第十六話:王の要求とエンゲル係数
針が厚手のウール地を貫通する、プツッという微かな感触が指先に伝わる。続いて、糸が布と擦れ合うシュッという音が、静寂に満ちた礼拝堂に小さく響く。
私は朝日が差し込む窓辺の椅子に腰掛け、膝の上に広げたモスグリーンの布地に、一定のリズムで針を運んでいた。
「……ふふっ」
思わず、口元が緩む。
この単純作業が、たまらなく楽しい。
昨日、フロンティアの街で購入した冬用の厚手の布地だ。これを縫い合わせて、石造りの冷たい床に敷く絨毯と、窓辺の冷気を遮断するカーテンを作っている。
とはいえ、私が夜なべをして無理をしていたわけではない。
昨日は教会に戻ってから、買ってきた大量の物資を整理し、棚に並べるだけであっという間に時間が過ぎてしまった。ベルと共に買ってきたクッキーを少しつまみ、ベルの魔法で風呂を沸かし、泥のように眠って、そして今朝は小鳥のさえずりと共に自然と目が覚めたのだ。
誰に強制されるでもなく、自分の意志で早起きをして、自分の城を整えるための作業に没頭する。
無心で針を刺し、糸を引く。
その繰り返しは、かつて前世で緩衝材の気泡――プチプチとしたあれだ――を一つずつ潰していく時に感じたような、原始的で中毒性のある快感に似ていた。バラバラだった布が、私の手によって一つの「形」へと整えられていく過程は、散らかった部屋が片付いていくのと同じ種類のカタルシスを私に与えてくれる。
プツッ、シュッ。プツッ、シュッ。
朝日が布の上を滑り、縫い目を黄金色に照らす。
平和だ。
王城での生活では、刺繍の時間すらも「教養を見せつけるための修練」であり、一針のミスも許されない緊張の場だった。だが今は、多少縫い目が曲がろうが、誰にも咎められない。
この自由な時間こそが、何よりの贅沢かもしれない。
「……いつまでやっている、コレットよ」
足元から、不満げな、それでいてどこか甘えたような声が聞こえた。
私が針を止め、視線を下ろすと、そこには作りかけのクッション――中身には、まだ詰めていない柔らかいネル生地の布切れ――の上で丸くなっていた黒猫が、金と赤の瞳を細めて私を見上げていた。
ベルだ。
どうやら、私の針仕事のリズムが、彼の安眠を妨げてしまったらしい。あるいは、単に私が彼にかまわずに布と戯れているのが気に入らないのか。
「おはようございます、ベル。お目覚めですか?」
「おはようではない。太陽はすでに顔を出しているぞ。貴様がその布切れと戯れている間に、我の腹時計は限界を訴えているのだ」
ベルは大きく伸びをし、ピンク色の舌を巻き上げて欠伸をした。
その仕草は無防備な猫そのものだが、放つ言葉は相変わらず尊大だ。
「昨日はあれほど騒いでいたのに、帰ってきてからは早々に寝てしまったくせに」
「ふん、王の睡眠は何よりも優先される。邪魔をするでない。……それより、忘れてはおらんだろうな」
彼は私の膝に前足をかけ、爪を立てないように配慮しつつも、ぐいと身を乗り出してきた。
「昨日の誓いだ! 街で手に入れた、あの黄金の油脂と白い粉、そして鶏の卵! それらを用いて、貴様が『最高のお菓子』を作ると言ったことを!」
ベルの尻尾が、期待に打ち震えるように激しく左右に振られている。
昨日、パン屋で食べたクッキーの味が忘れられないらしい。さらに言えば、私が市場でバターや砂糖を買い込んだ際、「これで作ってやる」と約束したことを、彼は一言一句違わず記憶しているようだ。
「ええ、覚えていますとも。そのために早起きをして、こうして環境を整えていたのですから」
私は縫いかけの布を畳み、針をピンクッションに刺した。
今日は、この教会での生活をさらに向上させるための重要な一日だ。
そして、その始まりを告げるのは、甘美な朝食と決めていた。
「さあ、始めましょうか」
「うむ。監視してやるゆえ、存分に腕を振るえ」
私はベルを伴って、調理場へと向かった。
石造りのシンクや調理台は、私の水魔法によって塵一つない清潔さを保っている。
そこに、昨日手に入れた戦利品を並べていく。
陶器の壺に入った新鮮なバター。
麻袋に入った小麦粉。
木箱の中で眠る鶏の卵。
そして、高価な砂糖が入った小瓶。
それらが朝の光を受けて輝く様は、宝石箱よりも価値があるように見えた。
ベルが特等席である調理台の隅に陣取り、目を爛々とさせている。
私はまず、手を洗った。
清潔さは料理の基本であり、私の信条でもある。
