第二話:還らずの森へ
石造りの廊下を蹴る足音が、カツカツと乾いた音を立てて反響する。
私は王城の西棟、貴賓用の客室へと入室し、背後で重厚な扉を閉ざした。
カチャリ、と鍵をかける。
その金属音が鳴った瞬間、張り詰めていた空気が一気に弛緩し、私は扉に背中を預けて深く息を吐き出した。
「さて……時間がないわね」
感傷に浸っている暇はない。
あの王子が手配する追放の手続きなど、どうせ杜撰なものだろうが、それは乱暴で強引なものになる可能性が高い。猶予は一時間あるかないか。
私は室内を見渡した。
数日前から滞在していたこの部屋には、私の私物が散乱しているわけではないが、いくつかの必需品が置かれている。
まずは、この拘束具を脱ぎ捨てることからだ。
鏡台の前に立つ。
そこに映っているのは、水色のドレスを纏った、いかにも深窓の令嬢といった風情の女だ。
繊細なレース、散りばめられた小さな真珠、幾重にも重なったシルクの層。
美しい。確かに、工芸品としては。
だが、これから泥と血に塗れるかもしれないサバイバルにおいて、これほど邪魔なものはない。
私は背中に手を回し、ドレスの紐を解いた。シュルシュルとドレスは脱げ、私は下着姿となって解放感を噛み締めた。
床に広がる水色の布の山は、まるで脱ぎ捨てられた抜け殻のようだ。
間違いなく、私はこれを二度と着ることはないだろう。
クローゼットを開け放つ。
一番奥に吊るされていた、地味な色合いの服を取り出す。
麻のシャツに、丈夫な革のズボン。色は地味で目立たない茶色を選んである。
これは以前、お忍びで城下町へ出かける際に使用していたものだが、素材の耐久性と動きやすさは確認済みだ。
シャツに袖を通す。ざらりとした麻の感触が肌に心地よい。
ズボンを履き、腰回りの紐をきつく締める。
足元は、華奢なヒールではなく、靴底の厚い革のブーツだ。これも、泥道を歩くことを想定して防水の脂を塗り込んである。
編み上げの紐をしっかりと結び、足踏みを一つ。
コツン、と鈍く低い音が鳴る。
「よし」
頼もしい。
自分の足で大地を踏みしめているという実感が湧いてくる。
次は荷造りだ。
私は部屋の隅に隠しておいた、大きめの革鞄をベッドの上に放り投げた。
口を大きく開け、部屋にある物を次々と放り込んでいく――わけではない。
ここでも選別が必要だ。
容量には限界がある。私が背負って歩ける重さにも限界がある。
鏡台の上に置かれた宝石箱。
蓋を開ければ、ダイヤモンドやサファイアが煌びやかな光を放っている。
これ一つで、平民が一生遊んで暮らせるほどの価値があるだろう。
私はそれを一瞥し、パタンと蓋を閉じた。
不要だ。
森の中で熊に遭遇した時、ダイヤモンドを投げつけても撃退できるわけではない。空腹の時にサファイアを齧っても腹は膨れない。
貨幣経済が通用しない場所へ行くのだ。換金率など無意味な数値に過ぎない。
代わりに私が手に取ったのは、サイドテーブルに置かれていたフォークとスプーン、そして、ナイフだった。
銀製で装飾が施されているが、刃はしっかりとしている。
親指の腹で刃先をなぞる。うん、切れ味は悪くない。
それらを鞘に収め、鞄の底へ。
次に、水差しに入っていた水を携帯用の革袋に移し替える。
コルクの栓をきつく閉め、逆さにして振ってみる。漏れはない。
それから、裁縫箱。
これは私の秘密兵器だ。
中には針や糸だけでなく、小さな鋏や、釣り針に加工できそうな金具も入っている。
衣服の修繕はもちろん、傷口を縫ったり、罠を作ったりするのにも応用できるはずだ。
これは手放せない。
クローゼットの引き出しから、厚手の大判ショールを取り出す。
上等なウール素材で、広げれば毛布代わりになる。
丸めて紐で縛り、鞄の側面に括り付ける。
さらに、保存食として隠し持っていた干し肉と堅焼きパン。
量は多くないが、三日分くらいにはなるだろう。最初の拠点を確保するまでの命綱だ。
「あとは……」
私は洗面台に向かい、石鹸をタオルで包んだ。
衛生状態の維持は、生存率に直結する。病原菌は魔獣よりも恐ろしい敵になり得るからだ。
これで、鞄の中身は八割ほど埋まった。
重さを確認するために背負ってみる。
ずしり、と肩に食い込む重量感。
だが、持てないほどではない。むしろ、この重さが私の命を繋ぐのだと思えば、愛おしくすら感じる。
ふと、窓の外を見る。
黒い雲が空を覆い尽くし、稲光が遠くで走っているのが見えた。
風が強まり、窓ガラスがガタガタと不安げな音を立てている。
嵐が来る。
最悪のコンディションでの出発となりそうだ。
だが、雨は匂いを消してくれる。追手を撒くには好都合かもしれない。
もっとも、あの王子が追手を差し向けるような執着を見せるとは思えないが。
その時だった。
ドンドンドン!
