを向く。
「なんだ、ただの乾燥した葉ではないか。そんなもので我が動くと思うか? 湯に草を浸しただけの飲み物なぞ、コレットにくれてやるがいい」
ベルにとって、紅茶などただの色付きお湯に過ぎない。
私の心は揺れ動いたが、決定権を持つ主人がこれでは、依頼を受けることはできない。
ああ、幻の紅茶が遠のいていく。
私が落胆しかけたその時、ギルドマスターがもう一つの木箱に手をかけた。
「……そして、こっちが本命だ」
カチャリ、と留め具が外れる音がした。
蓋が開けられる。
その瞬間、室内の空気が変わった。
鼻孔を突き刺すような、鮮烈で、野性的で、それでいて食欲の中枢を直接殴りつけるような刺激臭。
中には、数種類の小瓶が収められていた。
赤黒い粉末、黄色い結晶、そして乾燥した木の実のような粒。
「北の大陸から取り寄せた、極上のスパイスセットだ。肉の臭みを消し去り、旨味を極限まで引き出すと言われる『赤の衝撃』。それに、脂身の甘さを際立たせる岩塩と香草のミックス……」
ドサッ!
風のような速さで、何かがテーブルの上に着地した。
ベルだった。
先ほどまで「草の煮汁」と馬鹿にしていた彼が、今は爛々と瞳を輝かせ、木箱の中身を食い入るように見つめている。鼻をヒクヒクとさせ、その香りの粒子一つ一つを分析するかのように吸い込んでいる。
「……ほう?」
ベルの声が、明らかに変わった。
「この刺激臭……ただものではないな。これまで、コレットが街で買ってきた安物の胡椒とは、格が違う」
「ああ、違う! これは、硬い猪の肉ですら、王侯貴族の晩餐に変える魔法の粉だ! 焼いた肉にこれをひと振りするだけで、肉汁の暴力が口の中で爆発すると聞いている!」
ギルドマスターの必死のプレゼンテーションに、ベルの喉がゴクリと鳴った。
ベルは想像しているのだ。
こんがりと焼けた厚切りのステーキ。その表面でパチパチと爆ぜる脂。そしてそこに、この赤い粉末が振りかけられる光景を。
噛み締めた瞬間に広がる、肉の旨味とスパイスの刺激的な香りのハーモニー。
最近、狩りで仕留める獲物は多いものの、味付けが塩だけの単調なものになりがちだった。美食家を自称する彼にとって、それは由々しき問題だったはずだ。
ベルがゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、もはや眠気も怠惰もない。あるのは、獲物を前にした捕食者の、ギラギラとした欲望だけだ。
「おい、人間」
「は、はい!」
「その湖の汚れ、汚泥の塊と言ったな?」
「あ、ああ…そうだが。ポイズン・スライムの……」
「焼却処分だ」
ベルは宣言した。
テーブルの上で仁王立ちになり、長い尻尾をビシッと振るう。
「我の食卓を彩るべき至高の香辛料が、貴様のような男の懐で眠っているなど、資源の無駄遣いにも程がある! そのような宝は、正しき王者の胃袋のために使われるべきだ!」
論理は飛躍しているが、要するに「そのスパイスをよこせ」ということだ。
彼は私の方へくるりと向き直った。
「コレット、支度をしろ! 出かけるぞ!」
「えっ、ベル。外は雪ですよ? 湖は臭いと仰っていたじゃありませんか」
「些末事だ!」
ベルは一喝した。
「貴様は分かっていない! このスパイスがあれば、あの筋張った冬の鹿肉が、どれほどの御馳走に化けるかを! 我々の食生活における革命なのだぞ! そのためならば、多少のドブさらいなど、食後の運動にもならん!」
ベルの熱弁が、狭い教会に響き渡る。
現金なものだ。けれど、この単純さこそがベルであり、私たちが最強のコンビである所以なのかもしれない。
私の方も、あの紅茶が手に入るとなれば異論はない。ベルがスパイス入りの肉料理に舌鼓を打つ横で、私は最高級の紅茶を優雅に楽しむ。
完璧な冬の夜ではないか。
ギルドマスターは、呆気に取られた顔で私たちを見ている。
「い、依頼を受けてくれるのか……?」
「勘違いするな。我は貴様らを救うのではない。我が至福の晩餐のために、邪魔な汚れを掃除しに行くだけだ」
ベルはふんぞり返り、尊大に言い放つ。
「さあ、案内しろ人間! 我が胃袋が、極上のステーキを待ちわびているのだ! 一刻の猶予もならん!」
私は苦笑しながら、防寒具の棚へと向かった。
防水加工されたブーツと、厚手のマント。これなら雪の中でも動きやすい。
ベルはすでに玄関の前で待機し、早くしろと爪を研いでいる。
食欲こそが、最強の原動力。
それを証明する戦いが、今始まろうとしていた。
私はギルドマスターから紅茶の缶とスパイスの木箱をしっかりと受け取り、キッチンの棚の奥へとしまった。
「コレット!我を待たせるな!」
重い扉を押し開ける。
白い雪が静かに舞う世界へ、私たちは飛び込んでいった。