冷たい水で指先を清め、タオルで拭き上げる。
今日のメニューは、パンケーキにすることにした。
クッキーも捨てがたいが、朝食としては少しボリュームが欲しい。それに、この新鮮な卵とバターを味わうなら、ふんわりと焼き上げたパンケーキに勝るものはないだろう。
「ベル、まずは卵を割りますが……ここで魔法を使います」
「卵ごときに魔法だと? 大袈裟な」
「見ていてください。白身と黄身を分けるんです」
私は卵を割り、中身を一つのボウルに落とした。
ぷっくりと盛り上がった黄身と、透明な白身。
私は指先を向け、詠唱する。
『清らかなる水よ、分かちて導け』
私の指先から極細の水流が伸び、卵黄を優しく包み込んだ。
水膜に覆われた卵黄だけが、ふわりと浮き上がり、隣のボウルへと移動する。
手でやるよりも確実で、衛生的だ。
白身には殻の欠片も混じっていない。
「ほう……。相変わらず、地味だが器用な真似をする」
「お菓子作りには、正確な計量と手順が命ですから」
私は卵黄の入ったボウルに、少量の砂糖と牛乳を加えた。
泡立て器はないので、数本の細い木の枝を束ねて洗浄し、乾燥させた即席の道具を使う。
カシャカシャと混ぜ合わせる。
次に、小麦粉を振るい入れる。
粉がダマにならないよう、慎重に、かつ手早く。
黄金色のペーストが出来上がっていく。
そして、ここからが勝負だ。
残った卵白。これに砂糖を加え、泡立ててメレンゲを作る。
これこそが、パンケーキを雲のように軽く、口溶けの良いものにするための鍵だ。
私は手首のスナップを利かせ、ひたすらに卵白を撹拌した。
カシャカシャカシャカシャ……。
静かな教会に、リズミカルな音が響く。朝の活気を含んだ音だ。
「……何をしているのだ? そんなに掻き回しては、腕が疲れるだけではないか」
ベルが不思議そうに首を傾げる。
「これ空気を混ぜ込んでいるんです。こうすることで、生地が膨らんで、ふわふわになるんですよ」
「空気? 空気を食うのか?」
「食感を食べるのです。贅沢とは、そういうものでしょう?」
やがて、卵白は白く艶やかな泡となり、角が立つほどの硬さになった。
美しい。
雪のような純白。
私はそれを先ほどの卵黄生地に加え、泡を潰さないようにさっくりと混ぜ合わせた。
黄色と白がマーブル模様を描き、やがて淡いクリーム色に統一される。
生地の完成だ。
次は、焼きの工程に入る。
私は鉄のフライパンをかまどにセットした。
そして、ベルを見る。
「さて、王様。出番ですよ」
「ふん、ようやくか。待ちくたびれたぞ」
ベルは待ってましたとばかりに胸を張った。
かまどには薪が組まれているが、火はまだ入っていない。
火打ち石は買ってきたが、今の私たちにはもっと優秀な着火装置がある。
「弱火でお願いします。焦がさないように、じっくりと火を通したいので」
「注文が多いな。だが、我の魔力操作にかかれば造作もないことだ」
ベルが口を少し開け、息を吐くように詠唱を開始する。
『灯れ』
ボッ。
小さな、しかし安定した青い炎が薪に灯った。
火力が強すぎず、弱すぎず、絶妙な熱量がフライパンの底を温め始める。
彼の火魔法の制御力は、王都の宮廷魔導師も裸足で逃げ出すレベルだ。
私は温まったフライパンに、少量のバターを落とした。
ジュワァ……。
バターが溶け、芳醇な香りが立ち上る。
その匂いに、ベルの鼻がピクピクと動いた。
「……良い匂いだ。これだけでも食えそうだ」
「まだですよ。ここからが本番です」
私は生地をお玉ですくい、フライパンの中央に落とした。
ぽてっ、と落ちた生地は、厚みを持ったまま円形に広がる。
ジジジ……という小さな音が、期待感を煽る。
蓋をして、蒸し焼きにする。
ここからは忍耐の時間だ。
「まだか?」
「まだです」
「……もう焼けたのではないか? 匂いが変わったぞ」
「あと少し。表面に気泡が出てくるまで待つのです」
ベルはフライパンの周りをうろうろし、尻尾を揺らしている。
狩りの時の冷徹な捕食者の姿はどこへやら、今はただのお腹を空かせた猫だ。
数分後。
私は蓋を開けた。
ふわっ、と甘い湯気が顔にかかる。
生地はふっくらと膨らみ、表面にはポツポツと小さな穴が開いている。
完璧だ。
私はフライ返しを差し込み、手首を返した。
パタン。
裏返された面は、均一なきつね色に染まっていた。
その美しさに、私は心の中で拍手を送った。
