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追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第六章:王の憤怒と白日の栄誉

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第二十七話:暴風と雨

 視界が、翡翠色の魔力で埋め尽くされていた。

 私の首元に巻き付いた、ほんの数キログラムしかないはずの小さな黒猫から放たれたのは、物理法則を嘲笑うかのような理不尽なエネルギーの奔流だった。


「――失せろ」


 短く、冷徹に紡がれた言葉。

 それが、世界の形を決定づける王の勅命となる。

 次の瞬間、私たちの目の前に存在していた空気が、質量を持った壁となって前方へ弾け飛んだ。


 音がない。

 あまりの衝撃に、耳が音を捉えることを拒否したのかもしれない。

 ただ、世界がねじれ、色が混ざり合い、そして弾き飛ばされる光景だけが、スローモーションのように網膜に焼き付いていく。


 私の目の前で展開されたのは、局地的な災害そのものだった。

 数千、いや万に届くであろう魔獣の群れ。

 恐怖に駆られ、我先にと街へ雪崩れ込んでいた彼らが、横合いから殴りつけられたように吹き飛んでいく。

 体重が数百キロはあるであろうキラーグリズリーが、枯れ葉のように舞い上がる。

 鋼鉄の毛皮を持つアイアンボアが、小石のように転がっていく。

 俊敏さを誇るフォレストウルフたちが、抵抗する間もなく空へと吸い込まれていく。


 それは、斬撃による切断でも、爆発による粉砕でもない。

 もっと原始的で、それゆえに抗いようのない「排除」だった。

 テーブルの上に散らばったパン屑を、手のひらで無造作に払いのけるような。

 そこに「命」があることなど意にも介さない、圧倒的強者による空間の掃除。


 ゴオオオオオオオッ!!


 遅れて、轟音が届く。

 大気が悲鳴を上げている音だ。

 ベルが作り出した風のトンネルは、魔獣たちを左右に押し分け、見えない壁となって彼らを閉じ込めていた。

 私たちの進む道だけが、ぽっかりと空いている。

 一直線に伸びるその道の先には、フロンティアの街の北門が見えていた。


 私たちは、そのこじ開けられた回廊を滑るように疾走する。

 左右には、風の壁に押し付けられ、身動きの取れなくなった魔獣たちが、驚愕と恐怖に染まった瞳でこちらを見つめていた。

 彼らは理解できないだろう。

 背後から迫る「何か」から逃げていたはずが、突如として現れた「もっと恐ろしい何か」によって、進行を阻まれたのだから。


「……すごいです、ベル」


 私は風の中で、思わず呟いた。

 その威力もさることながら、緻密な制御に舌を巻く。

 これだけの暴風を巻き起こしながら、私の髪一本乱さない。

 そして、魔獣たちを殺すのではなく、あくまで「道を開ける」ために弾き飛ばすことに徹している。

 無駄な殺生を好まないという慈悲だろうか?

