第二十六話:卵の枯渇と王の進軍
冬の朝の空気というのは、どうしてこうも澄み切っているのだろうか。
窓の外を見れば、昨夜まで降り続いていた雪は止み、雲の切れ間からは青白い空が覗いている。
風も穏やかだ。
太陽の光が新雪に反射し、世界全体が発光しているかのように眩しい。
絶好の洗濯日和であり、散歩日和だ。
ただし、外気温が氷点下であることを除けば、だが。
暖炉では薪がパチリと爆ぜ、石造りの壁が蓄えた熱を優しく放射している。
私はキッチンの作業台に向かい、今日の昼食の準備を始めていた。
教会の中は、外の寒気が嘘のように快適だ。
「コレットよ。本日の献立は、あの黄金色に輝く麺料理で間違いないな?」
足元で、黒い毛玉が期待に満ちた声を上げた。
ベルだ。
彼は私の足にすり寄りながら、尻尾をピンと立てている。その瞳は、獲物を狙う狩人のそれではなく、ただ純粋に美食を待ちわびる子供のように輝いていた。
「ええ、カルボナーラですね。ベルのリクエスト通り、濃厚なやつを作りますよ」
「うむ。卵黄は惜しむなよ。あのとろりとしたコクこそが、至高のソースを生み出すのだからな」
彼は食通ぶった口調で講釈を垂れる。
カルボナーラ。
炭焼き職人風パスタとも呼ばれるこの料理は、材料こそシンプルだが、それゆえに誤魔化しが効かない。
私は食材の確認を始めた。
まずは、パスタ。保存状態は良好。デュラムセモリナ粉の香りがしっかり残っている。
次に、パンチェッタ代わりの塩漬け猪肉。これは先日仕込んだものが、最高の熟成具合を見せている。脂身の甘さと塩気が、ソースの味を引き締めるだろう。
そして、卵。
これについては、裏庭の鶏たちが毎日のように産んでくれる新鮮なものがある。黄身が指で摘めるほど弾力があり、味も濃厚だ。
最後に、味の決め手となるチーズ。
ペコリーノがあれば最高だが、この辺境では手に入らないため、ハードタイプのチーズを削って使うことになる。
私は保存庫の棚にある、チーズ専用の陶器の壺に手を伸ばした。
……軽い。
ずしりとした重みがあるはずの手応えが、まるで感じられない。
嫌な予感がして、私は恐る恐る蓋を開けた。
「……あ」
私の口から、間の抜けた声が漏れた。
壺の底には、ほんの数欠片の乾いた破片が転がっているだけだった。
粉チーズにするために削り取った残骸。
肝心の塊が、どこにもない。
記憶を急速に巻き戻す。
そういえば、先日のグラタンで大量に使ったのだった。
さらにその前は、リゾットにも入れた。
無意識のうちに高カロリーな食材を消費させていたらしい。
「……どうした、コレット。なぜ手が止まっている?」
ベルが不審そうに私の顔を見上げた。
私は冷や汗が背中を伝うのを感じながら、努めて冷静な声を出す。
「ベル。極めて遺憾なお知らせがあります」
「なんだ。まさか、猪肉が腐っていたとでも言うのか?」
「いいえ、肉は無事です。ただ……チーズがありません」
一瞬、時が止まった。
暖炉の薪がパチリと爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
ベルは小首を傾げ、理解できない言語を聞いたような顔をした。
「チーズが……ない?」
「はい。在庫切れです。最後の一欠片まで、きれいに使い切ってしまったようです」
「……ならば、どうなる?」
「チーズ抜きのカルボナーラになりますね。つまり、ただの卵かけ麺です」
その言葉が放たれた瞬間、ベルの毛が逆立った。
金色の瞳孔がカッと見開かれ、口元がわなわなと震える。
「馬鹿な……ッ! チーズのないカルボナーラなど、魂の抜けた肉体も同然ではないか! あの芳醇な香り! 乳のコク! それが塩気のある肉と絡み合い、卵のまろやかさで包み込まれるからこそ、芸術たり得るのだ! それを、ただの卵かけ麺だと……!? 貴様、それは料理への冒涜だぞ!」
「仕方ありませんよ。ないものはないんですから。それに、卵と猪肉のパスタだって、十分に美味しいはずです」
私は肩をすくめた。
諦めて別のメニューにするか、それとも妥協するか。
だが、ベルの食への執念は、私の想像を遥かに超えていた。
「買いに行くぞ」
「はい?」
