第二十三話:冬の森と炎の揺り籠
季節の歩みは、時に残酷なほどに足早だ。
鶏たちの住処を作り上げ、新鮮な卵という黄金の恵みを手に入れた喜びも束の間、還らずの森は本格的な冬の衣を纏い始めていた。
朝、目覚めた瞬間に感じたのは、鼻先を掠める鋭利な冷気だった。
最高級の羽毛布団の中にいれば、体温は守られている。しかし、布団から露出している顔の表面だけが、まるで冷たい手で撫でられているかのように冷え切っていた。
私は布団の中で身を縮こまらせ、隣の温もりを確認する。
そこにあるはずの黒い毛玉――ベルの姿が見当たらない。
代わりに、布団の奥底、私の足元のあたりで、何やらモゾモゾと蠢く感触があった。どうやら、寒さを嫌って布団の深淵へと潜り込んだらしい。
「……おはようございます、ベル」
声をかけても、返事はない。ただ、不満げな鼻息のような音がこもって聞こえてくるだけだ。
私は意を決して、布団から這い出した。
その瞬間、室内の冷気が一斉に襲いかかってくる。
石造りの教会は、夏場はひんやりとして快適だったが、冬となるとその堅牢な石壁が巨大な氷塊のように冷気を蓄え、居住者の体温を奪いにくる。
吐く息は白く煙り、窓の水晶板には美しいが寒々しい氷の結晶の花が咲いていた。
「……寒すぎますね、これは」
私は慌てて厚手のショールを羽織り、足早にキッチンへ向かった。
かまどの種火は消えかかっていたが、わずかに残った熾火を頼りに、震える手で薪をくべる。
パチパチという音と共に炎が蘇り、わずかな暖かさが広がる。
鉄瓶を火にかけ、両手をかざして指先の感覚を取り戻す。
このままではまずい。
調理用のかまどの火だけでは、広い教会全体を暖めることは不可能だ。
今はまだショールで凌げるが、真冬になれば、室内で凍死しかねない。
特に、私の相棒は寒さが大の苦手だ。
ズリズリ……。
寝室から、布団を引きずったままの黒い塊が現れた。
ベルだ。羽毛布団を蓑虫のように巻き付け、顔だけをひょっこりと出している。
「……コレットよ。寒いぞ。我々は、知らぬ間に氷の精霊の腹の中にでも飲み込まれたのか?」
ベルの声は低く、不機嫌を極めていた。
寒さで毛が逆立っているのか、いつもより二回りは大きく見える。
「おはようございます。単なる冬の到来ですよ。この森の冬は厳しいと聞いていましたが、想像以上ですね」
「厳しいなどという表現では生ぬるい。これは暴力だ。大気そのものが牙を剥いて噛みついてきている」
彼は布団を引きずったまま、かまどの前まで移動し、私を押しのけて一番暖かい特等席を占拠した。
「火だ。もっと火を焚け。ここを常夏に変えるのだ」
「そうしたいのは山々ですが、燃料が足りません」
私はキッチンの隅にある薪置き場を指差した。
そこには、調理用に集めておいた小枝や、多少の薪が残っているだけだ。
これまでの生活では、煮炊きに使う分さえあれば十分だった。しかし、暖房として火を焚き続けるとなれば、消費量は桁違いになる。
「この量では、一日中火を焚いていたら三日と持ちません。それに、調理用のかまどでは部屋全体は暖まりませんよ」
「ならばどうする? 王に凍死しろと言うのか?」
「いいえ。私たちには、まだ使っていない切り札があります」
私は視線を、部屋の奥へと向けた。
教会の司祭部屋――現在の私の寝室の壁には、立派な暖炉が備え付けられている。
煙突の掃除は済ませてあるし、構造もしっかりしている。
あれを本格的に稼働させれば、少なくとも寝室は快適な空間になるはずだ。
さらに、礼拝堂の方にも、かつて信者たちが暖を取ったであろう大型の炉が残っている。
