第二十二話:黄金の太陽と森の喧騒
目覚めは、かつてないほどに緩やかで、そして甘美なものだった。
意識の深淵からゆっくりと浮上する感覚は、まるで温かな羊水に守られているかのような安心感に満ちている。
私は重いまぶたを少しだけ持ち上げ、視界に飛び込んでくる光景を確認した。
石造りの天井。
無骨で飾り気のない、見慣れた教会の天井だ。
しかし、背中を支えている感触は、これまでの堅い煎餅布団とは次元が異なっていた。
身体の曲線に合わせて沈み込み、それでいて確かな弾力で支え上げてくれるマットレス。肌に吸い付いてくるようなシーツの感触は、最高級のシルクのようにサラサラとして、少しの引っかかりもない。そして何より、全身を包み込む羽毛布団の軽やかさと温かさは、北国の冬を知り尽くした職人の矜持そのものだった。
私は大きく伸びをした。
関節がパキパキと小気味よい音を立てる。
体の節々に残っていた慢性的な凝りや痛みが、嘘のように消え去っている。
これが、金貨15枚の威力。
これが、「雲の上の寝心地」というやつか。
「……ふあぁ」
あくびを噛み殺しながら、私は隣を見た。
そこには、黒い毛玉が一つ、布団の中央を陣取って埋もれていた。
暴食の王ベルモスこと、相棒のベルだ。
彼は仰向けになり、無防備にお腹を晒して大の字――いや、大の猫――になって爆睡している。
口元は緩み、ピンク色の舌がちょっぴり見えている。
普段の尊大な態度からは想像もできない、締まりのない寝顔だ。
「……ベル、朝ですよ」
私は彼の腹の毛に指を埋め、わしゃわしゃと撫で回した。
温かい。
生き物の体温と、羽毛の保温性が相まって、極上の湯たんぽのようだ。
「……むにゃ……まだだ……あと牛一頭分……」
寝言まで食い意地が張っている。
私は苦笑しながらベッドを降りた。
床に足をつけた瞬間、石の冷たさが足裏を刺激し、現実へと引き戻される。
だが、その冷たささえも心地よい。
素晴らしい一日の始まりだ。
◇
朝の支度を整え、私はキッチンの暖炉に火を入れた。
昨日の残りの薪が、パチパチと音を立てて燃え上がる。
鉄瓶に水を満たし、五徳の上に置く。
お湯が沸くまでの間、私は朝食の準備に取り掛かった。
今朝のメニューは、昨日『小麦の穂』で買っておいた特製の食パンだ。
厚切りにして、焼き網の上に乗せる。
香ばしい小麦の香りが漂い始めると、それに誘われるように、寝室から黒い影がふらりと現れた。
「……おはよう、コレット」
ベルが前足で顔を洗う仕草をしながら、テーブルの上の定位置へと飛び乗った。
毛並みは寝癖であちこち跳ねているが、鼻だけはしっかりと機能しているようだ。
「おはようございます、ベル。よく眠れましたか?」
「うむ。悪くない。あの布団は魔性の沼だな。一度沈めば、二度と浮上できぬ泥沼のようだ」
「褒めているんですよね、それ」
「当然だ。王たる我が認めたのだ。……して、朝餉は何だ?」
ベルが期待に満ちた目で私の手元を覗き込む。
私は焼き上がったトーストを皿に乗せ、たっぷりのバターを塗った。
熱で溶けた黄金色の液体が、パンの気泡へと染み込んでいく。
さらに、昨日市場で仕入れた柑橘のジャムを添え、淹れたてのハーブティーと共にテーブルへ並べた。
「どうぞ。バタートーストと、朝摘みハーブのお茶です」
素晴らしい朝食だ。
カリッと焼けたパンに、濃厚なバター。爽やかな香りの紅茶。
しかし、ベルの反応は芳しくなかった。
彼は皿の上のパンをじっと見つめ、次に私を見上げ、そして深く、重々しく溜息をついたのだ。
「……足りぬ」
「え? 枚数ですか? まだたくさんありますよ」
「違う。量ではない。彩りだ。本質的な『太陽』が欠けているのだ」
ベルは前足でトーストの横の空白を叩いた。
「ここだ。この空虚な空間に、あるべきものが鎮座していない。白き大地の中央に輝く、黄金の太陽が」
彼の言わんとすることが、瞬時に理解できた。
卵だ。
目玉焼きのことだ。
「ああ……確かに、卵料理はありませんね。買い置きを切らしていました」
市場で以前買った卵は、パンケーキやお菓子作りであっという間に使い切ってしまった。
「我は、とろりとした黄金の黄身を、カリカリのトーストに絡めて食したいのだ。濃厚なコクと、バターの塩気、そしてパンの甘み……その三位一体こそが、王の朝食に相応しい」