 いや、違う。

 彼の性格からして、もっと実利的な理由だろう。


「ふん。当然だ、なによりもチーズの入手が優先されるからな。それに、死体の山を作っては、通る時に邪魔になる。生きているなら勝手に逃げていくであろう」


 そう、ベルが言うように、あくまで目的は「チーズを買うための道を作る」ことであり、魔獣の殲滅ではない。

 私たちは風に乗り、あっという間に魔獣の群れの中央を突破した。

 先頭集団、つまり街の城壁に最も近い場所にいた連中も、ベルの放った余波を受けて雪崩を打って倒れている。

 城壁の上では、衛兵たちが槍や弓を構えたまま、彫像のように固まっていた。

 彼らにしてみれば、悪夢のような光景だろう。

 黒い津波が街を飲み込もうとした寸前、横合いから謎の竜巻が発生し、魔獣たちを吹き飛ばしてしまったのだから。


「止まるぞ、コレット」


 ベルの合図で、風の勢いが緩む。

 私は足裏の感覚を確かめるように、地面を踏みしめた。

 ふわりと着地する。

 場所は、街の北門から数百メートルほど離れた平原だ。

 周囲には、吹き飛ばされて気絶した魔獣や、恐怖で腰を抜かして動けなくなった魔獣たちが散乱している。

 とりあえずの脅威は去った。

 スタンピードの勢いは、ベルの一撃によって完全に削がれた形だ。


「ふぅ……。どうにか、間に合ったようですね」


 私は乱れた前髪を手で直し、街の様子をうかがった。

 城壁に損傷はない。門も無事だ。

 ということは、街の中の商店も無事である可能性が高い。

 チーズへの希望がつながったことに、私は安堵の息を漏らす。

 今日の夕食は、予定通りカルボナーラにありつけそうだ。


「うむ。邪魔なゴミ掃除も終わった。さあ、行くぞコレット。チーズが我を呼んでいる。店が閉まる前にさっさと行くぞ」


 ベルは私の肩の上で身を乗り出した。

 その瞳はすでに、まだ見ぬチーズのことでいっぱいのようだ。

 だが、私はその場から一歩も動けなかった。

 眉をひそめ、口元を手で覆い、周囲を見渡す。


「……待ってください、ベル」


「あ? なんだ、まだ何かあるのか?」


「このままでは行けません。見てください、この惨状を」


 私は周囲を手のひらで示した。

 そこにあるのは、単なる「通り道」とは言い難い、悲惨で不衛生な光景だった。


 ベルの風魔法は、確かに魔獣たちを排除した。

 しかし、その過程で多くの魔獣が互いにぶつかり合い、傷を負っている。

 雪原はあちこちで赤黒い血に染まり、千切れた毛皮や肉片が散乱していた。

 さらに悪いことに、極度の恐怖状態にあった魔獣たちは、生理現象を制御できずに、その場で脱糞や嘔吐をしてしまっている個体も多い。

 風が止んだ今、鼻をつくような強烈な悪臭が立ち込め始めていた。

 鉄錆のような血の匂い。

 獣の体臭。

 そして、排泄物の酸っぱい匂い。

 それらが入り混じり、冷たい空気に乗って濃厚に漂っている。


「……汚いです」


 私の口から、率直な感想が漏れた。

 元公爵令嬢としての美意識が、という高尚な話ではない。

 森で暮らす一人の生活者として、この不衛生極まりない状況を見過ごせなかったのだ。

 ここは街のすぐ近くだ。

 このまま放置すれば、腐敗が進み、悪臭が街を覆うだろう。

 それだけではない。

 腐肉に群がるハエやネズミが媒介となり、疫病が発生するリスクもある。

 雪解け水と共に汚物が地下に染み込めば、街の井戸水が汚染される可能性だって否定できない。


「こんな汚れた場所を通って買い物に行くなんて、生理的に無理です。靴が汚れますし、この匂いがコートについたら最悪です」


「む……」


 ベルは嫌そうな顔で、ピクリと耳を動かした。

 彼もまた、猫の姿をしているときは特に、綺麗好きだ。

 自身の美しい黒毛を汚すことを極端に嫌う彼にとっても、この血と泥と排泄物の混じった雪原は、快適な通り道とは言い難いだろう。

 彼は私の肩の上で器用に足を上げ、汚れた雪に触れるのを嫌がっている。


「……仕方あるまい。だが、どうする? 燃やすか? 火魔法で一帯を灰にすれば、消毒にはなるが」


「街のそばでそんなことをしたら、火事になります。それに、焦げ臭いのも嫌です」


 私は首を横に振った。

 ベルの解決策はいつも極端で破壊的だ。


「必要なのは破壊ではなく、浄化です。洗い流して、きれいにする。それだけです」


「ならば貴様がやればよかろう。得意の水魔法とやらで」


「……無理です」


 私は即答した。

 悔しいが、事実だ。


「洗濯桶の中の水を操るのと、平原全体を洗うのとではわけが違います。私みたいな生活魔法レベルの魔力量じゃ、この広大な土地を浄化するなんて、百年かかっても終わりません」


