第十八話:瞬殺
街の喧騒を背に、私たちは「還らずの森」へと足を踏み入れた。
一歩進むごとに、周囲の空気が濃度を増していくのが分かる。
木々の緑は深く、黒に近い色へと変わり、頭上を覆う枝葉が太陽の光を遮断する。
鳥のさえずりは消え、代わりに聞こえるのは、風が葉を揺らす音と、遠くで何かの獣が吠える声だけだ。
地面は腐葉土と湿気でぬかるみ、踏みしめるたびにジュクジュクと湿った音がする。
「……相変わらず、陰気な場所ですね」
私はブーツの泥を気にしながら呟いた。
潔癖な私にとって、この森の環境はあまり好ましくない。
だが、ベルにとっては庭のようなものらしい。彼は泥などものともせず、軽快な足取りで先を進んでいく。
「そうか? 我にとっては、食材の宝庫に見えるがな。ほら、あそこの茂みには毒蛇がいるし、あの木の上には巨大な蜘蛛が巣を張っている」
「……食欲が湧く情報ではありませんね」
私たちは、普段薬草を採取している浅いエリアを通り過ぎ、さらに奥へと進んだ。
人間が作った獣道すら途絶え、草木を掻き分けなければ進めない深部。
ここから先は、人の理屈が通用しない、魔獣たちの聖域だ。
不意に、ベルが足を止めた。
彼の耳がピクリと動き、尻尾がゆっくりと揺れる。
金と赤の瞳が、頭上の木々の隙間を睨みつけた。
「……来たぞ」
彼の言葉と同時に、風が動いた。
上空の枝葉が激しく揺れ、バサバサという重たい羽音が降ってくる。
それに混じって、甘ったるいような、鼻を刺す異臭が漂ってきた。
「上です!」
私が叫ぶと同時に、巨大な影が私たちの目の前に降り立った。
ズンッ! という地響きと共に、着地の衝撃で泥が跳ねる。
「グルルルゥ……ッ」
喉の奥から絞り出すような威嚇音。
そこにいたのは、依頼書のイラストをそのまま現実にしたような怪物だった。
体長は三メートルほどだろうか。
赤褐色の体毛に覆われたライオンの胴体。その背中にはコウモリのような黒い翼が生えている。
顔は醜悪に歪み、口からは黄色い唾液が滴り落ちていた。
そして何より目を引くのは、その尻尾だ。
体長と同じくらいの長さを持つ鞭のような尾の先には、赤黒く光る巨大な針がついており、そこから透明な液体がポタリ、ポタリと地面に落ちている。
液体が触れた草が、瞬時に変色し、枯れていくのが見えた。
猛毒のマンティコア。
森の食物連鎖の上位に君臨する捕食者だ。
マンティコアは、赤い瞳で私たちを値踏みするように見下ろした。
小さな人間と、さらに小さな猫。
彼にとって、私たちは獲物ですらない、ただの餌に見えたに違いない。
「シャァァァッ!」
マンティコアが咆哮を上げ、威嚇のために翼を大きく広げた。
その風圧で、私の髪が乱れる。
普通の人間なら、この時点で恐怖のあまり腰を抜かしていただろう。
だが、私の隣にいる「王」は違った。
「……ふん。思ったより小ぶりだな」
ベルは、まるで市場で魚の鮮度を確認するかのような口調で言った。
彼は一歩前へ出ると、マンティコアを見上げ、つまらなそうに欠伸をした。
「おい、雑種。貴様の自慢の尾だが、身の入り具合はどうだ? 痩せ細っているなら、用はないぞ」
マンティコアの動きが止まった。
目の前の小さな獲物が、恐怖するどころか自分を品定めしていることに、混乱したのかもしれない。
だが、すぐにその感情は怒りへと変わった。
王者のプライドを傷つけられた獣は、殺意を剥き出しにしてベルに襲いかかった。
速い。
巨体に見合わぬ敏捷さで、マンティコアが飛びかかる。
鋭い爪がベルを引き裂こうとし、同時に背後から毒針がベルの頭上を狙ってしなる。
挟み撃ちだ。
「ベル!」
私が警告の声を上げる前に、ベルの姿が掻き消えた。
いや、私の動体視力を超える速度で移動したのだ。
次の瞬間、ベルはマンティコアの背中に乗っていた。
彼は前足で、マンティコアの首筋を軽くトンと叩いたように見えた。
ゴキリ。
生々しい音が森に木霊した。
マンティコアの首が、ありえない角度にねじ曲がる。
断末魔の叫びすら上げる暇もなく、巨獣の瞳から光が消えた。
ドサッ、と巨大な体が地面に崩れ落ちる。
一撃。
それも、魔法すら使っていない。ただの身体能力による制圧だ。
おそらく、彼の猫パンチは物理法則を無視したとてつもない力が込められていたのだろう。
「……ふう。危ないところだった。もう少しで暴れて毒袋を破裂させるところだったぞ」
ベルの冷徹な声が響く。
ベルはマンティコアの背中から軽やかに飛び降り、何事もなかったかのように前足を舐めた。
「相変わらず、デタラメな強さですね……」
私は呆れながら近づいた。
マンティコアは完全に絶命している。外傷はほとんどない。首を一瞬でへし折られたことによる即死だ。
素材としてはこれ以上ないほどの上物だろう。
「さあ、コレット。ここからは貴様の仕事だ。鮮度が落ちないうちに処理を頼むぞ。特に尾の毒袋だ。あれを傷つけずに取り出すのは、我の爪では難しい」
「はいはい。分かりましたよ、グルメな王様」
私は杖を取り出し、マンティコアの死骸の前に立った。
解体作業の始まりだ。