ベルが熱弁を振るう。
「……お気持ちは分かりますが、半熟で食べるなら、できれば産みたての卵が欲しいですね。市場のものだと、いつ産まれたか分かりませんから」
「ならば、産地へ行けばよい」
ベルがあっさりと言い放った。
彼は窓の外、深く生い茂る緑の森を顎――ではなく鼻先で示した。
「この森には『鶏』が生息している。野生の鶏だが、その卵は絶品だ。殻は硬いが、中身は濃厚で、黄身の色が違う」
「鶏……森の鶏ですか?」
「うむ。少しばかり気性は荒いが、味は保証する。コレットよ、我々は肉を手に入れた。家具も手に入れた。ならば次は、安定した『太陽』の供給源を確保すべきではないか?」
安定した供給源。
その言葉に、私の理性が強く反応した。
確かに、狩猟や採集だけでは、食生活は不安定になりがちだ。
特に卵や乳製品といった、毎日消費する食材を自給自足できれば、生活の質は劇的に向上する。
それに、鶏がいれば、生ゴミの処理も任せられるし、糞は畑の肥料になる。
まさに一石三鳥の益鳥だ。
「……いいですね。やりましょう」
私は残りのトーストを口に放り込み、立ち上がった。
「善は急げです。捕まえに行きましょう、その『鶏』を」
「うむ! それでこそ我が下僕だ。今日の昼は、黄金の卵かけご飯とする!」
◇
朝食を早々に切り上げた私たちは、森へと踏み入った。
朝日が木々の隙間から差し込み、湿った苔の絨毯を斑模様に照らしている。
朝露を含んだ草木の香りが、冷んやりとした空気と共に肺を満たす。
深呼吸を一つ。
昨日までの陰鬱な気配とは違い、今日の森はどこか清々しく感じられた。
おそらく、拠点である教会が快適になったことで、私自身の心に余裕が生まれたからだ。
「あちらだ」
私の先を進むベルが、尻尾で方向を指示する。
彼の嗅覚は、数キロ先の獲物の匂いさえも捉えるという。
私たちは道なき道をかき分け、森の深部へと進んでいった。
しばらく歩くと、周囲の植生が変わった。
巨大なシダ植物が群生し、地面は落ち葉が分厚く堆積して、ふかふかとした感触に変わる。
その時、前方から微かな物音が聞こえてきた。
ガサガサ……コッコッ……ガサッ。
枯れ葉を掘り返す音。
そして、独特の低い鳴き声。
「いたぞ」
ベルが声を潜める。
私たちはシダの茂みに身を隠し、そっと様子を窺った。
視線の先、開けた草地に、その鳥たちはいた。
見た目は、まさしく鶏だった。
ただ、王都で見かける家畜のそれよりは一回りほど大きく、野生動物特有の引き締まった体躯をしている。
羽毛は森の景色に溶け込むような茶褐色で、艶やかな光沢がある。
特に目を引くのはその足だ。筋肉が盛り上がり、地面をしっかりと掴む鉤爪は鋭い。
毎日野山を駆け回っているのだろう、いかにも健康的でおいしそうな――いや、丈夫そうな鶏たちだ。
「あれが森の鶏ですか。普通の鶏より、少し強そうですね」
「うむ。油断するなよ、奴らの蹴りは岩をも砕く……というのは言い過ぎだが、お前の細腕くらいならへし折るかもしれん」
「食べるんじゃありませんよ。目的は飼育です。生け捕りですからね」
私は釘を刺した。
放っておけば、ベルは瞬殺して焼き鳥にしてしまいそうだ。
群れは全部で五羽。
一番体格の良い、立派なトサカを持つ個体が雄で、残りの四羽が雌だろう。
彼らは地面を掘り返し、ミミズや木の実を啄んでいる。
「作戦はどうしますか?」
「単純だ。我が正面から脅す。奴らが混乱した隙に、一撃入れて眠らせる」
「一撃? 殺さないでくださいよ」
「安心しろ。手加減は心得ている。気絶させるだけだ」
ベルは自信満々に鼻を鳴らした。
私は頷き、後方で見守ることにした。
私の出番はなさそうだ。戦闘力のない私が下手に手を出すよりも、最強の魔獣にお任せするのが合理的というものだ。
「行くぞ!」
ベルが茂みから飛び出した。
黒い稲妻となって、群れの中央へと突撃する。
「ニ゛ャァァァァッ!」
王者の咆哮たる、いや、猫の威嚇音が轟いた。
普通の動物なら、その覇気に当てられて萎縮するか、蜘蛛の子を散らすように逃げ出すところだ。
しかし、野生の鶏は違った。
「コッ!」
ボスの雄鶏が、瞬時に反応した。
逃げるどころか、翼を広げて体を大きく見せ、ベルに向かって突進してきたのだ。
その眼光は鋭く、殺気に満ちている。
こいつら、戦う気だ!