 私の魔法は、あくまで「生活」のためのものだ。

 汚れを分離する技術は持っているが、それを実現するためのエネルギー源、つまりMPが圧倒的に足りない。

 軽自動車のエンジンで、巨大タンカーを動かそうとするようなものだ。


「……ちっ。使えん奴だ」


 ベルは舌打ちをする。

 そして、面倒くさそうに尻尾を振った。


「ならば、我がやる」


「え? ベルが、ですか?」


「黙って見ておれ。貴様の日々の細々とした所作、飽きるほど見せつけられてきたのだからな」


 ベルは私の肩の上ですっくと立ち上がった。

 そして、傲然と平原を見渡した。


「毎日のように布切れを水に浸し、汚れだけを浮かせて引き剥がす。あのチマチマとした、神経質な魔力操作だろう? 原理は単純だ」


 まさか。

 私は息を呑んだ。

 彼は、私の生活魔法――洗濯の工程を、ただ見ていただけで再現しようというのか。

 魔法というのは、個人の資質やイメージに深く依存する。

 他人の魔法、それも適性の異なる魔法を、見様見真似で行使するなど、常識ではあり得ない。

 だが、相手は伝説の魔獣だ。常識で測ってはいけないのだろう。


「要は、ここにある『汚いもの』と『それ以外』を選り分ければよいのだろう? 我にかかれば造作もないことだ」


 彼の体から、凄まじいプレッシャーが放たれた。

 もちろん、そのプレッシャーとは、純粋な魔力の塊だ。

 水魔法。いつも私の使っている魔力がコップ一杯の水だとすれば、ベルのそれは決壊したダムの濁流だ。


「見ているがいい、コレット。これが王の『洗濯』だ」


 ベルが前足を、トン、と私の肩に打ち付けた。

 その瞬間、世界が変わった。


 雲ひとつない晴天だったはずの頭上が、一瞬にして深い蒼色に染まる。

 大気中の水分が、数キロメートル四方から強制的に徴収され、圧縮されていく。

 空気が重くなる。

 肌にまとわりつくような湿気。

 それは、私の魔法とは規模が違いすぎる。


「降り注げ」


 王の命令と共に、世界が水に閉ざされた。


 ザアアアアアアアッ!!