「街だ。人間の住む集落へ行けば、チーズくらい売っているだろう」
私は窓の外を指差した。
確かに天気は回復しているが、一面の雪景色だ。
「見てください、この雪を。天気はいいですけど、足場は最悪ですよ? 往復するだけで一苦労です」
「知ったことか! 我の舌はすでにカルボナーラの口になっているのだ! 今更変更など認めん! 行けばあるのだろう? ならば行くまでだ!」
ベルは私の足に爪を立てんばかりの勢いで主張した。
その目は本気だ。
食い物のためなら、雪山だろうがなんだろうが突き進む。それが暴食の王という生き物らしい。
私はため息をつき、しかし、口の中に広がりかけた濃厚なチーズの味を想像して、ごくりと喉を鳴らした。
……悔しいけれど、私も食べたくなってしまった。
熱々のパスタに絡む、溶けたチーズの誘惑。
この閉ざされた冬の生活において、食事という娯楽が占めるウェイトは大きい。
それに、天気もいい。
家に閉じこもってばかりでは気が滅入るし、たまには外の空気を吸うのも悪くないかもしれない。
「……分かりました。行きましょう」
「うむ! その意気だ!」
決まれば善は急げだ。
私はすぐに身支度を整え始めた。
厚手の羊毛の靴下を二枚重ねにし、裏起毛のズボンを穿く。上には保温性の高いシャツとセーター、そして仕上げにコートを羽織る。
顔半分をマフラーで覆い、手袋をはめれば、完全防寒装備の完成だ。
貴族令嬢が見たら卒倒しそうなほど実用性を重視した格好だが、この森で生きるには見栄よりも体温維持が優先される。
「その前に、あの子たちの様子を見てからですよ」
私は言い聞かせるようにベルに言った。
留守にする以上、家畜たちの安全確認は必須だ。
ベルは早く行こうと急かしたが、美味しい卵を提供してくれる鶏たちの重要性は理解しているらしく、しぶしぶ従った。
重厚な扉を開け、私たちは白銀の世界へと踏み出した。
頬を撫でる風は冷たいが、陽の光がある分、昨日よりはずっと過ごしやすい。
私は雪をかき分けて裏庭へと向かった。
そこには、雪景色の中で異彩を放つ一角があった。
鶏たちのための放牧場だ。
以前、ベルが風魔法を使って一時間もしないうちに作り上げた、職人が建てたような鶏の放牧場がそこにある。
杭は等間隔に深く打ち込まれ、横木は隙間なく組み合わされている。
昨夜の雪の重みにもびくともしない頑丈な柵だ。
ベルの「食料管理への執念」が生み出した傑作と言えるだろう。
柵の中には、教会内にあった木箱を流用した寝床がいくつかおいてあった。私が暇を見つけては改良した木箱たちには、雨風を凌ぐための簡易的な屋根を取り付けてあり、その中には、産卵用の藁を敷き詰めている。
その箱は、見た目こそ武骨だが、鶏たちにとっては寒さを凌げる住居となっている。
さらに、水飲み場。
ここには私の水魔法を使用して、近くの小川から水を引いてくる小さな水路も設けてある。
常に新鮮な水が循環し、流れているおかげで凍結を防ぐ仕組みだ。
私は柵の中を覗き込んだ。
鶏たちは木箱の奥で身を寄せ合い、じっとしていた。
天気が回復したにもかかわらず、外に出てこようとしない。
私たちが近づいても、普段のように餌を求めて騒ぐことはない。ただ、つぶらな瞳を瞬かせ、不安げにこちらを見つめ返してくるだけだ。
やはり、怯えている。
昨夜感じた、森の不穏な気配。
大気の中に混じる、捕食者の気配のようなものに、野生の本能が警鐘を鳴らし続けているのだ。
「大丈夫だよ。ご飯を持ってきたからね」
私は湯気の立つ餌を箱の前に置いた。
甘い穀物の匂いが漂うと、鶏たちはようやく少しだけ動き出し、ついばみ始めた。
食欲があるなら、まだ大丈夫だ。
水路の水は凍っておらず、表面に薄氷が張っている程度だ。彼女たちの喉を潤すには十分だろう。
「異常なし、ですね」
餌箱にたっぷりと穀物を追加し、私は鶏たちに声をかけた。
少しの間、留守にするからね。
彼女たちは「ココッ」と小さく鳴いて応えてくれる。
「コレット、急げ。店が閉まるぞ」
ベルの急かす声に、私は思考を中断した。
そう、今は鶏の心配よりも、チーズの心配だ。
私は頷き、教会の敷地を出た。
目の前には、見渡す限りの雪原と、その先に続く深い森が広がっている。