「ほう、生意気な!」
ベルがひらりと宙を舞い、雄鶏の飛び蹴りを回避する。
風を切る音が聞こえるほどの鋭い一撃が、空振りに終わった。
着地と同時に、他の雌鶏たちも一斉に包囲網を敷く。
連携が取れている。野生の厳しさを生き抜いてきた強者たちだ。
「コケェェッ!」
一羽の雌鶏が、背後からベルの尻尾を狙ってクチバシを突き出す。
「おっと! 貴様、我の美しき尾に触れるでない!」
ベルは不快そうに身をひねり、目にも止まらぬ速さで前足を振るった。
パコッ!
乾いた音が響く。
雌鶏の頭部に、ベルの肉球が綺麗にヒットした。
爪は立てていない。純粋な打撃のみだ。
雌鶏は白目を剥き、糸が切れたように崩れ落ちた。
気絶している。
「次だ!」
ベルは流れるような動きで、次々と鶏たちを沈めていく。
雄鶏の蹴りを紙一重でかわし、カウンターの猫パンチ。
左右から迫る雌鶏には、回転しながらの連続パンチ。
その動きは舞踏のように優雅で、無駄がない。
パコッ、ポコッ、ドサッ。
数秒後。
そこには、五羽の鶏がピクリとも動かずに横たわっていた。
全員、見事に気絶している。
「……ふぅ。運動不足の解消には丁度いい」
ベルは前足を舐め、毛並みを整えた。
汗一つかいていない。完全勝利だ。
「お見事です、ベル。傷ひとつなく無力化するなんて」
「ふん、赤子の手をひねるより容易いことだ。さあ、運ぶぞコレット。起きる前に檻に入れる必要がある」
私は杖を振るい、水魔法で鶏たちをふわりと浮かせた。
五つの荷物を従えて、私たちは教会への帰路についた。
◇
教会に戻ると、私たちはすぐに飼育場の建設に取り掛かった。
場所は、教会の裏手にある日当たりの良い空き地だ。
近くには小川も流れており、環境としては申し分ない。
「さて、鶏小屋作りですが……」
私が思考を巡らせていると、ベルが首を振った。
「小屋? 狭苦しい箱を作るつもりか? それでは鶏がストレスを感じ、卵の味が落ちるぞ」
「……では、どうすれば?」
「放し飼いだ。広々とした大地を駆け回らせ、虫を食ませてこそ、極上の卵が産まれるのだ」
ベルの主張はもっともだった。
自由な環境で育った鶏の卵は美味しいと聞く。
それに、衛生面を考えても、狭い小屋に閉じ込めるより広い場所で飼う方が清潔を保ちやすい。
「分かりました。では、この空き地全体を囲うように柵を作りましょう。脱走防止と、外敵からの保護のために」
「うむ。任せろ」
ベルは森の方へ向かい、大きく息を吸い込んだ。
周囲の空気が渦を巻き始める。
『断ち切れ、風よ』
彼が短く念じると、真空の刃が風となって放たれた。
ヒュンッ! という鋭い音が連続する。
ズズン……。
数本の木が、同時に倒れた。
さらに、倒れる途中で風の刃が舞い踊り、枝葉を払い、樹皮を剥ぎ、均等な太さの杭へと加工していく。
まるで、見えない巨大な製材機がそこにあるかのようだ。
あっという間に、地面には真っ白な木材の山が出来上がっていた。
「……製材所も廃業レベルですね」
「感心するのはまだ早い。ここからが王の技だ」
ベルが尻尾を一振りすると、加工されたばかりの白木の杭が、重力を失ったかのようにふわりと舞い上がった。
一本、また一本。
数十本の杭が空中で整列し、まるで意思を持った兵隊のように行進を始める。
「行け」
ベルの号令と共に、杭たちは次々と地面へと突き刺さっていった。
ドスッ、ドスッ、ドスッ!
