第二十七話:暴風と雨
視界が、翡翠色の魔力で埋め尽くされていた。
私の首元に巻き付いた、ほんの数キログラムしかないはずの小さな黒猫から放たれたのは、物理法則を嘲笑うかのような理不尽なエネルギーの奔流だった。
「――失せろ」
短く、冷徹に紡がれた言葉。
それが、世界の形を決定づける王の勅命となる。
次の瞬間、私たちの目の前に存在していた空気が、質量を持った壁となって前方へ弾け飛んだ。
音がない。
あまりの衝撃に、耳が音を捉えることを拒否したのかもしれない。
ただ、世界がねじれ、色が混ざり合い、そして弾き飛ばされる光景だけが、スローモーションのように網膜に焼き付いていく。
私の目の前で展開されたのは、局地的な災害そのものだった。
数千、いや万に届くであろう魔獣の群れ。
恐怖に駆られ、我先にと街へ雪崩れ込んでいた彼らが、横合いから殴りつけられたように吹き飛んでいく。
体重が数百キロはあるであろうキラーグリズリーが、枯れ葉のように舞い上がる。
鋼鉄の毛皮を持つアイアンボアが、小石のように転がっていく。
俊敏さを誇るフォレストウルフたちが、抵抗する間もなく空へと吸い込まれていく。
それは、斬撃による切断でも、爆発による粉砕でもない。
もっと原始的で、それゆえに抗いようのない「排除」だった。
テーブルの上に散らばったパン屑を、手のひらで無造作に払いのけるような。
そこに「命」があることなど意にも介さない、圧倒的強者による空間の掃除。
ゴオオオオオオオッ!!
遅れて、轟音が届く。
大気が悲鳴を上げている音だ。
ベルが作り出した風のトンネルは、魔獣たちを左右に押し分け、見えない壁となって彼らを閉じ込めていた。
私たちの進む道だけが、ぽっかりと空いている。
一直線に伸びるその道の先には、フロンティアの街の北門が見えていた。
私たちは、そのこじ開けられた回廊を滑るように疾走する。
左右には、風の壁に押し付けられ、身動きの取れなくなった魔獣たちが、驚愕と恐怖に染まった瞳でこちらを見つめていた。
彼らは理解できないだろう。
背後から迫る「何か」から逃げていたはずが、突如として現れた「もっと恐ろしい何か」によって、進行を阻まれたのだから。
「……すごいです、ベル」
私は風の中で、思わず呟いた。
その威力もさることながら、緻密な制御に舌を巻く。
これだけの暴風を巻き起こしながら、私の髪一本乱さない。
そして、魔獣たちを殺すのではなく、あくまで「道を開ける」ために弾き飛ばすことに徹している。
無駄な殺生を好まないという慈悲だろうか?
いや、違う。
彼の性格からして、もっと実利的な理由だろう。
「ふん。当然だ、なによりもチーズの入手が優先されるからな。それに、死体の山を作っては、通る時に邪魔になる。生きているなら勝手に逃げていくであろう」
そう、ベルが言うように、あくまで目的は「チーズを買うための道を作る」ことであり、魔獣の殲滅ではない。
私たちは風に乗り、あっという間に魔獣の群れの中央を突破した。
先頭集団、つまり街の城壁に最も近い場所にいた連中も、ベルの放った余波を受けて雪崩を打って倒れている。
城壁の上では、衛兵たちが槍や弓を構えたまま、彫像のように固まっていた。
彼らにしてみれば、悪夢のような光景だろう。
黒い津波が街を飲み込もうとした寸前、横合いから謎の竜巻が発生し、魔獣たちを吹き飛ばしてしまったのだから。
「止まるぞ、コレット」
ベルの合図で、風の勢いが緩む。
私は足裏の感覚を確かめるように、地面を踏みしめた。
ふわりと着地する。
場所は、街の北門から数百メートルほど離れた平原だ。
周囲には、吹き飛ばされて気絶した魔獣や、恐怖で腰を抜かして動けなくなった魔獣たちが散乱している。
とりあえずの脅威は去った。
スタンピードの勢いは、ベルの一撃によって完全に削がれた形だ。
「ふぅ……。どうにか、間に合ったようですね」
私は乱れた前髪を手で直し、街の様子をうかがった。
城壁に損傷はない。門も無事だ。
ということは、街の中の商店も無事である可能性が高い。
チーズへの希望がつながったことに、私は安堵の息を漏らす。
今日の夕食は、予定通りカルボナーラにありつけそうだ。
「うむ。邪魔なゴミ掃除も終わった。さあ、行くぞコレット。チーズが我を呼んでいる。店が閉まる前にさっさと行くぞ」
ベルは私の肩の上で身を乗り出した。
その瞳はすでに、まだ見ぬチーズのことでいっぱいのようだ。
だが、私はその場から一歩も動けなかった。
眉をひそめ、口元を手で覆い、周囲を見渡す。
「……待ってください、ベル」