扉を叩く、乱暴な音が響いた。
心構えはできていたつもりだが、やはり不快な音だ。
返事をする間もなく、鍵穴がガチャガチャと弄られ、乱暴に扉が開け放たれた。
「おい! いるんだろう!」
入ってきたのは、数名の騎士たちだった。
鎧をガチャつかせ、無遠慮に部屋の中へと踏み込んでくる。
先頭に立つ男は、口元に卑屈な笑みを浮かべていた。
見覚えがある。近衛騎士団の副団長だ。
実力よりも家柄とゴマすりで出世したと専らの噂の男。
彼は私の姿を見ると、鼻で笑うように息を漏らした。
「はっ、なんだその格好は。男みたいなズボンを履いて。公爵令嬢の気品も地に落ちたもんだな」
彼の背後にいる部下たちも、下卑た笑い声を上げる。
私は鞄を背負い直すと、冷ややかな視線を彼らに向けた。
「お褒めに預かり光栄ですわ。これから泥道を歩くのに、ドレスの裾を引きずるのは合理的ではありませんから」
「ふん、減らず口を。まあいい、どうせ魔獣の餌になる身だ。せいぜい、逃げ回るがいいさ」
彼は、廊下を指し示した。
「来い。馬車の準備はできている。殿下の慈悲深き命令により、速やかに出立だ」
「ええ、参りましょう」
私は抵抗することなく、彼らの前に歩み出た。
部屋を出る際、床に放置された水色のドレスを一瞥する。
さようなら、かつての私。
私はもう、誰かのために着飾る人形ではない。
◇
城の裏門には、一台の馬車が停まっていた。
いや、それを馬車と呼ぶのは、馬に対して失礼かもしれない。
屋根こそついているが、窓にはガラスの代わりに鉄格子が嵌められ、車体は塗装が剥げて木目が腐りかけている。
以前、罪人を鉱山へ送る際に使われていた護送車だろうか。
泥のこびりついた車輪は歪んでおり、まともに走るかどうかも怪しい。
「さあ、乗れ!」
騎士の一人が私の背中を突き飛ばすように押した。
私はたたらを踏みながらも、なんとか体勢を立て直し、馬車のステップに足をかける。
ギシッ、とステップが悲鳴を上げた。
中に入ると、湿った藁の匂いと、古い血のような鉄錆の匂いが鼻をつく。
座席などという上等なものはなく、硬い木のベンチが備え付けられているだけだ。
私は鞄を膝の上に抱え、隅の方に腰を下ろした。
ガチャン!
外から扉が閉められ、重い施錠音が響く。
完全に閉じ込められた。
格子の隙間から、冷たい雨が吹き込んでくる。
私はショールを取り出し、頭からすっぽりと被った。
「出すぞ!」
御者の怒鳴り声と共に、馬車が動き出した。
ガタン、ゴトン。
車輪が回るたびに、突き上げるような振動が尻に伝わる。
サスペンションなど皆無なのだろう。小石一つ踏むたびに、馬車全体が悲鳴を上げて揺れる。
裏門を抜ける時、見張りの兵士たちがこちらを見て何かを囁き合っているのが見えた。
嘲笑か、同情か。
どちらにせよ、彼らの顔は雨に滲んでよく見えない。
馬車は石畳の道を離れ、舗装されていない街道へと進んでいく。
振動はさらに激しくなり、私は鞄を抱きしめる腕に力を込めた。
御者台からは、男たちの話し声が漏れ聞こえてくる。
「まったく、こんな夜更けに森まで行かされるなんて、とんだ貧乏くじだぜ」
「違いない。だがまあ、あの高慢ちきな公爵令嬢が泥まみれになる様を見られるんだ。酒の肴くらいにはなるだろうよ」
「ははっ、賭けるか? あいつが森で何日生き延びられるか」
「俺は半日だな。あの森の狼は鼻が利く。あんな美味そうな女、すぐに嗅ぎつけられちまうよ」
下劣な会話。
わざと私に聞こえるように大声で話しているのだろう。
恐怖を煽り、泣き叫ぶ声を聞きたいのだ。
残念ながら、その期待には応えられない。
私は彼らの声を環境音として処理し、意識を別のことへと向けた。
地図の記憶だ。
王城の図書室で、かつて目にした王国の地理。
王都から北西へ進むと、国境の山脈に突き当たる。その麓に広がるのが『還らずの森』だ。
馬車でおよそ三日の距離。
だが、彼らは私を早く厄介払いしたいはずだ。おそらく、街道の整備された宿場町には寄らず、野営をしながら最短ルートを強行軍で進むだろう。
私は目を閉じ、揺れに合わせて体の力を抜いた。
体力の温存が最優先だ。
不快な振動も、リズムだと思えば耐えられないことはない。
時間が経過するにつれ、雨脚は強まっていった。
バチバチと屋根を叩く音が激しくなる。
時折、格子の隙間から入った雨粒が頬を濡らすが、私はそれを拭おうともしなかった。
冷たさが、思考をよりクリアにしてくれる。
ふと、窓の外に目を向ける。
暗闇の中で、木々のシルエットが黒い怪物のように通り過ぎていく。
王都の灯りは、もう見えない。
文明圏から離れていく。
法の加護も、屋根のある家も、温かい食事も約束されない場所へ。
不安がないと言えば嘘になる。
だが、それ以上に私の胸を満たしていたのは、高揚感だった。
私は、試されている。
公爵令嬢という肩書きを剥ぎ取られ、ただの人間として、世界と対峙することを求められている。
それは恐怖であるが、それと引き換えに、とてつもない自由の可能性を秘めていた。
「……悪くないわ」
小さな呟きは、雨音にかき消された。
私は鞄のポケットから、小さな瓶を取り出した。
中には、乾燥させたベリーが入っている。
一粒口に含むと、酸っぱい味が唾液腺を刺激した。
生きていかなければならない。
どんな手を使ってでも。
それが、私を捨てた彼らに対する、最大の復讐になるのだから。