普通なら、ナイフを使って皮を剥ぎ、肉を切り分け、内臓を取り出すという血生臭い重労働が必要になる。毒袋の摘出となれば、さらに繊細な技術と神経を使うだろう。
だが、私には魔法がある。
私はマンティコアの尾の付け根、毒袋があると思われる場所に手をかざした。
イメージするのは「分離」。
必要な肉と、不要な毒。その境界線を明確にし、水の刃で切り離す。
「清らかなる水よ、分かちて導け」
私の指先から、青白い光を帯びた水が溢れ出す。
水はマンティコアの体内へと浸透し、組織の間を滑るように広がっていく。
私は目を閉じ、魔力を通して内部の構造を感じ取った。
あった。
禍々しい紫色の液体が詰まった袋。それが筋肉の奥深くに埋まっている。
私は水を操作し、その袋を優しく包み込んだ。
そして、周囲の肉との結合部を、水圧で慎重に、かつ大胆に剥離させていく。
ヌルリ。
私の手の動きに合わせて、切断された尾の断面から、水球に包まれた毒袋が浮かび上がってきた。
一滴の毒も漏らすことなく、完全な摘出だ。
私はそれを慎重に空き瓶へと封印した。これはこれで、ギルドに売れば良い値がつくだろう。
「お見事。相変わらず、気持ち悪いほど便利な魔法だ」
ベルが感心したように喉を鳴らす。
私は作業を続けた。
次は血抜きだ。
全身の血管に水を巡らせ、古くなった血液を洗い流す。これにより、肉の臭みが消え、保存性が格段に向上する。
そして、皮と肉の分離。
水魔法で皮の下に膜を作り、つるりと剥がす。
数分後。
そこには、きれいに部位ごとに分けられたマンティコアの肉と、傷一つない毛皮、そして素材としての爪や牙が整然と並んでいた。
周囲の地面には、血の一滴も落ちていない。
すべて水魔法で洗い流し、浄化したからだ。
「これで良し、ですね」
私は額の汗を拭った。
これだけの巨体だ、魔力の消費もそれなりにあるが、心地よい疲労感だ。
「……待て、コレット」
ベルが真剣な眼差しで、切り分けたばかりの赤身肉――特に脂の乗った尾の付け根の部位――を見つめていた。 鼻をヒクつかせ、喉を鳴らしている。
「どうしました?」
「梱包する前に、品質の確認が必要だ」
「……まさか、ここで食べる気ですか? 生ですよ?」
「愚か者め。極上の肉は、生でこそ真価が問われるのだ。鮮度抜群の刺身だぞ」
言うが早いか、ベルは我慢できないといった様子で、一口大の肉片にかぶりついた。
クチャ、クチャ……。
咀嚼音が静かな森に響く。私は固唾を呑んで見守った。もし毒が残っていたらどうしようかという不安がよぎるが、毒の専門家である彼が食べるのだから大丈夫なのだろう。
やがて、ベルがゴクリと肉を飲み込んだ。
「……ほう」
金と赤の瞳が、怪しく輝いた。恍惚とした表情で、口元をペロリと舐める。
「素晴らしい……。筋肉の繊維が密で、噛むたびに濃厚な魔力が湧き水のように溢れ出してくる。微かに残る毒の刺激が、肉の甘みを極限まで引き立てているぞ。これは焼けばさらに化けるな」
どうやら、彼のグルメセンサーは最高評価を下したようだ。
「それは重畳です。苦労して解体した甲斐がありました」
「うむ。よし、合格だ。コレットよ、心して運べ。これはただの肉ではない、王の血肉となる聖なる糧だ」
「はいはい。ですが、これ全部は持ち帰れませんよ? さすがに重すぎます」
マンティコアの肉は数百キロはある。
私の鞄には入りきらないし、ベルが背負うわけにもいかない。
「む……。そうだな。勿体ないが、上質な部位だけを選別するか。尾の肉と、サーロイン、あとはレバーあたりか」
「残りは森の動物たちへのお裾分けですね」
私たちは必要な分だけを、私が水魔法で作った即席の氷のケースに詰め込んだ。
毛皮や牙といった換金素材も忘れずに回収する。
これだけで、金貨50枚の報酬に加えて、追加の売却益も見込めるだろう。
「大漁ですね」
「うむ。これで当分は食いっぱぐれがない。それに、あの羽毛布団も買えるぞ!」
ベルの尻尾が嬉しそうに揺れる。
私たちは荷物をまとめ、帰路につくことにした。
行きと同じく、森は静かで、どこかよそよそしい。
だが、私たちの足取りは軽かった。
恐怖の対象であるマンティコアを、ただの食材として処理してしまった。
その事実は、この森での私たちの立ち位置を、確固たるものにした気がした。
「……ねえ、ベル」
歩きながら、私はふと尋ねた。
「貴方は、どうして私を手伝ってくれるの?」
「愚問だな、コレット。我は王だぞ? 下僕の躾は我の仕事だ。……それに、我は、うまいものが食べたいのだ」
ベルは振り返り、ニヤリと笑った。
「……そうですか。それは頼もしい限りです」
私は苦笑した。
やはり、彼の行動原理はどこまでも欲望に忠実だ。
けれど、その単純さが今は心地よい。
複雑な陰謀や裏切りが渦巻く王都とは違う。
美味しいものを食べたい、快適に眠りたい。
そんなシンプルな願いのために力を振るう彼の姿は、私にとって何よりも眩しく、愛おしく思えた。
「さあ、急ぐぞコレット。早く帰って調理だ。我の腹は限界だ」
「はいはい。街に戻って報告を済ませてからですよ」
私たちは並んで歩いた。
木漏れ日が、私たちの背中を優しく照らしている。
森の出口までは、もう少しだ。