昨日の嵐が嘘のように、視界はクリアだ。
遠くの山々までくっきりと見える。
この雪の中を、人間の足でフロンティアの街まで歩くのは、いくら天気が良くても重労働だ。
私は雪の深さに眉をひそめながら、杖を握り直した。
「さて、気合を入れて歩きましょうか。ベル、置いていきますよ」
私が一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「待て。誰が歩くと言った」
背後から呆れを含んだ声が聞こえ、次の瞬間、黒い影が視界をよぎった。
ふわっ、とした感触と共に、首元に重みと温もりが加わる。
ベルだ。
彼は私の肩に飛び乗り、そのまま器用に私の首に巻きついた。
長い体をマフラーのように首周りにフィットさせ、尻尾を私の反対側の肩に垂らす。
まるで、最高級の黒毛皮の襟巻きだ。
「……ベル? 何をしているのですか?」
「暖を取っている。それに、貴様の足で歩いていては、日が暮れるどころか春になってしまう」
耳元で、彼の髭がくすぐったい。
彼は私の首に顎を乗せ、不敵に喉を鳴らした。
「チーズへの道は、迅速かつ快適でなければならん。我に任せろ」
「任せろって、まさか……」
私の予感が的中するより早く、ベルからは淡い翡翠色の光が溢れ出した。
有り余る魔力が光っているのだ。
彼の操る風魔法。
暴力的なまでの魔力が私の周囲で形を成していく。
もちろん、それはそよ風のようなものではない。
意思を持った大気が、私の体をふわりと包み込む。
重力が消失したかのような浮遊感。
足が、雪面から数センチほど浮き上がった。
「舌を噛むなよ」
ベルが短く告げると同時、私の意思とは無関係に、体が前方へと射出された。
「ひゃあっ!?」
景色が後方へとすっ飛んでいく。
疾走。
いいや、これは滑走だ。
風に包まれている私たちは、すべてを無視して雪原の上を進んでいく。
スキー板もソリもない。
ただ生身の体で、風に乗って飛んでいる。
森の木々が、残像となって流れていく。
倒木があれば、風がふわりと高度を上げて飛び越え、斜面があればジェットコースターのように滑り降りる。
速い。
王城の最新鋭の馬車など比較にならない速度だ。
それでいて、風魔法の結界が向かい風を遮断してくれているおかげで、寒くもなければ息苦しくもない。
首元のベルは、湯たんぽのように温かい。
「ど、どうなっているんですか、これ!?」
「騒ぐな。ただの移動だ。貴様は力を抜いていればよい」
「勝手に風魔法を使わないでください! 心臓に悪いです!」
「文句を言うなら振り落とすぞ」
なんという暴君だ。
けれど、この快適さと速度は否定できない。
私は観念して、風に身を任せることにした。
白銀の世界を切り裂いて進む爽快感は、癖になりそうだ。
数十分ほど走っただろうか。あっという間に森を抜けてしまった。
そして、フロンティアの街へと続く街道が見えてくるあたりで、首元のベルがピクリと動いた。
「……止まるぞ」
「え?もう着きますよ?お腹が空いているんじゃなかったんですか?」
「……臭うからだ」
彼の声に含まれる剣呑な響きに、風魔法が強制的にブレーキをかけた。
足裏に雪の感触が戻り、私たちはふわりと着地する。
そこは街道沿いの小高い丘で、フロンティアの街を一望できる場所だった。
天気が良いため、街の輪郭から立ち上る炊煙までがよく見える。
平和な景色、のはずだった。
だが、ベルが見ていたのは街ではなかった。
彼は私の首から離れ、肩の上に立ち上がると、鼻をひくつかせ、不愉快そうに目を細めた。
「湿った獣の臭いと、焦燥の臭いだ」
「焦燥の臭い?」
「ああ。それに、地面が揺れている」
言われてみれば、微かな振動を感じる。
ズズズ……という、地鳴りのような音。
それは前方、つまり街の方角からではなく、森の奥――私たちの進行方向に対して横合いから響いてきていた。
私は視線を巡らせ、そして息を呑んだ。
「……あれは」
言葉を失うとは、このことだ。
眼下に広がる白い雪原が、黒く塗り潰されていた。
青空の下、そのコントラストはあまりにも鮮烈で、残酷だった。
動く、黒い染み。
よく見れば、それは一匹一匹の魔獣たちだった。