「あ? なんだ、まだ何かあるのか?」
「このままでは行けません。見てください、この惨状を」
私は周囲を手のひらで示した。
そこにあるのは、単なる「通り道」とは言い難い、悲惨で不衛生な光景だった。
ベルの風魔法は、確かに魔獣たちを排除した。
しかし、その過程で多くの魔獣が互いにぶつかり合い、傷を負っている。
雪原はあちこちで赤黒い血に染まり、千切れた毛皮や肉片が散乱していた。
さらに悪いことに、極度の恐怖状態にあった魔獣たちは、生理現象を制御できずに、その場で脱糞や嘔吐をしてしまっている個体も多い。
風が止んだ今、鼻をつくような強烈な悪臭が立ち込め始めていた。
鉄錆のような血の匂い。
獣の体臭。
そして、排泄物の酸っぱい匂い。
それらが入り混じり、冷たい空気に乗って濃厚に漂っている。
「……汚いです」
私の口から、率直な感想が漏れた。
元公爵令嬢としての美意識が、という高尚な話ではない。
森で暮らす一人の生活者として、この不衛生極まりない状況を見過ごせなかったのだ。
ここは街のすぐ近くだ。
このまま放置すれば、腐敗が進み、悪臭が街を覆うだろう。
それだけではない。
腐肉に群がるハエやネズミが媒介となり、疫病が発生するリスクもある。
雪解け水と共に汚物が地下に染み込めば、街の井戸水が汚染される可能性だって否定できない。
「こんな汚れた場所を通って買い物に行くなんて、生理的に無理です。靴が汚れますし、この匂いがコートについたら最悪です」
「む……」
ベルは嫌そうな顔で、ピクリと耳を動かした。
彼もまた、猫の姿をしているときは特に、綺麗好きだ。
自身の美しい黒毛を汚すことを極端に嫌う彼にとっても、この血と泥と排泄物の混じった雪原は、快適な通り道とは言い難いだろう。
彼は私の肩の上で器用に足を上げ、汚れた雪に触れるのを嫌がっている。
「……仕方あるまい。だが、どうする? 燃やすか? 火魔法で一帯を灰にすれば、消毒にはなるが」
「街のそばでそんなことをしたら、火事になります。それに、焦げ臭いのも嫌です」
私は首を横に振った。
ベルの解決策はいつも極端で破壊的だ。
「必要なのは破壊ではなく、浄化です。洗い流して、きれいにする。それだけです」
「ならば貴様がやればよかろう。得意の水魔法とやらで」
「……無理です」
私は即答した。
悔しいが、事実だ。
「洗濯桶の中の水を操るのと、平原全体を洗うのとではわけが違います。私みたいな生活魔法レベルの魔力量じゃ、この広大な土地を浄化するなんて、百年かかっても終わりません」
私の魔法は、あくまで「生活」のためのものだ。
汚れを分離する技術は持っているが、それを実現するためのエネルギー源、つまりMPが圧倒的に足りない。
軽自動車のエンジンで、巨大タンカーを動かそうとするようなものだ。
「……ちっ。使えん奴だ」
ベルは舌打ちをする。
そして、面倒くさそうに尻尾を振った。
「ならば、我がやる」
「え? ベルが、ですか?」
「黙って見ておれ。貴様の日々の細々とした所作、飽きるほど見せつけられてきたのだからな」
ベルは私の肩の上ですっくと立ち上がった。
そして、傲然と平原を見渡した。
「毎日のように布切れを水に浸し、汚れだけを浮かせて引き剥がす。あのチマチマとした、神経質な魔力操作だろう? 原理は単純だ」
まさか。
私は息を呑んだ。
彼は、私の生活魔法――洗濯の工程を、ただ見ていただけで再現しようというのか。
魔法というのは、個人の資質やイメージに深く依存する。
他人の魔法、それも適性の異なる魔法を、見様見真似で行使するなど、常識ではあり得ない。
だが、相手は伝説の魔獣だ。常識で測ってはいけないのだろう。
「要は、ここにある『汚いもの』と『それ以外』を選り分ければよいのだろう? 我にかかれば造作もないことだ」
彼の体から、凄まじいプレッシャーが放たれた。
もちろん、そのプレッシャーとは、純粋な魔力の塊だ。
水魔法。いつも私の使っている魔力がコップ一杯の水だとすれば、ベルのそれは決壊したダムの濁流だ。
「見ているがいい、コレット。これが王の『洗濯』だ」
ベルが前足を、トン、と私の肩に打ち付けた。
その瞬間、世界が変わった。
雲ひとつない晴天だったはずの頭上が、一瞬にして深い蒼色に染まる。
大気中の水分が、数キロメートル四方から強制的に徴収され、圧縮されていく。
空気が重くなる。
肌にまとわりつくような湿気。
それは、私の魔法とは規模が違いすぎる。
「降り注げ」
王の命令と共に、世界が水に閉ざされた。
ザアアアアアアアッ!!