風の圧力で押し込まれた杭は、大男がハンマーで打ち込んだよりも深く、強固に大地に根を張る。
隙間なく、等間隔に。
見事な木の城壁が瞬く間に形成されていく。
空き地をぐるりと囲む、広大な放牧場が出現した。
四方を木の壁で囲まれた、広々とした運動場の完成だ。
風通しも良く、日当たりも抜群である。
「あとは、私たちが中に入るための出入り口ですね」
私は壁の一部を指差した。
そこだけ杭を打たずに開けてある。
扉が必要だ。
木材の余りで扉の形を作ることはできるが、問題はそれを固定する金具だ。
蝶番や釘、そして留め具。
金属製品はこの森では手に入らない。
「釘や金具がありませんね……。蔓で縛るだけでは心許ないですし」
「ふん、そんなもの、土塊で作ればよかろう」
ベルは地面の粘土質な土を前足で掬い上げた。
そして、ボソボソと何やら詠唱らしきものを呟く。
『大地の骨よ、煉獄の息吹を受けて鋼となれ』
彼が息を吹きかけると、土の塊が赤熱し、形を変え始めた。
土魔法による成形と、火魔法による焼成の合わせ技だ。
ドロドロに溶けた土は、空中で器用に分割され、鋭い釘の形や、複雑な蝶番の形へと変化していく。
ジュッ、という音と共に冷却されると、そこには金属のように硬く焼き締められた、黒褐色のセラミック製パーツが完成していた。
「……陶器の釘ですか。相変わらず規格外ですね」
「強度は鉄にも劣らんぞ。さあ、組み立てろ」
私はベルが作った特製の陶器釘と焼き固めた土製ハンマーを受け取り、扉の製作に取り掛かった。
カンッ、カンッ。
乾いた音が森に響く。
焼き物の釘は、木材にしっかりと食い込んだ。
蝶番を取り付け、杭の壁に設置すると、スムーズに開閉する立派な扉ができあがった。
一時間もしないうちに、職人が建てたような鶏の放牧場が完成した。
中には、教会内にあった、木箱をそのままおいて、雨風を凌ぐための簡易的な屋根付きの寝床と、産卵用の藁を敷き詰めた箱も設置した。
水飲み場には、私の水魔法を使用して、近くの小川から水を引いてくる小さな水路も設けた。
常に新鮮な水がある仕組みだ。
私たちは気絶したままの鶏たちを運び込み、柵の中に寝かせた。
しばらくすると、雄鶏がピクリと動き、むくりと起き上がった。
彼はキョロキョロと周囲を見回し、自分が柵の中にいることに気づいて混乱しているようだ。
続いて雌鶏たちも目を覚ます。
「コッ……?」
一羽の雌鶏が、ふらりと立ち上がった瞬間だった。
ポスッ。
彼女のお尻から、白い物体が産み落とされ、藁の上に転がった。
気絶からの目覚めのショックか、それとも単にタイミングだったのか。
「……あ」
私とベルの声が重なった。
「産んだぞ! コレット、見たか! 太陽だ!」
ベルが柵に張り付き、興奮して叫んだ。
産み落とされたばかりの卵は、朝日に照らされて輝いている。
「やりましたね。初収穫です」
私は柵の中に入り、威嚇する雄鶏を水魔法で軽く牽制しながら、素早く卵を回収した。
掌に収まるサイズだが、ずしりとした重みがある。
殻はほんのり桜色をしていて、温かい。
命の温もりだ。
「一個だけですが、なんとかありつけそうですね。二人で分け合いましょう」
「うむ。王の情けだ。特別に貴様にも一口やろう」
私たちは貴重な戦利品を手に、意気揚々とキッチンへと戻った。




