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追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第六章:王の憤怒と白日の栄誉

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第二十八話:望まぬ名声と王の帰還

 濃厚な乳脂肪の香りが、教会の高い天井付近にまで満ちていた。

 私は暖炉の前で、焼きあがったばかりのトーストを皿に乗せた。

 自家製のパンは、外側がカリッとしていて、中はふんわりと柔らかい。その上に、先日命がけ(?)で手に入れたチーズを惜しげもなく削りかけ、さらにオーブンで炙ったものだ。

 熱で溶けたチーズが、黄金色の溶岩のようにパンの表面で泡立ち、焦げ目が香ばしい匂いを放っている。

 仕上げに黒胡椒をひとふり。

 シンプルな「チーズトースト」だが、素材の力が桁違いだ。


「……素晴らしい」


 テーブルの上で、ベルが喉を鳴らした。

 彼の目の前にも、同じものが乗った皿が置かれている。ただし、彼の場合はパンよりもチーズの比率が圧倒的に高い、特注品だ。


「この香り、この色艶。やはりあの時、有象無象の魔獣どもを蹴散らして買いに行った甲斐があったというものだ」


「そうですね。あの騒動がなければ、もっと平和に買えた気もしますが」


 私は苦笑しながら席につき、ナイフとフォークを手に取った。

 サクッ、という軽快な音と共にナイフが入る。

 一口サイズに切り分け、口に運ぶ。

 ……美味しい。

 熟成されたチーズの旨味が、口の中で爆発する。塩気とコク、そして乳製品特有の甘み。それが小麦の香りと混ざり合い、至福のハーモニーを奏でている。

 外は極寒の冬景色だが、口の中だけは春の陽だまりのように豊かだ。


「うむ、うまい! これぞ王の朝食だ!」


 ベルは行儀よく前足でパンを押さえ、ガツガツとかぶりついている。

 平和だ。

 薪が爆ぜる音と、私たちが食事をする音だけが響く、静謐な時間。

 これこそが、私が求めていた生活だった。

 誰にも邪魔されず、好きなものを食べ、暖かい場所で眠る。

 かつて公爵家の令嬢として、きらびやかだが空虚な社交界で愛想笑いを浮かべていた日々とは、比べものにならないほどの充実感がある。


 だが、この平穏が薄氷の上に成り立っていることを、私は予感していた。

 原因は、先日私たちが引き起こした「掃除」だ。


「……ベル。今日は、もう一度街へ行こうと思います」


 私が告げると、ベルはパンから顔を上げ、不満げに髭を揺らした。


「なんだと? せっかくチーズを手に入れたのだぞ。なぜわざわざ、あの騒がしい人間の巣窟へ戻らねばならん」


「このまま放置しておくと、かえって面倒なことになりそうですから」


 先日のスタンピード騒動。

 ベルが風魔法で魔獣を吹き飛ばし、さらに私の生活魔法を見様見真似で再現して、平原ごと洗浄してしまったあの一件。

 私たちは「通り道を掃除しただけ」と言い残して去ったが、残された人々がそれを額面通りに受け取るとは思えない。

 北門の前に積み上げられた、宝の山のような魔獣素材。

 あれを放置したままでは、「所有権」の問題が発生する。

 ギルドや街の衛兵たちが、持ち主を探している可能性が高い。


「……チッ。面倒なことだ」


 ベルは露骨に顔をしかめた。


「人間というのは、どうしてこうも複雑なのだ。拾った者が食えばよかろうに」


「それが人間の社会というものです。権利、義務、体面。そういう目に見えないものが、幾重にも絡み合っているんですよ」


 私は最後の一切れを口に入れ、紅茶で流し込んだ。

 行くなら早い方がいい。

 噂が広まりきって、手に負えない状態になる前に、手を打つ必要がある。



 私たちは再び、フロンティアの街へと向かった。

 今回は「風の移動術」は使わず、ごく普通に徒歩で向かうことにした。

 目立ちたくないからだ。

 私は茶色の地味なローブを羽織り、フードを目深に被った。顔の半分を布で覆い、一見するとどこにでもいる行商人のような姿を装う。

 ベルは私の肩に乗るのではなく、懐の中に潜り込んでもらった。黒猫連れの女というのは、特徴的すぎる。


 街の北門が見えてくると、そこには異様な光景が広がっていた。

 先日、私たちが築き上げた「素材の山」はすでに解体され、運び去られていたが、その代わりに多くの人々が集まっていた。

 彼らは雪原のあちこちを指差し、何やら熱っぽく語り合っている。


「ここだ! ここがあの『白銀の聖女様』が降り立った場所だ!」

「いや、俺が見たときは、巨大な水の精霊が踊っていたぞ!」

「馬鹿野郎、あれは風の神の怒りだ!」


 漏れ聞こえてくる会話の内容に、私は頭を抱えたくなった。

 白銀の聖女? 水の精霊? 風の神?

 話が尾ひれどころか、背びれも胸びれもついて、原型を留めないほどに巨大化している。

 私はフードをさらに深く被り直し、人混みを避けるようにして門をくぐった。


 街の中も、お祭り騒ぎだった。

 あちこちの露店で「聖女様グッズ」なる怪しげな商品が売られている。


 『聖女様が歩いた雪解け水』

 『厄除けの黒猫人形』

 『奇跡のチーズ』


 商魂たくましいと言うべきか、便乗商法と言うべきか。

 懐の中で、ベルが呆れたように身じろぎした。


(……おいコレット。あの黒猫の人形、我に似ても似つかんぞ。あんな間抜けな顔はしておらん)


(しっ、静かに。ここで喋ったらおしまいです)