豪雨。
いや、それは天が裂けて湖が落ちてきたかのような、圧倒的な水量だった。
猛烈な雨が、平原全体を叩く。
だが、驚くべきことに、その雨粒一つ一つが、私の魔法と同じ性質を帯びていた。
冷たくない。
人肌の温度に保たれた、優しい洗浄水だ。
ベルは、私の魔法の構成を完全にコピーし、それを自身の膨大な魔力で拡大再生産してのけたのだ。
凍てついた雪が一瞬で溶け、地面にへばりついた血糊がふやけて浮き上がる。
だが、ベルの「真似」はそれだけでは終わらなかった。
「分離せよ」
彼が再び言葉を紡ぐと、平原全体を覆う水が、巨大な意思を持った生き物のように動き始めた。
ゴウゴウと音を立てて渦を巻く。
それはまるで、大地そのものを洗濯槽に見立てたかのような光景だった。
濁流の中で、私のイメージ通りに、しかし私の想像を遥かに超える速度で選別が行われていく。
汚れは水に溶け、素材は膜に包まれる。
その制御の精密さに、私は戦慄した。
あれだけの水量を操りながら、彼は雪の下の草一本傷つけていない。
ただ、そこにある「不快なもの」だけを、外科手術のように正確に取り除いているのだ。
渦の中心で、汚水が圧縮され、球体となって空中に浮かび上がる。
一方で、きれいに洗われた魔獣の素材――毛皮、牙、肉塊――は、種類ごとに分類され、水のベルトコンベアに乗せられて、道の脇へと積み上げられていく。
そして、空中に集められた巨大な汚水の球体。
それは直径数十メートルはあるだろうか。真っ黒な塊だ。
「消えろ」
ベルが一言。
汚水の球体が、きゅっと圧縮され、次の瞬間、閃光と共に弾け飛んだ。
蒸発したのではない。
分解されたのだ。
水魔法と風魔法の複合だろうか。汚水はすべて瞬時に、透明な水蒸気となって空へと霧散した。
数分後。
唐突に雨が止んだ。
空を覆っていた魔力の余波が霧散し、再び太陽が顔を出す。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
赤黒く染まり、悪臭を放っていた雪原は、生まれたてのように真っ白に輝いている。
空気は澄み渡り、まるで高原の朝のような清々しさだ。
そして街道の脇には、見上げるような高さの「素材の山」が築かれていた。
銀色に輝くフォレストウルフの毛皮タワー。
白く磨き上げられたアイアンボアの牙タワー。
そして、真空パックのように水の膜で個包装された、新鮮な肉の山。
「……やりすぎです」
私は乾いた笑い声を漏らすしかなかった。
きれいになったのは嬉しいが、これでは「掃除」というより「地形の書き換え」に近い。
私の生活魔法を真似ただけで、これほどの現象を引き起こすとは。
やはり、この黒猫は規格外だ。
「ふぅ……。貴様の魔法は、無駄に工程が多くて疲れるな。もっと単純に消し飛ばせば早かったものを」
ベルは、前足を舐めて毛繕いを始めた。
口では文句を言いながらも、彼にとっては、少し頭を使ったパズル遊び程度だったのだろう。
「でも、おかげで通れます。ありがとうございます、ベル」
「礼などいらん。さっさと行くぞ。チーズが待っている」
私たちは、浄化されたばかりの白く輝く道を進み始めた。
靴底が汚れる心配はもうない。
その時だった。
ギギギ……と重たい音がして、固く閉ざされていた街の北門が、ゆっくりと開かれた。
中から、恐る恐るといった様子で、数名の衛兵と、武装した冒険者たちが姿を現した。
彼らは周囲を見回し、目を丸くしている。
無理もない。
つい先ほどまで、街を滅ぼす勢いで迫っていた魔獣の大群が消え失せ、代わりにきれいに整頓された素材の山があるのだから。
そして、その中心に立っているのは、買い物かごを持った若い女と、一匹の黒猫だけ。