焦げもなく、生焼けでもない。ベルの火加減が完璧だった証拠だ。
「おお……! 色が! 黄金色に変わったぞ!」
ベルが歓声を上げる。
「これが料理という魔法です、ベル」
私はさらに数分焼き、焼きあがったパンケーキを皿に移した。
三枚重ね。
その上に、さらに追いバターをひとかけら乗せる。
余熱でバターが溶け出し、きつね色の表面を滑り落ちていく。
仕上げに、昨日採取して煮詰めておいたベリーのシロップを回しかける。
赤紫色のソースが、黄金色の山肌を彩る。
完成だ。
朝の光に照らされたそれは、この世の幸福を凝縮したような輝きを放っていた。
私たちは礼拝堂のテーブルへと移動した。
ベルの分は、食べやすいように一口サイズに切り分け、平皿に盛ってある。
私は席に着き、ベルもテーブルの上に飛び乗った。
「では、いただきましょうか」
「うむ! 許す! 食せ!」
号令と共に、ベルが皿に顔を突っ込んだ。
ハフッ、という音がして、彼が一切れを口に含んだ。
一瞬の静止。
時が止まったかのような沈黙。
そして。
「…………なん、だと……?」
ベルの金と赤の瞳が、限界まで見開かれた。
「消えた……? いや、溶けたのか!? 噛もうとした瞬間、雲のようにほどけ、甘みが舌の上で爆発したぞ!?」
彼は驚愕のあまり、後ろ足で立ち上がりそうになっている。
「そしてこの香り! バターのコクと、卵の優しさ、小麦の香ばしさが混然一体となり、我の脳髄を直接揺さぶってくる! なんだこれは! 肉ではない! だが、肉以上に肉感的な満足感がある!」
「パンケーキと言います。気に入りましたか?」
「気に入ったなどという次元ではない! これは革命だ! 暴力だ! 味覚への侵略行為だ!」
ベルは興奮のあまり意味不明な供述を繰り返しながら、猛烈な勢いで次の欠片へとアタックを開始した。
ガツガツと食べるのではなく、一口ごとに目を細め、味わうように咀嚼している。
どうやら、美食家としての本能が、この繊細な食感を雑に扱うことを拒否しているらしい。
私もナイフとフォークを手に取り、自分の分へと向かった。
ナイフを入れる。
抵抗がない。
ふわ、と刃が沈んでいく感触。
一切れを口に運ぶ。
……ん。
思わず、吐息が漏れた。
温かい生地が、舌の上でほろりと崩れる。
メレンゲの気泡が弾け、閉じ込められていた香りが口いっぱいに広がる。
バターの塩気が、シロップの甘さを引き立て、無限に食べられそうなバランスを生み出している。
美味しい。
王城のシェフが作る、見た目ばかり豪華で冷め切ったお菓子とは違う。
焼きたての熱と、素材の力がダイレクトに伝わってくる。
これだ。私が求めていたのは、こういう「生きた食事」なのだ。
私は窓の外を見た。
森の緑が鮮やかに目に映る。
平和だ。
理不尽な婚約破棄も、追放という名の死刑宣告も、すべてが遠い過去の出来事のように思える。
今、私の目の前には、世界一美味しい朝食と、それを全力で称賛してくれる相棒がいる。
皿が空になるまで、そう時間はかからなかった。
ベルは皿に残ったシロップまで綺麗に舐め取り、満足げに腹をさすっている。
私は食後の紅茶――これも市場で手に入れた茶葉だ――を淹れ、湯気を立てるカップを手に取った。
至福の時間の余韻に浸りながら、私はふと、現実的な思考へと頭を切り替えた。
テーブルの端には、私が家計簿代わりに使っている羊皮紙のメモが置かれている。
そこには、昨日の支出と、残りの所持金、そして今後必要となる物資のリストが記されていた。
私はカップを置き、そのメモを引き寄せた。
数字の羅列を目で追う。
そして、小さく溜息をついた。
「……高い」
私の呟きに、毛繕いをしていたベルが耳を動かした。
「何がだ? 我の評価か? 当然だ、今の食事で貴様の下僕ランクは一つ上がったぞ」
「いいえ、ベル。エンゲル係数です」
「エンゲル……? なんだそれは。新しい魔獣の名か?」
「食費の割合のことですよ。私たちが稼いだお金に対して、食べるものにかけている金額が高すぎるのです」
私は指で数字を弾いた。
昨日、キラーベアの素材を売って得た金貨は、確かに大金だった。
普通の平民なら、数ヶ月は遊んで暮らせる額だ。
だが、私たちはその一部を、すでに高級食材へと変換してしまっている。
このバター。この砂糖。そして上質な小麦粉。
これらはフロンティアのような辺境では輸送コストがかかるため、王都よりも割高だ。
