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追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第五章 猫王の遊戯

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第二十話:王の寝所と空飛ぶ家具

 西の空を焦がしていた茜色の残照はとうに消え失せ、フロンティアの街は深い藍色の帳にすっぽりと包まれていた。

 冒険者ギルドを後にした私たちは、夜の冷気の中を歩いていた。

 懐には、マンティコア討伐の報酬と素材の売却益、合わせて金貨65枚が入った革袋が収まっている。歩くたびにジャラリと鳴るその重厚な金属音は、これまでの極貧生活を一変させる、勝利の凱歌のように聞こえた。


 石畳を踏む足取りは、羽が生えたように軽い。

 だが、私の足元を行く相棒――暴食の王ベルモスこと、黒猫のベルの足取りは、それ以上に軽快だった。尻尾を垂直に立て、鼻歌交じりにステップを踏んでいる。


「ふふん、メインディッシュは確保済みだ。我が背中の鞄の中で、極上の肉が今か今かと調理の時を待っている……」


 ベルが私の背負う鞄を見上げ、うっとりと喉を鳴らした。

 この鞄の中には、つい先ほど討伐し、私の水魔法によって鮮度を完全に封じ込めたマンティコアの肉――特に脂の乗った希少部位――が、氷に包まれて眠っている。


「コレットよ、急ぐぞ。あの肉はただ焼くだけでは芸がない。Sランクの魔獣には、それに相応しい脇役が必要だ」

「分かっていますよ。肉の味に負けない重厚な赤ワインと、香草、それにソースのベースになるバターですね?」

「うむ! 理解が早くて助かる。王の晩餐に手抜かりは許さんぞ。最高の酒と調味料で、あの肉を迎え入れるのだ!」


 彼の頭の中は、すでに黄金色の脂が滴るステーキと、芳醇なワインのマリアージュで埋め尽くされているらしい。

 しかし、市場の大通りに差し掛かった私たちは、そこで足を止めざるを得なかった。


 静寂。

 昼間の喧騒が嘘のように、通りは静まり返っている。

 肉屋も、雑貨屋も、すべての店がすでに雨戸を閉ざし、店先の明かりも落ちていた。残っているのは、酔客の笑い声が漏れる酒場と、店仕舞いを急ぐ一部の屋台だけだ。


「……チッ」


 ベルが、固く閉ざされた肉屋の前で立ち尽くし、忌々しげに舌打ちをした。

 その背中から、ゆらりと不機嫌な気配が立ち上る。


「これは、どういうことだ。なぜ店が閉まっている? 我の鞄には、今すぐにでも焼かれるべき最高の肉があるのだぞ?」


 これは物事の道理というものだった。この時間になれば、健全な商店は店を閉じるということ。

 だが、最高級の食材を所持しているという事実と、それを今夜味わいたいという強烈な欲望が、彼の理性を麻痺させていた。


「おい、コレット。叩き起こせ」


 ベルが当然の権利のように命じてくる。


「金ならあるのだ。店主の頬を金貨で叩けば、眠い目も開くだろう。今すぐ最高級のビンテージワインを出させろ。ソースが作れんだろうが!」

「それは暴君の理屈ですよ、ベル。お金があるからといって、他人の安眠を妨害していい理由にはなりません。それに、調味料なしで焼いても美味しいですが、貴方は『完璧』を求めているのでしょう?」

「ぐぬぅ……。当たり前だ! あのマンティコアだぞ? 適当な味付けで食うなど、食材への冒涜だ!」


 金と赤の瞳が、悔しげに揺れる。

 食へのこだわりが強すぎるがゆえに、彼は妥協を許さない。

 このままでは、腹いせに商店街の屋根が吹き飛ばされかねない。

 だが、私はこうなることを予測していた。

 そして何より、今の私には「予約」という文明的な手段を行使するだけの社会的信用と資金がある。


「安心してください。こうなると思って、手を打っておきました」

「手を打っただと?」


 訝しげに振り返るベルを抱き上げ、私は迷うことなく一軒の店へと向かった。

 『小麦の穂』。

 私たちがいつもパンを買っている、馴染みの店だ。

 店自体は看板を下ろしているが、裏口からは微かに明かりが漏れている。私は勝手口に回り、小さくノックをした。


「こんばんは。コレットです」


 すぐに扉が開き、粉まみれのエプロンをした店主の親父さんが顔を出した。


「おお、来たか。遅いから心配してたんだぞ。……ほら、約束のブツだ」


 親父さんが手渡してくれたのは、ずっしりと重い紙袋だった。

 受け取った瞬間、バターと砂糖を焦がした芳醇な香りが、夜の冷気の中にふわりと漂った。


「焼き立ての特製クッキーと、バターをたっぷり練り込んだブリオッシュだ。あんたが『戻ったら必ず買いに行くから』って言付けてくれたおかげで、最高の状態で焼いといたぜ」