 豪雨。

 いや、それは天が裂けて湖が落ちてきたかのような、圧倒的な水量だった。

 猛烈な雨が、平原全体を叩く。

 だが、驚くべきことに、その雨粒一つ一つが、私の魔法と同じ性質を帯びていた。

 冷たくない。

 人肌の温度に保たれた、優しい洗浄水だ。

 ベルは、私の魔法の構成を完全にコピーし、それを自身の膨大な魔力で拡大再生産してのけたのだ。


 凍てついた雪が一瞬で溶け、地面にへばりついた血糊がふやけて浮き上がる。

 だが、ベルの「真似」はそれだけでは終わらなかった。


「分離せよ」


 彼が再び言葉を紡ぐと、平原全体を覆う水が、巨大な意思を持った生き物のように動き始めた。

 ゴウゴウと音を立てて渦を巻く。

 それはまるで、大地そのものを洗濯槽に見立てたかのような光景だった。


 濁流の中で、私のイメージ通りに、しかし私の想像を遥かに超える速度で選別が行われていく。

 汚れは水に溶け、素材は膜に包まれる。

 その制御の精密さに、私は戦慄した。

 あれだけの水量を操りながら、彼は雪の下の草一本傷つけていない。

 ただ、そこにある「不快なもの」だけを、外科手術のように正確に取り除いているのだ。


 渦の中心で、汚水が圧縮され、球体となって空中に浮かび上がる。

 一方で、きれいに洗われた魔獣の素材――毛皮、牙、肉塊――は、種類ごとに分類され、水のベルトコンベアに乗せられて、道の脇へと積み上げられていく。


 そして、空中に集められた巨大な汚水の球体。

 それは直径数十メートルはあるだろうか。真っ黒な塊だ。


「消えろ」


 ベルが一言。

 汚水の球体が、きゅっと圧縮され、次の瞬間、閃光と共に弾け飛んだ。

 蒸発したのではない。

 分解されたのだ。

 水魔法と風魔法の複合だろうか。汚水はすべて瞬時に、透明な水蒸気となって空へと霧散した。


 数分後。

 唐突に雨が止んだ。

 空を覆っていた魔力の余波が霧散し、再び太陽が顔を出す。


 そこには、信じがたい光景が広がっていた。

 赤黒く染まり、悪臭を放っていた雪原は、生まれたてのように真っ白に輝いている。

 空気は澄み渡り、まるで高原の朝のような清々しさだ。

 そして街道の脇には、見上げるような高さの「素材の山」が築かれていた。

 銀色に輝くフォレストウルフの毛皮タワー。

 白く磨き上げられたアイアンボアの牙タワー。

 そして、真空パックのように水の膜で個包装された、新鮮な肉の山。


「……やりすぎです」


 私は乾いた笑い声を漏らすしかなかった。

 きれいになったのは嬉しいが、これでは「掃除」というより「地形の書き換え」に近い。

 私の生活魔法を真似ただけで、これほどの現象を引き起こすとは。

 やはり、この黒猫は規格外だ。


「ふぅ……。貴様の魔法は、無駄に工程が多くて疲れるな。もっと単純に消し飛ばせば早かったものを」


 ベルは、前足を舐めて毛繕いを始めた。

 口では文句を言いながらも、彼にとっては、少し頭を使ったパズル遊び程度だったのだろう。


「でも、おかげで通れます。ありがとうございます、ベル」


「礼などいらん。さっさと行くぞ。チーズが待っている」


 私たちは、浄化されたばかりの白く輝く道を進み始めた。

 靴底が汚れる心配はもうない。


 その時だった。

 ギギギ……と重たい音がして、固く閉ざされていた街の北門が、ゆっくりと開かれた。

 中から、恐る恐るといった様子で、数名の衛兵と、武装した冒険者たちが姿を現した。

 彼らは周囲を見回し、目を丸くしている。

 無理もない。

 つい先ほどまで、街を滅ぼす勢いで迫っていた魔獣の大群が消え失せ、代わりにきれいに整頓された素材の山があるのだから。

 そして、その中心に立っているのは、買い物かごを持った若い女と、一匹の黒猫だけ。


「あ、あの……」


 隊長格らしき初老の男性が、震える声で話しかけてきた。

 彼は私の顔と、背後の素材の山を交互に見ている。

 その目は、まるで神話の生き物を見るかのように怯え、同時にすがっていた。


「こ、これは、一体……? スタンピードは……魔獣たちは……?」


 私は困った。

 この状況をどう説明すればいいのか。

 「猫が私の魔法を真似てやりました」と言っても、誰も信じないだろう。

 かといって、私がやったことにするのは気が引ける。


 すると、ベルが私の耳元で、私にしか聞こえない声で囁いた。


「おいコレット。面倒だ。適当にごまかせ。我らの目的は買い物だ。長話をすれば、チーズが逃げるぞ」


 チーズが逃げることはないと思うが、時間は惜しい。

 私は覚悟を決めた。

 とりあえず、当たり障りのないことを言って、さっさと通り過ぎよう。

 私は貴族令嬢時代に培った、相手を煙に巻くための「社交用」の微笑みを浮かべた。


「通り道を掃除させていただきました。少々散らかっていたものですから」


 私の言葉に、衛兵たちの口がぽかんと開いた。

 掃除。

 数千の魔獣の暴走を鎮圧し、死骸処理まで完璧に行うことを、この少女は「掃除」と言ったのか。

 彼らの顔に、畏怖と困惑が混ざり合う。


「そ、掃除……? たった二人で、これだけの数を……?」