「暖炉を使いましょう。あれなら、この部屋全体をポカポカにできるはずです」
「ほう……。ならば、さっさと点火せよ」
「ですから、燃料がないんです。暖炉にくべるような太い薪が」
暖炉で長時間燃焼させるには、小枝では役に立たない。
太く、密度があり、しっかりと乾燥した広葉樹の薪が必要だ。
それも、一冬を越すとなれば、山のような量が。
「……なるほど。貴様の言いたいことは分かった」
ベルは布団の隙間から前足を出し、爪をシャキーンと伸ばした。
「狩りだな? 森へ行き、燃える木を狩り尽くせばよいのだな?」
「言い方は物騒ですが、その通りです。今日は一日、薪作り作業に充てましょう。美味しいご飯と、暖かい寝床を守るために」
「うむ。食と睡眠は王の権利だ。それを脅かす寒波には、炎の鉄槌を下してくれよう」
利害は一致した。
私たちは温かいハーブティーと、昨日の残りのスープで手早く朝食を済ませると、防寒対策を整えて外の世界へと飛び出した。
◇
外気は、室内よりもさらに冷徹だった。
一歩踏み出すたびに、霜柱を踏み砕くサクサクという乾いた音が響く。
森の木々は葉を落とし、寒々しい灰色の空に向かって枯れ枝を伸ばしている。
夏の間は鬱蒼としていた森の見通しが良くなり、遠くまで視線が届くようになっているのは、唯一の利点かもしれない。
私は、最近、フロンティアで購入した厚手のコートの襟を立て、革手袋を嵌めた手をこすり合わせた。
ベルは私の肩に乗り、私の首に巻き付くようにして暖を取っている。天然の最高級ファーマフラーだが、重いのが難点だ。
「さて、薪に適した木を探しましょう」
生きた木を切るのは忍びないし、水分が多くて燃えにくい。
狙うのは、立ち枯れした木や、風で倒れた倒木だ。
森を歩き回ること数十分。
私たちは、理想的な獲物を発見した。
雷に打たれたのか、根元から裂けて倒れている巨大なオークの木だ。
樹皮は剥がれかけ、芯まで乾燥が進んでいるように見える。
太さは大人の胴回りほどもあり、長さは十メートルを超えているだろうか。
「これは上物ですね。これ一本で、かなりの薪が取れそうです」
「うむ。だが、デカすぎるぞ。どうやって運ぶ? 貴様の貧弱な腕力では、枝一本動かせまい」
「そこで、貴方の出番ですよ。ベル」
私は首に巻きつく相棒を軽く撫でた。
「貴方の風魔法で、この巨木を薪のサイズに切断してください。昨日の鶏小屋作りの時のように、スパッといけますか?」
「愚問だな。豆腐を切るより容易い」
ベルは私からふわりと飛び降り、倒木の上に降り立った。
冷たい風が吹き抜ける中、黒猫の王は悠然と構える。
「どのくらいの大きさがいい?」
「暖炉に入る長さ……そうですね、四十センチくらいでしょうか。あとは、太すぎる部分は縦に割ってください」
「注文の多い下僕だ。……下がっていろ」
ベルが短く警告し、私は数歩後退した。
彼の周囲で、魔力が練り上げられる気配がする。
目に見えない風が収束し、鋭利な刃の形を成していく。
『風の刃よ!』
ベルが尻尾を振るう動作に合わせて、不可視の斬撃が放たれた。
ヒュン、ヒュン、ヒュンッ!
空気を切り裂く鋭い音が連続して響く。
次の瞬間、巨大なオークの幹に、等間隔の亀裂が走った。
ズレるような音と共に、巨木が輪切りにされていく。
その断面は、熟練の木こりが最高級の鋸で引いたように滑らかで、焦げ目一つない。
凄まじい切れ味と、素晴らしい操作だ。
「次は割り作業だな」
ベルはさらに追撃を加える。
今度は縦方向への斬撃だ。
丸太状になった木材に対し、上空から風の斧を叩きつけるように。
パカーン! パカーン!