「ありがとうございます。無理を言って申し訳ありません」


 私が代金を――それも、チップを含めた銀貨を――渡すと、親父さんは満面の笑みで頷いた。

 腕の中のベルが、鼻をヒクヒクと動かした。

 不満げだった表情が霧散し、瞳が紙袋に釘付けになる。


「……ほう。でかした、コレット。メインディッシュはお預けだが、前菜としては悪くない」

「でしょう? マンティコアは明日、万全の状態でいただきましょう。今夜はこれで我慢してください」


 ベルは満足げに喉を鳴らし、紙袋に頬ずりをした。

 とりあえず「甘味」という最重要課題はクリアした。これで彼の機嫌を損ねて街が火の海になるリスクは回避されたわけだ。


 その夜は、いつもの宿屋『止まり木亭』に泊まることにした。

 教会まで戻るには夜が遅すぎるし、明日の朝一番で家具を買うには、街にいた方が都合が良い。

 案内された部屋は二階の角部屋。清潔に掃除されているが、家具は最低限で、ベッドも冒険者向けの簡素なものだ。煎餅のように薄いマットが、ギシギシと音を立てる。


「……硬い」


 ベッドに飛び乗ったベルが、不満げにマットをふみふみしている。


「これでは床と変わらんではないか。王の玉座としては不合格だ」

「我慢してください。今日のところは、このクッキーを食べて機嫌を直してくださいな」

「ふん。……まあよい。だが明日は、必ずあの『雲の上の寝心地』とやらを手に入れるぞ。そして帰宅した後、あの肉を食う。約束だ」


 私たちは、買ってきたばかりのクッキーを数枚かじり、少しばかりの空腹を満たしてから眠りについた。

 硬いベッドの上で、ベルは私の腹の上を陣取り、温かい重しとなって丸くなった。

 窓の外には月が出ている。

 鞄の中には、まだ見ぬ美味なる肉が眠っている。

 私は金貨の詰まった革袋を枕元に置き、来るべき祝宴と散財の時に思いを馳せながら瞼を閉じた。



 翌朝。

 窓から差し込む朝日と共に、私はベルの「起床攻撃」――具体的には、顔面への容赦ない肉球プレス――によって叩き起こされた。


「起きろコレット! 朝だ! 店が開くぞ! 家具屋が開く時間だ!」

「……おはようございます、ベル。まだ鶏も鳴いていませんよ……」

「知るか! 我の食欲と物欲は、すでに頂点に達しているのだ! 早くせねば、誰かに先を越されるかもしれんぞ!」

「こんな早朝から高級家具と高級ワインを買い漁る物好きなんて、私たちくらいですよ……」


 急かされるように身支度を整え、宿をチェックアウトする。

 朝の市場は、昨日とは打って変わり、活気に満ち溢れていた。

 荷車が行き交い、商人たちが声を張り上げている。

 私たちはまず、昨日買えなかった食材エリアを強襲した。

 ただし、今日の目的は肉ではない。主役はすでに鞄の中にあるからだ。


「おじさん。この店で一番古い赤ワインを二本ください。渋みが強くて、肉料理に負けないものを」


 雑貨屋の店先で私が注文すると、店主は驚いたように目を丸くした。


「一番高いやつだぞ? 金貨1枚はするが……」

「構いません。それと、そっちの瓶詰めの高級スパイスと、岩塩もお願いします」


 私が革袋から金貨を取り出すと、店主の態度は一変した。

 以前のように値切り交渉をする必要もない。圧倒的な資金力は、すべての障害を取り払う万能鍵だ。

 ワイン、スパイス、そして八百屋では、肉の付け合わせにするための色鮮やかな野菜と、香り高いハーブを大量に購入する。

 金額を気にすることなく、欲しいものを次々と指名していく快感。

 購入した商品は、私の水魔法で作った即席の運搬用ケース――氷で作った透明な箱のようなもの――に放り込み、ふわりと浮かせて運ぶ。


「順調ですね。これで最低限、整いました」

「うむ。だがメインディッシュを味わうための『玉座』がまだだぞ、コレット」


 私たちは、市場の区画を抜け、職人街にある家具屋通りへと向かった。

 ここは、日用品よりも高価な家具や調度品を扱う店が並ぶエリアだ。

 軒先には、職人の技が光る椅子やテーブル、タンスなどが展示されている。

 目指すは、この街で一番の品揃えを誇る高級家具店『樫の木堂』だ。

 重厚な扉を開けると、木の香りとワックスの匂いが漂ってきた。

 店内には、見るからに座り心地の良さそうなソファや、精緻な彫刻の施されたベッドフレームが所狭しと並べられている。


「いらっしゃいませ。……おや?」


 出迎えたのは、白髪の上品な老紳士だった。

 彼は私の地味な冒険者の服と、背後に浮遊する大量のワインや野菜を見て、一瞬だけ怪訝な顔をしたが、すぐに営業用の柔和な笑みを浮かべた。

 プロの商人だ。客を見た目で判断しない――あるいは、金払いの良さを直感的に嗅ぎ取ったのかもしれない。


「何かお探しですか? 丈夫な椅子なら、入り口のワゴンに……」

「いいえ。探しているのは、最高の安らぎです」


 私は店の中央、一段高い場所に展示されているベッドを指差した。

 黒檀で作られた重厚なフレームに、分厚いマットレス。そして、その上には純白の羽毛布団がかけられている。

 見るからに高級品だ。王都の貴族屋敷にあってもおかしくない。


「あれをいただけますか?」

「えっ……?」


 店主が目を丸くした。


「あ、あれは当店でも最高級の品でして……北の雪国から取り寄せた水鳥のダウンを100%使用した布団と、何層にも重ねた羊毛のマットレスのセットです。フレームも、樹齢百年の黒檀を使い、名工が三ヶ月かけて彫り上げたもので……お値段も、セットで金貨15枚は下りませんが……」