「信じられん……あの風、そしてこの雨……」


「もしかして、彼女は噂の……」


 ざわざわと、彼らの間でささやき声が広がる。

 その視線には、明らかな「崇拝」というものすら感じられた。

 まずい。

 これは非常にまずい流れだ。

 彼らは完全に勘違いしている。

 この大規模魔法を行使したのは、私の首元に巻き付いている猫なのに、彼らの目は私に釘付けだ。

 まあ、常識的に考えて、猫が魔法を使ったとは思わないだろう。

 結果として、私が「凄腕の魔法使い」だと思われてしまっている。


 私はただの、森でスローライフを送りたい一般人だ。

 英雄扱いなどされたら、平穏な生活が脅かされる。

 面倒な依頼を押し付けられたり、権力争いに巻き込まれたりするのは御免だ。


 私は素材の山を指差した。


「そちらの素材は、街の皆さんで使ってください。迷惑料代わりです」


「えっ? い、いいのですか!? これだけの量、金貨に換算すれば莫大な額に……」


「構いません。持ち帰るには重すぎますし、私たちは急いでいますので」


 私は彼らの言葉を遮り、早口で告げた。

 もったいない気もするが、これを換金しようとすれば、ギルドで手続きが必要になる。

 そうなれば身元を詳しく聞かれるし、時間もかかる。

 今は一刻も早く、この場を離れ、チーズを手に入れたいのだ。


「さあ、ベル。行きますよ」


「うむ。賢明な判断だ。肉よりチーズだ」


 私は呆然とする衛兵たちの横をすり抜け、堂々と街の中へと足を踏み入れた。

 背後から、「あ、あの方はいったい……」「もしかして、伝説の聖女様では……?」「いや、水の精霊の愛し子か?」といった声が聞こえてくるが、聞こえないふりをする。

 聖女でも愛し子でもない。

 ただの暴虐な黒猫と、その飼い主?だ。


 街の中は、まだ混乱の余韻が色濃く残っていた。

 多くの店は雨戸を固く閉ざし、通りには避難しようとしていた人々の荷物が散乱している。

 子供の泣き声や、家族を呼ぶ声。

 だが、魔獣の侵入を防げたという情報が伝わり始めたのか、少しずつ人々が家から顔を出し、安堵の表情を浮かべ始めていた。

 私たちが通りを歩くと、人々が道を開ける。

 先ほどの衛兵たちの反応を見ていたのか、それとも私の連れている黒猫の雰囲気に何かを感じ取ったのか、遠巻きに眺めるような視線を感じる。


「……店、開いているでしょうか」


 私は人々の視線を無視し、不安になりながら馴染みの食材店へと急いだ。

 大通りを抜け、少し奥まった路地裏へ。

 そこにある、小さな食料品店。

 看板には「輸入食材・雑貨」の文字。

 店の扉は……閉まっている。

 だが、耳を澄ますと、中からガタガタと物音がする。


 コンコン、とノックをする。


「すみませーん。営業していますか?」


 返事がない。

 もう一度、強くノックする。


「あのー! チーズを買いたいのですが! お金ならあります!」


 すると、ドタドタという慌ただしい足音が近づいてきて、扉が少しだけ開いた。

 隙間から、店主の親父さんが顔を覗かせる。

 彼は顔面蒼白で、手には護身用の棍棒を握りしめていた。

 どうやら、魔獣が押し入ってきたと思って警戒していたらしい。


「お、お客さん……? あんた、正気か? 外じゃスタンピードが起きてるって騒ぎだぞ! 買い物どころじゃ……」


「そのスタンピードなら、もう終わりましたよ」


 私はにっこりと、営業用の笑みを浮かべて言った。


「え?」


「全部片付きました。外は安全です。衛兵さんたちも確認済みですよ。それより、ハードチーズの塊はありますか? あと、パスタと、オリーブオイルも補充したいんですけど」


 店主は狐につままれたような顔をしている。

 無理もない。

 世界の終わりのような騒ぎの最中に、のんきにチーズを買いに来た客など、狂人に見えても仕方がない。


「……終わった? 本当に?」


「はい。私の使い魔が見てきましたから、間違いありません」


 私の首元で生きるマフラーと化している、ベルを指さす。


 店主は半信半疑ながらも、私のあまりに日常的な態度に毒気を抜かれたのか、ゆっくりと扉を開けた。

 棍棒を下ろし、大きくため息をつく。


「……はぁ。あんた、相変わらず肝が太いねぇ。まあいい、商売になるなら開けるさ。金貨の輝きに勝る恐怖はないってな」


 彼はカウンターへと戻り、奥の棚をあさり始めた。


「チーズだな? いいのが入ってるよ。北の山岳地帯で作られた、長期熟成のパルミジャーノだ。こいつは高いぞ?」


「それを全部ください」


「全部!?」


 店主が目を丸くする。


「ええ。冬ごもり用です。あるだけ全部。それと、ベーコン用のバラ肉もあれば」


 私の注文に、店主は呆れつつも、商売人の顔に戻って嬉しそうに在庫を出してくれた。

 大きな円盤状のチーズ。

 表面には熟成を示す刻印があり、ずしりと重い。

 これだ。

 これがあれば、ベルも満足するだろう。


「でかした、コレット。その芳しい香り……合格だ」


 私の暖かいマフラーと化しているベルが、鼻をヒクヒクさせている。

 どうやら、王のお眼鏡にかなったようだ。