フォレストウルフの群れが、統率もなく走っている。
暴走するアイアンボアが、木々をなぎ倒しながら進んでいる。
普段は姿を見せないマッドディアやキラーグリズリーまで。
本来なら互いに争うはずの種類も生態も異なる獣たちが、まるで一つの生き物のように塊となって、雪崩れ込んでいた。
その進行方向には、フロンティアの街がある。
「スタンピード……」
魔獣の暴走。
数年に一度、何らかの原因で発生すると言われる災害級の現象だ。
原因は様々だ。異常気象による食糧不足、地脈の乱れ、あるいは単なる集団パニック。
だが、目の前の光景は、そんな理屈を吹き飛ばすほどの圧倒的な「暴力」だった。
昨夜からの森の不穏な気配、鶏たちの怯え。
その正体がこれだったのだ。
数千、いや、万に近いかもしれない。
地平線を埋め尽くす獣の波が、街を飲み込もうとしていた。
街の外壁からは、必死に応戦する魔法の光や矢が見えるが、あの数を相手にするにはあまりにも心許ない。
まるで、蟻の行列を指先で止めようとするようなものだ。
このままでは、街の防衛線が決壊するのは時間の問題だろう。
「……おい、コレット」
肩の上で、ベルの声が低く響いた。
怒りに震えている。
恐怖ではない。
純粋な、憤りだ。
「なんだ、あの大群は」
「スタンピードです。魔獣たちがパニックを起こして、街に向かっています。あれだけの規模だと、街は……」
「そんなことは見れば分かる! 我が言っているのは、チーズだ!」
ベルが尻尾でパシパシと私の頬を叩いた。
彼が尻尾で示した先。
魔獣の群れが最も激しく殺到しているその場所は、街の北門付近。
そこは、市場や商店が集中している地区への入り口だ。
「……恐らく、瓦礫の下でしょうね。運が良くても、避難騒ぎで店は閉まるでしょうし、流通も止まります」
私の言葉を聞いた瞬間、ベルの体から放たれる魔力が爆発的に膨れ上がった。
周囲の雪が一瞬で蒸発し、白い蒸気が立ち上る。
彼はギリギリと歯を鳴らし、眼下の群れを睨み据えた。
「許さん……」
地を這うような呻き声。
それは猫の声帯から出たものとは信じがたい、地獄の底からの響きだった。
「我が昼食のために、わざわざ出向いたのだぞ? それを、あの薄汚い獣風情が、我が道を塞ぐだと?許さん!」
一喝。
空気がビリビリと震えた。
「奴らは我のカルボナーラを阻む障害物となった! それ即ち、万死に値する大罪である!」
なんという理屈だ。
暴君ここに極まれり、といったところだ。
ただ、この絶望的な状況下では「チーズが買えないこと」に本気で怒っている、この小さな黒猫の姿が、頼もしくすら思えてきた。
街の防衛線は、今にも決壊しそうだった。
遠目に見ても、衛兵たちが逃げ惑う様子が分かる。
このままでは、街は飲み込まれる。
私のチーズも、平和な買い物も、すべてが台無しになる。
何より、このままでは今晩の、そして明日の食事すら危うい。食の恨みは、生存本能よりも深く鋭いのだ。
私もまた、ベルの影響を受けたのか、ふつふつと湧き上がる感情があった。
私の平穏な生活を、美味しい食事を邪魔するものは、許容できない。
私はベルの首筋の毛を指で撫でた。
「ベル。どうしますか?」
「愚問だな」
彼は鼻を鳴らし、私の肩の上で仁王立ちになった。
その姿は、ただの猫のはずなのに、荒野を見下ろす獅子王のような風格があった。
巨獣化などする必要すらない。
彼は、この小さな姿のままで、世界を蹂躙できるだけの力を持っているのだから。
「掃除だ。道が塞がっているなら、こじ開けるまで。我の食路を邪魔する者は、神だろうと魔獣だろうと排除する」
黄金の瞳が、残酷なまでに美しく輝いた。
そこには慈悲も、躊躇いもない。
ただ、王としての絶対的な自信と、チーズへの執念だけがあった。
「行け、コレット。突っ込むぞ」
「……了解です、ベル」
私は覚悟を決めた。
風が私たちを包み込み、先ほどまでとは桁違いの魔力で加速させる。
私たちは丘を駆け下り、黒い波の真っ只中へと突っ込んでいく。
正面からぶつかれば、物理的には私が押し潰されるはずだ。
だが、暴食の王の加護がある限り、物理法則など関係なかった。