「構いません。それと、あちらのソファも」


 私は、窓際に置かれた深緑色のベルベット張りのソファも指定した。

 猫足の脚に、優美な曲線を描く背もたれ。

 ベルの黒い毛並みが映えそうな色合いだ。


「……コレット、でかした」


 足元のベルが、小声で称賛を送ってくる。

 彼はすでにソファの下見を済ませたらしく、その爪先でベルベットの感触を確かめ、うっとりとしていた。


「この弾力、この肌触り……。まさに王の玉座だ。満腹になった後、ここで微睡むのは至福だろうな」

「爪は研がないでくださいね、ベル。絶対に」


 私は店主に金貨が入った革袋を見せた。

 ジャラリ、という音が、店内の空気を変えた。

 中身を確認した店主の顔から、営業用の笑みが消え、真剣な商人の顔になる。


「こ、これは大変失礼いたしました! すぐに配送の手配を……ええ、もちろん、在庫はございますとも!」


 彼は揉み手をしながら、帳簿を取り出した。

 客がFランクの少女だろうが猫連れだろうが、金貨の前では平等なのだ。


「ありがとうございます。では、これらを全て購入します。……配送先ですが」


 私が地図を取り出し、教会の場所を指差した瞬間。

 店主の手が止まった。


「……え?」

「ですから、ここです。『還らずの森』の入り口付近にある、古い教会です」


 店内の空気が、急速に冷えた。

 店主だけでなく、奥で作業をしていた職人たちも手を止め、こちらを凝視している。

 まるで、幽霊でも見たかのような目だ。


「お、お客さん……冗談でしょう?」


 店主の声が震えていた。


「あそこは、魔獣の領域ですよ? 『還らずの森』なんて物騒な名前がついてる場所です。配送なんて、とんでもない!」

「教会の周りは安全です。私が保証します。昨日もマンティコアを討伐して安全を確保したばかりですから」


 私は説得力を増すために、鞄の口を少しだけ開けて見せた。

 そこから覗くのは、氷漬けにされた禍々しいマンティコアの尻尾の一部だ。

 それを見た店主は、さらに顔色を悪くした。


「ヒッ……! そ、そんな化け物を倒すような人が住んでるんですか!? な、なおさらダメです! そんな危険な場所に、うちの従業員を行かせるわけにはいきません!」


 店主は顔面蒼白で首を激しく横に振った。

 逆効果だったらしい。

 奥の店員たちも、「無理だ」「死にたくない」と口々に囁き合っている。

 予想はしていたが、やはり壁は厚い。

 フロンティアの住人にとって、森は生活圏の外であり、死地そのものなのだ。

 金貨を積めば解決するかと思ったが、命の危険を感じてしまっては、金も紙切れ同然らしい。


「……そこをなんとか。追加料金もお支払いしますから」

「無理です! 絶対に無理です! 商品は売れますが、配送はお断りします。ご自分で運んでいただくか、諦めるか、どちらかにしてください!」


 店主の拒絶は固かった。

 これ以上交渉しても、時間の無駄だろう。

 私は溜息をつき、ベルを見下ろした。


「……だそうですよ、ベル。せっかくの『雲の上の寝心地』ですが、運べないなら諦めるしか……」

「ふざけるな!」


 ベルが吠えた。

 店内に響くその声に、店主がビクリと飛び上がる。

 猫の鳴き声として認識されたようだが、その圧力は言葉以上の重みを持って室内の空気を震わせた。


「ここまで来て、臆病者どもの戯言に王の安眠と晩餐を妨害されてたまるか! 金は払ったのだな? 商品は我らのものだな?」