心地よい音が森に木霊する。
硬いはずのオーク材が、まるで乾燥したビスケットのように綺麗に割れていく。
あっという間に、地面には美しい薪の山が出来上がった。
「……素晴らしいですね。製材所だけでなく、薪割り職人も廃業ですよ」
「ふん。王にかかれば、破壊も創造も指先一つだ」
ベルは鼻高々に胸を張った。
しかし、作業はこれで終わりではない。
私は薪の一つを手に取り、その重さと感触を確かめた。
「……やはり、中の方はまだ少し湿っていますね」
表面は乾燥していても、中心部には水分が残っている。
このまま燃やすと、煙が多く出るし、ススが煙突に詰まる原因になる。
通常なら、割った薪をさらに半年から一年ほど乾燥させなければならない。
だが、私たちにそんな時間はない。今夜の暖かさが欲しいのだ。
「湿気ているのか? ならば我の火で乾かすか?」
「いえ、火で炙ると表面だけ焦げてしまいます。ここは、私の魔法の出番です」
私は杖を取り出し、薪の山に向けた。
イメージするのは「抽出」と「分離」だ。
マンティコアの毒を抜いた時と同じ要領。
脱水だ。
「見ていてくださいね」
私は深く息を吸い、集中力を高める。
薪の繊維の隙間に入り込んだ、微細な水分子を感じ取る。
それらを魔力で絡め取り、一気に外部へと誘導する。
『水よ、あるべき場所へ還りなさい』
静かな詠唱と共に、魔法を発動させた。
すると、薪の山から白い霧のようなものが立ち上った。
水蒸気ではない。液体の水が、微細な霧状となって薪から滲み出し、空中に集まっていく。
じわり、じわりと、薪の色が変化していく。
濃い茶色だった断面が、白っぽく乾いた色へと変わる。
薪同士がぶつかる音が、鈍い「ゴトッ」から、乾いた「カラン」という高い音へと変化した。
数分後。
空中に集められた水は、バレーボールほどの大きさの水球となって漂っていた。
それを近くの茂みに捨てると、バシャリと音がした。
手元には、極限まで乾燥した、最高の薪が残された。
これなら、爆ぜることもなく、完全燃焼してくれるだろう。
「……ほう。地味だが、便利な技だ。貴様の水魔法は、掃除と洗濯以外にも役に立つのだな」
「乾燥機代わりにもなるということです。これで、すぐにでも使える薪になりました」
「よし! ならば運ぶぞ! 早く帰って火を点けるのだ!」
大量の薪をどう運ぶか。
以前なら途方に暮れていた量だが、今の私たちには「空飛ぶ家具」の実績がある。
ベルが風魔法で薪の山を浮かせていく。
私たちは宙に浮く薪の大行列を引き連れて、意気揚々と教会へ戻った。
その光景は、冬支度をするリスが見たら卒倒するような規模だったかもしれない。
◇
教会に到着した私たちは、早速薪を運び込んだ。
まずは寝室の暖炉だ。
石造りの炉床に、乾燥したばかりの薪を組んでいく。
空気の通り道を考え、井桁に組むのが基本だ。
一番下には、火付きの良い細かい木屑や樹皮を置く。
「準備完了です。ベル、お願いします」
「うむ。任せろ」
ベルが暖炉の前に座り込む。
『灯れ、原初の赤よ』
彼が詠唱すると、小さな火種が生まれる。
そしてそれが薪の中心へと飛び込んだ。
ボッ!