 私は小声で諌め、足早に冒険者ギルドへと向かった。

 ギルドは街の中心部にある、石造りの堅牢な建物だ。

 普段なら荒くれ者の冒険者たちで賑わっている場所だが、今日は妙に静かだった。

 いや、静かというよりは、緊張感が漂っている。

 入り口には武装した衛兵が立っており、出入りする人間を厳しくチェックしていた。


 私は深呼吸をして、覚悟を決めた。

 ここで逃げれば、一生追われる身になるかもしれない。

 自分から名乗り出て、交渉する。

 「私はただの一般人で、あの素材の権利は放棄するから、放っておいてくれ」と。


 受付に向かおうとしたその時だった。

 ギルドの中は、外の喧騒とは裏腹に、奇妙な静けさに包まれていた。

 職員たちが忙しなく動き回っているが、その表情は硬い。

 私は受付へと歩みを進める。


 その時、ギルドの奥にある一際重厚な扉が、乱暴に開かれた。


「騒がしいぞ! 表の連中はまだ聖女だの何だのと騒いでいるのか!」


 現れたのは、熊のような巨漢だった。

 顔には無数の古傷が走り、白髪交じりの髪を無造作になでつけている。

 冒険者ギルド、フロンティア支部のギルドマスターだ。

 彼は不機嫌そうに大股で歩き、フロアを見回した。

 その鋭い眼光が、入り口付近に立っていた私――地味なローブ姿の女――を捉える。


 彼はピタリと足を止めた。

 私を見据え、次に私の懐の膨らみへと視線を移す。

 その瞬間、彼の表情から険しさが消え、代わりに苦虫を噛み潰したような、しかしどこか納得したような色が浮かんだ。


「……お前か」


 低く、重い声。

 周囲の職員たちが、一斉に動きを止めてこちらを見る。


「へっ、来ると思ってたぜ。『掃除屋』の嬢ちゃん」


 彼はニヤリと笑ったが、その目は笑っていなかった。

 以前、マンティコアの件で対峙した時と同じ、腹の底を探るような猛者の目だ。


「……お久しぶりです」


 私が会釈をすると、彼は顎で奥の部屋をしゃくった。


「ここは耳が多すぎる。こっちに来な。……その『相棒』様も一緒にな」


 彼の視線には、以前のような油断は微塵もない。

 ベルという存在が、猫の皮を被った災害であることを理解している者の目だ。

 私は大人しく従い、彼に続いて応接室へと入った。


 重厚な扉が閉められ、外の音が遮断される。

 ギルドマスターは椅子にどかりと腰を下ろし、私に前の椅子を勧めた。

 私が座ると、彼は深い溜息をつき、頭をガシガシと掻いた。


「さて、単刀直入に言うぞ」


 彼はテーブルの上に、ドンと一枚の羊皮紙を叩きつけた。


「北門の前に積み上げられてた素材の山。あれ、お前らがやったんだろ?」


 問いかけではなかった。確信を持った確認だ。

 私はフードを少し上げ、懐からベルを顔だけ出させた。


「はい。通り道が塞がっていたので、少し掃除をしました」