今のペースで消費を続ければ、資金はあっという間に底をつく。
「ベル、聞いてください。私たちは今、非常に贅沢な食事をしました。ですが、これを毎日続けるとなると、破産します」
「破産だと? 王たる我が、金欠ごときでひもじい思いをせねばならんのか?」
ベルが不満げに髭を震わせる。
「ええ。快適な生活を維持するには、食費以外にもお金がかかるのです」
私はリストを指差しながら説明を続けた。
「まず、この教会。雨風はしのげますが、冬を越すには設備が不十分です。暖炉のための薪は森から取れますが、寝具です。今は木の台座に布を敷いただけですが、ちゃんとしたマットレスが欲しいです。羽毛布団があれば最高ですね」
「ふむ。確かに、夜は冷えるからな。羽毛……。ふかふかのやつか。それはよいな。我の寝床としても相応しい」
「そして、調理器具。フライパン一つでは限界があります。オーブン機能付きの魔道コンロ……は無理でも、厚手の鍋や、保存用のガラス瓶も必要です」
「オーブンがあれば、もっと色々な菓子が焼けるのか?」
「はい。ケーキも、焼き立てのパンも」
ベルの喉がゴクリと鳴った。
彼の想像力は、すでに未来の美食へと飛んでいるようだ。
「……だが、それらを手に入れるには金がいる、ということだな?」
「その通りです。今の所持金では、食費を切り詰めるか、布団の購入を諦めるかの二択になります。つまり、明日からはまた干し肉と堅焼きパンに戻るか、あるいは冬の寒さに震えながらパンケーキを食べるか……」
「断る!」
ベルが叫んだ。
彼はテーブルの上で仁王立ちになり、長い尻尾をバシバシと叩きつけた。
「どちらも却下だ! 我は美食も、快適な寝床も、両方手に入れる! 王とは貪欲なものだ。妥協など知らん!」
「おっしゃることはもっともですが、先立つものがなければ……」
「ならば、稼げばよいではないか!」
ベルは金と赤の瞳をぎらりと輝かせ、窓の外、森の奥深くを指し示した。
「外には資源が溢れていると言ったのは貴様だぞ、コレット。草むしりなどでちまちまと小銭を稼ぐから、収支が合わんのだ」
「薬草採取は堅実な仕事ですよ」
「堅実? 退屈の間違いだろ。あんなものは、我の散歩のついでにやるようなことだ。エンゲルなんとか、とやらが高いのなら、分母を増やせばよい。圧倒的な富を得れば、バターなど湯水のように使えるではないか!」
論理的だ。
極めて暴力的だが、真理を突いている。
収入が増えれば、支出の割合は下がる。単純な算数だ。
「つまり、もっと高く売れる獲物を狩れと?」
「そうだ。キラーベアの素材ですらあれだけの値がついたのだ。ならば、もっと希少で、もっと強力な魔獣を狩れば、一生遊んで暮らせるだけの金になるはずだ」
ベルはニヤリと笑った。
その笑みは、可愛い黒猫のものではなく、かつて世界を恐怖させた魔獣のそれだった。
「安心しろ、コレット。貴様には我がついている。どんな化け物だろうと、我の前ではただの肉塊に過ぎん。それに……」
彼は言葉を切り、テーブルの上の空になった皿を見た。
「パンケーキとやらを毎日食えるなら、少しくらい本気を出してやらんでもない」
私は思わず吹き出した。
結局のところ、彼の原動力は食欲なのだ。
最強の魔獣を突き動かすのが、バターと砂糖の塊だなんて。
なんて平和で、頼もしい理由だろう。
「分かりました。では、方針転換です」
私は羊皮紙のリストに、新たな項目を書き加えた。
『高ランク魔獣の素材』と。
「薬草採りは卒業して、狩猟に行きましょう。私たちの食卓と、快適な住環境を守るために」
「うむ。そうこなくてはな。草むしりなど王の仕事ではない。狩りこそが王の遊戯だ」
ベルは満足げに頷き、テーブルから飛び降りた。
そして、入り口の扉の前で振り返り、私を促すように鳴いた。
「行くぞ、コレット。時は金なり、だ。早速ギルドへ行って、一番値の張る獲物の情報を仕入れてくるぞ」
「気が早いですね。まだお茶も飲み終わっていませんよ」
「茶など後だ! 我の脳内はすでに、羽毛布団の上でケーキを食う未来で満たされているのだ!」
私は残りの紅茶を一気に飲み干し、立ち上がった。
口の中に残る甘い余韻。
これを守るためなら、森の魔獣たちには悪いが、少しばかり乱暴な稼ぎ方をさせてもらおう。
私は腰のナイフを確認し、杖を手にした。
そして、意気揚々と尻尾を立てて歩き出した相棒の背中を追って、再び、外の世界へと足を踏み出した。