着火剤も油も使っていないのに、炎は一瞬で木屑に燃え移り、瞬く間に太い薪へと広がっていった。
私が水分を完全に抜いたおかげだ。
湿気を含んだ木特有の、燻るような煙は一切出ない。
純粋で、透明感のあるオレンジ色の炎が、薪を舐めるように包み込んでいく。
パチッ、パチパチ……。
木が爆ぜる音が、静かな部屋に響き渡る。
煙突の吸い込みも良好だ。煙は素直に上へと吸い込まれていく。
すぐに、暖炉の前から放射状に熱が広がり始めた。
冷え切っていた石の床が、じんわりと温まっていくのを感じる。
「……おお……」
ベルが感嘆の声を漏らし、暖炉のすぐ目の前、一番熱い場所に陣取った。
瞳孔が開き、炎の揺らぎをうっとりと見つめている。
「これは良い。太陽の欠片を部屋に閉じ込めたようだ。この熱……体の芯まで溶かすような波動……たまらん」
彼はゴロンと横になり、お腹を火に向けて伸びをした。
完全に野生を忘れた姿だ。
「部屋全体が暖まるまでには少し時間がかかりますが、この前ならすぐに温かいですね」
私もベルの隣に座り込み、炎に手をかざした。
冷え切っていた指先が解凍されていくような心地よさ。
揺らめく炎を見ていると、不思議と心が安らぐ。
電気やガスで得られる暖かさとは違う、生きている熱だ。
「さて、せっかく良い火があるのですから、何か焼きましょうか」
私はキッチンから、いくつかの食材を持ってきた。
森で採ってきた胡桃と、保存食のチーズ、そして固くなったパンだ。
長い金串にそれらを刺し、遠火で炙る。
チーズが熱で溶け出し、表面がふつふつと泡立つ。
パンの表面がきつね色に焦げ、香ばしい匂いが漂う。
胡桃は殻ごと灰の中に放り込んでおいた。
「ベル、チーズが焼けましたよ」
「む……! よこせ!」
とろりと溶けた熱々のチーズをパンに乗せ、フーフーと冷ましてから差し出す。
ベルはハフハフと言いながら、それを頬張った。
「……うむ! 熱い! だが美味い! 直火で焼くと、なぜこうも香りが立つのか!」
「遠赤外線効果……いえ、魔法の火のおかげかもしれませんね」
私も熱々のパンを口にする。
カリッとした焦げ目の苦味と、濃厚なチーズの塩気。
シンプルだが、どんな宮廷料理よりも贅沢な味がした。
外では北風が窓を叩いているが、この部屋の中は別世界だ。
炎の音と、チーズの香り、そして隣にいる相棒の咀嚼音。
満ち足りた時間が流れていく。
「コレットよ」
チーズを食べ終えたベルが、前足を舐めながら言った。
「なんだか、眠くなってきたぞ」
「お腹がいっぱいで、温かいですからね」
「この火を見ていると、意識が吸い込まれるようだ……」
彼のまぶたが重そうに下がってくる。
炎の揺らぎ、いわゆる「1/fゆらぎ」には、リラックス効果があるという。
最強の魔獣も、この物理現象には抗えないらしい。
「寝てしまっていいですよ。私が火の番をしていますから」
「……うむ。王の寝所を……適温に……保て……」
言い終わる前に、彼は寝息を立て始めた。
暖炉の熱を全身で受け止め、幸せそうに丸まっている。
私は彼に薄い毛布をかけ、再び炎に向き直った。
灰の中で、胡桃がポンッと小さな音を立てて爆ぜた。
それを火箸で取り出し、石の上で割る。
中から現れた香ばしい実を口に放り込むと、素朴な甘みが広がった。
冬は寒い。
厳しい季節だ。
けれど、こうして準備を整え、暖かな場所を作ることができれば、冬もまた悪くないものに思えてくる。
外の寒さが厳しければ厳しいほど、この炎の温かさは際立ち、私たちを優しく包み込んでくれるのだから。
私は薪をもう一本くべた。
炎が新入りを歓迎するように燃え上がる。
その光に照らされた寝室は、居心地がよい。
私は膝を抱え、ベルの寝顔と炎を交互に見つめながら、長く穏やかな夜の訪れを受け入れた。
薪は山ほどある。
この冬、私たちが寒さで悩むことはないだろう。