「あ、あの……」
隊長格らしき初老の男性が、震える声で話しかけてきた。
彼は私の顔と、背後の素材の山を交互に見ている。
その目は、まるで神話の生き物を見るかのように怯え、同時にすがっていた。
「こ、これは、一体……? スタンピードは……魔獣たちは……?」
私は困った。
この状況をどう説明すればいいのか。
「猫が私の魔法を真似てやりました」と言っても、誰も信じないだろう。
かといって、私がやったことにするのは気が引ける。
すると、ベルが私の耳元で、私にしか聞こえない声で囁いた。
「おいコレット。面倒だ。適当にごまかせ。我らの目的は買い物だ。長話をすれば、チーズが逃げるぞ」
チーズが逃げることはないと思うが、時間は惜しい。
私は覚悟を決めた。
とりあえず、当たり障りのないことを言って、さっさと通り過ぎよう。
私は貴族令嬢時代に培った、相手を煙に巻くための「社交用」の微笑みを浮かべた。
「通り道を掃除させていただきました。少々散らかっていたものですから」
私の言葉に、衛兵たちの口がぽかんと開いた。
掃除。
数千の魔獣の暴走を鎮圧し、死骸処理まで完璧に行うことを、この少女は「掃除」と言ったのか。
彼らの顔に、畏怖と困惑が混ざり合う。
「そ、掃除……? たった二人で、これだけの数を……?」
「信じられん……あの風、そしてこの雨……」
「もしかして、彼女は噂の……」
ざわざわと、彼らの間でささやき声が広がる。
その視線には、明らかな「崇拝」というものすら感じられた。
まずい。
これは非常にまずい流れだ。
彼らは完全に勘違いしている。
この大規模魔法を行使したのは、私の首元に巻き付いている猫なのに、彼らの目は私に釘付けだ。
まあ、常識的に考えて、猫が魔法を使ったとは思わないだろう。
結果として、私が「凄腕の魔法使い」だと思われてしまっている。
私はただの、森でスローライフを送りたい一般人だ。
英雄扱いなどされたら、平穏な生活が脅かされる。
面倒な依頼を押し付けられたり、権力争いに巻き込まれたりするのは御免だ。
私は素材の山を指差した。
「そちらの素材は、街の皆さんで使ってください。迷惑料代わりです」
「えっ? い、いいのですか!? これだけの量、金貨に換算すれば莫大な額に……」
「構いません。持ち帰るには重すぎますし、私たちは急いでいますので」
私は彼らの言葉を遮り、早口で告げた。
もったいない気もするが、これを換金しようとすれば、ギルドで手続きが必要になる。
そうなれば身元を詳しく聞かれるし、時間もかかる。
今は一刻も早く、この場を離れ、チーズを手に入れたいのだ。
「さあ、ベル。行きますよ」
「うむ。賢明な判断だ。肉よりチーズだ」
私は呆然とする衛兵たちの横をすり抜け、堂々と街の中へと足を踏み入れた。
背後から、「あ、あの方はいったい……」「もしかして、伝説の聖女様では……?」「いや、水の精霊の愛し子か?」といった声が聞こえてくるが、聞こえないふりをする。
聖女でも愛し子でもない。
ただの暴虐な黒猫と、その飼い主?だ。
街の中は、まだ混乱の余韻が色濃く残っていた。
多くの店は雨戸を固く閉ざし、通りには避難しようとしていた人々の荷物が散乱している。
子供の泣き声や、家族を呼ぶ声。
だが、魔獣の侵入を防げたという情報が伝わり始めたのか、少しずつ人々が家から顔を出し、安堵の表情を浮かべ始めていた。
私たちが通りを歩くと、人々が道を開ける。
先ほどの衛兵たちの反応を見ていたのか、それとも私の連れている黒猫の雰囲気に何かを感じ取ったのか、遠巻きに眺めるような視線を感じる。
「……店、開いているでしょうか」
私は人々の視線を無視し、不安になりながら馴染みの食材店へと急いだ。