「……掃除、か。数千のスタンピードを吹き飛ばして、戦場をピカピカに磨き上げ、綺麗に解体された素材の山を作ることを、お前は掃除と呼ぶのか」


 彼は呆れたように鼻を鳴らした。


「現場を見たぜ。ありゃあ、普通の魔法使いの仕業じゃねえ。それこそ、御伽噺に出てくるような大魔法だ。あんな芸当ができるのは、この辺境じゃお前らしかいねえよ」


 彼はベルをじっと見た。

 ベルは「フン」と鼻を鳴らし、テーブルの上にあったクッキーを前足で引き寄せた。


「なんだ、人間。礼を言うために呼んだわけではあるまい?」


 ベルが人語を話しても、ギルドマスターは眉一つ動かさなかった。

 ただ、こめかみに一筋の汗が流れる。


「ああ、そうだ。用件は二つある」


 ギルドマスターは姿勢を正し、私に向き直った。


「一つ目。あの素材の件だ。ギルドで査定させてもらったが、とんでもねえ額になった。本来なら討伐者であるお前らのもんだ。ギルドとしては、これを全額買い取らせてもらう。さらに、今回の街防衛に対する報奨金も上乗せだ」


 彼が提示した金額は、王都に屋敷が数軒建つほどの大金だった。

 さらに、彼は懐から小箱を取り出した。


「それと、こいつだ。この街の名誉市民の証、そしてギルドの最高ランクであるSランク冒険者への昇格証だ。これを持っていれば、どこの国に行ってもVIP扱いだぜ?」


 金、名誉、地位。

 誰もが欲しがるものが、今、目の前に並べられている。

 だが、私は迷わず首を横に振った。


「……お断りします」


 ギルドマスターの片眉が跳ね上がった。


「全部か?」


「はい。すべてです」


 私は言葉を選びながら続けた。


「お金は、今の生活に十分なだけ持っています。これだけの大金を持っていても、管理が面倒なだけです。名誉や地位もいりません。私はただ、静かに暮らしたいだけなんです」


 Sランクになれば、国からの招集命令を拒否できなくなる。

 名誉市民になれば、貴族たちとの付き合いが発生する。

 それは、私が捨てたはずの「しがらみ」だ。


「素材については、街の皆さんで使ってください。復興の資金にするなり、怪我をした方々の治療費にするなり、好きにしていただいて構いません。ただし、一つだけ条件があります」


「条件、だと?」


「私の名前を出さないこと。そして、私たちの住処を探ろうとしないこと。……これが守られない場合、以前の約束通り、次は『掃除』ではなく、『撤去』をしに来ることになるかもしれません」


 私は精一杯の虚勢を張って、少し怖い顔を作ってみせた。

 膝の上のベルも、それに合わせて睨む。

 部屋の温度が数度下がったような錯覚。

 ギルドマスターの頬が、ピクリと引きつった。


「……『撤去』か。物騒なこと言いやがる」


 彼はハンカチで額を拭い、やれやれと息を吐いた。


「分かった。お前の意思は尊重する。素材はギルドで管理し、街の復興のために有効に使わせてもらう。お前らの正体についても、俺の権限で最高機密とし、詮索を禁じるよう手配してやる」