「ええ、購入契約は済ませました。あとは運ぶだけですが……この巨大なベッドとソファを、私一人で運ぶのは不可能です」


 水魔法で浮かせることはできるが、それはあくまで短距離や、形の定まった荷物の話だ。

 これほど巨大で、かつ傷つきやすい家具を、森の木々を避けながら長距離輸送するのは、私の魔力と集中力が持たない。


「チッ、使えん人間どもめ」


 ベルは舌打ちをし、ソファの背もたれに飛び乗った。

 そして、店主たちを睥睨する。


「おい、コレット。外へ出せ」

「はい?」

「この家具どもを、店の外へ出させろと言っているのだ。あとは我がなんとかする」


 自信満々なその瞳。

 私は彼が何をしようとしているのか察し、苦笑した。

 そういえば、私の相棒は「火」だけでなく、「風」も操るのだった。

 キラーベアを葬った、あの不可視の風の弾丸。

 あれを応用すれば、あるいは。


「分かりました。……店主さん、配送は結構です。店の前の通りまで出していただけますか? そこからは自分たちで持ち帰ります」

「えっ、自分で? こんな大荷物を? 馬車もなしに?」


 店主は狐につままれたような顔をしたが、森に行かなくて済むと分かって安堵したようだ。

 職人たちが総出で、ベッドやソファ、タンスなどの家具を通りへと運び出した。

 通りには、高級家具の山が出来上がった。

 通行人たちが「なんだなんだ」と集まってくる。


「さて、どうするんですか、ベル?」


 私が尋ねると、ベルは家具の山の一番上、ふかふかの羽毛布団の上に鎮座した。


「見ておれ。王の引越しパレードの始まりだ」


 ベルが短く息を吸い込む。


 彼の集中とともに、周囲の風が変わった。

 そよ風が、渦を巻き始める。

 それは次第に強まり、家具の山を包み込むような上昇気流へと変わっていった。

 しかし、暴風ではない。

 ベルの魔力によって制御された、力強い風の揺りかごだ。


『舞え』


 ベルの号令と共に、信じられない光景が繰り広げられた。

 数百キロはあるであろう黒檀のベッドが、重力を失ったかのようにふわりと浮き上がったのだ。

 続いて、ソファが、タンスが、次々と空へ舞い上がる。

 それらは、見えない風のクッションに支えられ、整然と隊列を組んで宙に静止した。


「な、なんだコリャァァァ!?」

「家具が……飛んでる!?」

「お、おい! あの上に猫が乗ってるぞ!」


 店主も、職人も、通行人も、全員が口をあんぐりと開けて空を見上げている。

 悲鳴に近い驚きの声が上がる中、ベルは得意げに私を見下ろした。


「どうだ。これなら森の木々も関係ない。空の道を行けばよいのだ」

「……派手すぎませんか、ベル?」

「知ったことか。行くぞコレット! 早く帰って、宴を始めるのだ!」


 ベルが尻尾を振ると、家具の船団がゆっくりと動き出した。

 森の方角へ向かって、空を滑るように進んでいく。

 その光景は、まるで魔法のおとぎ話のようだ。


 ……まあ、実際に魔法なのだが、ここまで堂々とやられると清々しい。


 私は呆然とする人々に一礼し、空飛ぶ家具の後を追って歩き出した。

 背中には、相変わらず「あの娘、何者だ?」という視線が突き刺さる。

 ギルドでの一件に続き、これで私の「謎の人物」としての噂は決定的なものになるだろう。

 でも、もう慣れっこだ。

 今夜からは、あの最高級のベッドで眠れるのだから。

 それだけの価値はある。


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