大通りを抜け、少し奥まった路地裏へ。
そこにある、小さな食料品店。
看板には「輸入食材・雑貨」の文字。
店の扉は……閉まっている。
だが、耳を澄ますと、中からガタガタと物音がする。
コンコン、とノックをする。
「すみませーん。営業していますか?」
返事がない。
もう一度、強くノックする。
「あのー! チーズを買いたいのですが! お金ならあります!」
すると、ドタドタという慌ただしい足音が近づいてきて、扉が少しだけ開いた。
隙間から、店主の親父さんが顔を覗かせる。
彼は顔面蒼白で、手には護身用の棍棒を握りしめていた。
どうやら、魔獣が押し入ってきたと思って警戒していたらしい。
「お、お客さん……? あんた、正気か? 外じゃスタンピードが起きてるって騒ぎだぞ! 買い物どころじゃ……」
「そのスタンピードなら、もう終わりましたよ」
私はにっこりと、営業用の笑みを浮かべて言った。
「え?」
「全部片付きました。外は安全です。衛兵さんたちも確認済みですよ。それより、ハードチーズの塊はありますか? あと、パスタと、オリーブオイルも補充したいんですけど」
店主は狐につままれたような顔をしている。
無理もない。
世界の終わりのような騒ぎの最中に、のんきにチーズを買いに来た客など、狂人に見えても仕方がない。
「……終わった? 本当に?」
「はい。私の使い魔が見てきましたから、間違いありません」
私の首元で生きるマフラーと化している、ベルを指さす。
店主は半信半疑ながらも、私のあまりに日常的な態度に毒気を抜かれたのか、ゆっくりと扉を開けた。
棍棒を下ろし、大きくため息をつく。
「……はぁ。あんた、相変わらず肝が太いねぇ。まあいい、商売になるなら開けるさ。金貨の輝きに勝る恐怖はないってな」
彼はカウンターへと戻り、奥の棚をあさり始めた。
「チーズだな? いいのが入ってるよ。北の山岳地帯で作られた、長期熟成のパルミジャーノだ。こいつは高いぞ?」
「それを全部ください」
「全部!?」
店主が目を丸くする。
「ええ。冬ごもり用です。あるだけ全部。それと、ベーコン用のバラ肉もあれば」
私の注文に、店主は呆れつつも、商売人の顔に戻って嬉しそうに在庫を出してくれた。
大きな円盤状のチーズ。
表面には熟成を示す刻印があり、ずしりと重い。
これだ。
これがあれば、ベルも満足するだろう。
「でかした、コレット。その芳しい香り……合格だ」
私の暖かいマフラーと化しているベルが、鼻をヒクヒクさせている。
どうやら、王のお眼鏡にかなったようだ。
私はチーズの他にも、小麦粉や調味料、乾燥野菜などを買い込んだ。
店主は手際よく包んでくれながら、恐る恐る外の様子を尋ねてきた。
「本当に、魔獣たちは来ないのか?」
「ええ。北門の前に、素材の山ができていますから、あとでギルドの人たちが回収に来ると思いますよ。街は救われました」
「素材の山……? まあ、あんたが言うなら信じるよ。いつも不思議なもんを持ち込んでくるからな」
店主は苦笑し、サービスだと言ってドライフルーツの小袋をくれた。
私は礼を言い、代金を支払って店を出た。
外に出ると、街の雰囲気は劇的に変わり始めていた。
北門の方から、歓声が聞こえてくる。
どうやら、衛兵たちが事態の収束を正式に宣言し、あの素材の山を公開したらしい。
「奇跡だ」「誰がやったんだ」「女神の御業か」という声が、風に乗って聞こえてくる。
人々が通りに溢れ出し、互いに抱き合って喜んでいる。
その熱気が、冷たい冬の空気を温めているようだ。
「……急いで帰りましょう、ベル」
私はフードを目深に被り直した。
これ以上ここにいては、騒ぎの中心に巻き込まれかねない。