「ありがとうございます」


 私はほっと胸を撫で下ろした。

 話の分かる相手でよかった。


「だがな」


 彼は身を乗り出し、鋭い眼光で私を射抜いた。


「人の口に戸は立てられねえぞ。あれだけの奇跡を、数千の人間が目撃しちまったんだ。箝口令を敷いたところで、噂は風に乗って広がる。『白銀の聖女』だの『森の賢者』だの……連中は勝手に物語を作り上げ、お前を神輿に担ぎ上げようとするだろうよ」


「……困ります」


「ああ、困るだろうな。だが、それが大衆ってもんだ。恐怖から救われた時、人は縋るべき偶像を求める。お前は、それに相応しすぎた」


 ギルドマスターは苦々しげに言った。


「俺ができるのは、公式な記録に残さねえことと、直接的な干渉を防ぐことくらいだ。だが、遠くねえ未来、王都や教会の上層部が動き出す可能性がある。奴らは、自分たちの管理下にない強大な力を放置することを何より恐れるからな」


 王都。

 その言葉に、私の背筋が寒くなった。

 そこには、私を追放した元婚約者たちがいる。

 もし、彼らが私の生存を知ったら?

 あるいは、この強大な力が「追放された元令嬢」によるものだと知ったら?


「……その時は、その時です」


 私は拳を握りしめた。

 怯えて暮らすのはもう終わりだ。

 私にはベルがいる。

 自分の足で立ち、自分の手で掴んだ生活がある。

 誰にも、これを奪わせはしない。


「忠告、感謝します。ですが、私たちは森で生きます。誰が来ようと、私たちの平穏を乱すなら、全力で排除します」


「……へっ。頼もしいこった」


 ギルドマスターはニヤリと笑った。


「まあ、いいだろう。俺も、王都の堅苦しい連中よりは、お前のような気骨のある若者の方が好みだ。微力ながら、防波堤になってやるよ」


「よろしくお願いします。あ、それと」


 私は思い出したように付け加えた。


「もし、また珍しい食材が入ったら、教えてくださいね。代金は正規に支払いますから」


「ははは! これだけの大金を蹴っておいて、食材の心配かよ! お前という奴は、本当に……」


 彼は腹を抱えて豪快に笑った。

 重苦しい空気が霧散し、部屋に和やかな雰囲気が戻る。

 私たちは握手を交わし、ギルドを後にした。


 帰り道。

 私たちは人目を避けるように、裏路地を歩いていた。

 空はどんよりと曇り始め、再び雪がちらつき始めている。


「コレットよ」


 懐の中で、ベルがもぞもぞと動きながら言った。


「金、受け取っておけばよかったのではないか? あれば、もっと良いチーズが買えたぞ」


「いいえ。タダより高いものはありません。あの金を受け取ったら、対価として『自由』を支払うことになります」


「自由、か」


 ベルは鼻を鳴らした。


「我にとっては、食いたい時に食い、寝たい時に寝ることこそが自由だ。貴様と一緒にいると、その自由が制限されたり、逆に広がったりする気がする」


「それはどういう意味ですか?」


「意味などない。ただの感想だ。……だがまあ、あの狸親父の前で啖呵を切った貴様の顔は、悪くなかったぞ」


 それは、彼なりの最大の賛辞だった。

 私は嬉しくなり、懐越しに彼の頭を撫でた。


「ありがとうございます。ベルがいてくれたから、強気になれたんですよ」


「ふん。当然だ。我は最強だからな」


 私たちは笑い合い、足取りも軽く街の門を抜けた。

 背後で、街の喧騒が遠ざかっていく。

 聖女だの英雄だの、そんな称号は雪の中に埋もれてしまえばいい。

 私が欲しいのは、温かい暖炉と、美味しい食事、そして隣にいる相棒との時間だけだ。


 森に入ると、そこは静寂の世界だった。

 しんしんと降る雪が、すべての音を吸い込んでいく。

 私たちは、自分たちだけの王国へと帰っていく。

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