 私はチーズの他にも、小麦粉や調味料、乾燥野菜などを買い込んだ。

 店主は手際よく包んでくれながら、恐る恐る外の様子を尋ねてきた。


「本当に、魔獣たちは来ないのか?」


「ええ。北門の前に、素材の山ができていますから、あとでギルドの人たちが回収に来ると思いますよ。街は救われました」


「素材の山……? まあ、あんたが言うなら信じるよ。いつも不思議なもんを持ち込んでくるからな」


 店主は苦笑し、サービスだと言ってドライフルーツの小袋をくれた。

 私は礼を言い、代金を支払って店を出た。


 外に出ると、街の雰囲気は劇的に変わり始めていた。

 北門の方から、歓声が聞こえてくる。

 どうやら、衛兵たちが事態の収束を正式に宣言し、あの素材の山を公開したらしい。

 「奇跡だ」「誰がやったんだ」「女神の御業か」という声が、風に乗って聞こえてくる。

 人々が通りに溢れ出し、互いに抱き合って喜んでいる。

 その熱気が、冷たい冬の空気を温めているようだ。


「……急いで帰りましょう、ベル」


 私はフードを目深に被り直した。

 これ以上ここにいては、騒ぎの中心に巻き込まれかねない。


「うむ。長居は無用だ。チーズの鮮度が落ちる前に、調理にかからねばならん。我の腹は限界だ」


 私たちは人目を避けるように、裏道を通って街の出口へと向かった。

 背後で、私のことを「白銀の聖女ではないか」「いや、あれは風の精霊王の化身だ」などと噂する声が大きくなっている気がしたが、全力で聞かなかったことにする。

 聖女でも精霊王でもない。

 ただの、チーズ好きの同居人だ。


 帰り道も、ベルの風魔法による快適な空の旅だった。

 行きとは違い、私の背中のリュックには、重たいチーズの塊が入っている。

 その重みこそが、幸福の重みだ。

 夕暮れの迫る空の下、私たちは無言で、しかし満ち足りた気分で、森への帰路を滑空した。

 眼下には、平和を取り戻した街と、きれいに浄化された平原が広がっていた。


 教会に帰り着いた頃には、空は茜色に染まりかけていた。

 頑丈な扉を開けると、暖炉の火はまだ消えておらず、部屋の中はほんのりと暖かかった。

 我が家だ。

 あの騒動の後だと、この静けさが何よりも愛おしい。


 私はコートを脱ぐのももどかしく、すぐにキッチンに立った。

 買ってきたばかりのチーズを、専用のおろし金で削る。

 雪のような白い粉が、山盛りに積み上がる。

 その香りは濃厚で、食欲を強烈に刺激する。


 鍋に湯を沸かし、パスタを投入する。

 フライパンでは、刻んだ猪肉をじっくりと炒める。

 脂が溶け出し、肉がカリカリになるまで。

 そこへ、茹で上がったパスタと、茹で汁を少々。

 火を止め、卵黄とチーズを混ぜ合わせたソースを一気に絡める。

 余熱で卵に火を通し、とろりとしたクリーム状にするのがコツだ。


 最後に、黒胡椒をたっぷりと挽く。

 完成だ。

 黄金色に輝くカルボナーラ。

 濃厚な香りが、部屋中に広がる。


「……美しい」


 テーブルの上で、ベルが前足を揃え、目を輝かせて皿を見つめていた。

 その姿は、神に祈りを捧げる信徒のようだ。


「これだ。この黄金色の輝き。苦労した甲斐があったというものだ」


「苦労したのは、ほとんど魔獣たちと、私の指先ですけどね」


 私は苦笑しながら、自分の分の皿を持って席についた。

 フォークでパスタを巻き取り、口に運ぶ。


 ……美味しい。

 濃厚な卵とチーズのコク。

 熟成された猪肉の塩気と旨味。

 そして黒胡椒のピリッとした刺激。

 それらが口の中で渾然一体となり、爆発的な幸福感となって脳を揺らす。

 歩き回った疲れも、魔力を使った倦怠感も、一瞬で吹き飛ぶようだ。


「うまい! うまいぞコレット! やはりチーズは偉大だ! あの邪魔な獣どもを排除して正解だった!」


 ベルはガツガツと皿に顔を突っ込みながら、絶賛の言葉を並べ立てた。

 口の周りを黄色いソースで汚しながら、一心不乱に食べるその姿を見ていると、今日の出来事がまるで些細なことのように思えてくる。

 数千の魔獣を吹き飛ばしたことも。

 街を救ってしまったことも。

 すべては、この一皿のためだったのだと思えば、不思議と納得がいった。


 窓の外では、再び静かな夜が訪れようとしていた。

 空には一番星が輝いている。

 私の平穏な生活は、どうやら守られたようだ。

 少なくとも、チーズの在庫がある間は。


 だが、私はまだ知らなかった。

 今日、私が何気なく行った「掃除」が、フロンティアの街だけでなく、遠く王都にまで届く噂の種になってしまったことを。

 「白銀の聖女」「風の精霊使い」「慈悲深き殲滅者」。

 そんな大層な二つ名と共に、私の存在が人々の口に上り始めていることを。

 そして、その噂が、かつて私を追放した人々の耳にも、やがて届くことになるということを。


 今はただ、満腹になって丸くなったベルの寝息を聞きながら、食後の温かい紅茶を啜る幸せに浸っていた。

 暖炉の火が、パチリと爆ぜた。

 それは、長い冬の夜の、穏やかな幕開けの音だった。

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