「うむ。長居は無用だ。チーズの鮮度が落ちる前に、調理にかからねばならん。我の腹は限界だ」
私たちは人目を避けるように、裏道を通って街の出口へと向かった。
背後で、私のことを「白銀の聖女ではないか」「いや、あれは風の精霊王の化身だ」などと噂する声が大きくなっている気がしたが、全力で聞かなかったことにする。
聖女でも精霊王でもない。
ただの、チーズ好きの同居人だ。
帰り道も、ベルの風魔法による快適な空の旅だった。
行きとは違い、私の背中のリュックには、重たいチーズの塊が入っている。
その重みこそが、幸福の重みだ。
夕暮れの迫る空の下、私たちは無言で、しかし満ち足りた気分で、森への帰路を滑空した。
眼下には、平和を取り戻した街と、きれいに浄化された平原が広がっていた。
教会に帰り着いた頃には、空は茜色に染まりかけていた。
頑丈な扉を開けると、暖炉の火はまだ消えておらず、部屋の中はほんのりと暖かかった。
我が家だ。
あの騒動の後だと、この静けさが何よりも愛おしい。
私はコートを脱ぐのももどかしく、すぐにキッチンに立った。
買ってきたばかりのチーズを、専用のおろし金で削る。
雪のような白い粉が、山盛りに積み上がる。
その香りは濃厚で、食欲を強烈に刺激する。
鍋に湯を沸かし、パスタを投入する。
フライパンでは、刻んだ猪肉をじっくりと炒める。
脂が溶け出し、肉がカリカリになるまで。
そこへ、茹で上がったパスタと、茹で汁を少々。
火を止め、卵黄とチーズを混ぜ合わせたソースを一気に絡める。
余熱で卵に火を通し、とろりとしたクリーム状にするのがコツだ。
最後に、黒胡椒をたっぷりと挽く。
完成だ。
黄金色に輝くカルボナーラ。
濃厚な香りが、部屋中に広がる。
「……美しい」
テーブルの上で、ベルが前足を揃え、目を輝かせて皿を見つめていた。
その姿は、神に祈りを捧げる信徒のようだ。
「これだ。この黄金色の輝き。苦労した甲斐があったというものだ」
「苦労したのは、ほとんど魔獣たちと、私の指先ですけどね」
私は苦笑しながら、自分の分の皿を持って席についた。
フォークでパスタを巻き取り、口に運ぶ。
……美味しい。
濃厚な卵とチーズのコク。
熟成された猪肉の塩気と旨味。
そして黒胡椒のピリッとした刺激。
それらが口の中で渾然一体となり、爆発的な幸福感となって脳を揺らす。
歩き回った疲れも、魔力を使った倦怠感も、一瞬で吹き飛ぶようだ。
「うまい! うまいぞコレット! やはりチーズは偉大だ! あの邪魔な獣どもを排除して正解だった!」
ベルはガツガツと皿に顔を突っ込みながら、絶賛の言葉を並べ立てた。
口の周りを黄色いソースで汚しながら、一心不乱に食べるその姿を見ていると、今日の出来事がまるで些細なことのように思えてくる。
数千の魔獣を吹き飛ばしたことも。
街を救ってしまったことも。
すべては、この一皿のためだったのだと思えば、不思議と納得がいった。
窓の外では、再び静かな夜が訪れようとしていた。
空には一番星が輝いている。
私の平穏な生活は、どうやら守られたようだ。
少なくとも、チーズの在庫がある間は。
だが、私はまだ知らなかった。
今日、私が何気なく行った「掃除」が、フロンティアの街だけでなく、遠く王都にまで届く噂の種になってしまったことを。
「白銀の聖女」「風の精霊使い」「慈悲深き殲滅者」。
そんな大層な二つ名と共に、私の存在が人々の口に上り始めていることを。
そして、その噂が、かつて私を追放した人々の耳にも、やがて届くことになるということを。
今はただ、満腹になって丸くなったベルの寝息を聞きながら、食後の温かい紅茶を啜る幸せに浸っていた。
暖炉の火が、パチリと爆ぜた。
それは、長い冬の夜の、穏やかな幕開けの音だった。




