第十五話:黄金の油脂と甘美なソレ
朝の光が、木枠の窓を通して室内を照らし出している。
私は重い瞼を持ち上げ、視界が白くぼやけた状態から、天井の木目を眺めた。
私には、少しごわつく羊毛の毛布が首元まで掛かっている。背中には、煎餅のように薄いマットの感触があり、寝返りを打つたびに古びた木製ベッドが軋む音がする。
誰にも急かされず、何時までにドレスを着なければならないという義務もなく、ただ自分の意志で起き上がる朝。
私は大きく伸びをし、肺いっぱいに朝の空気を吸い込んだ。宿屋特有の、乾燥した木材と微かな埃、そして階下の厨房から漂ってくるスープの匂いが混ざり合った生活の気配。
悪くない。
「……いつまで寝ているつもりだ、コレットよ」
私の胸元あたりから、不満げな、それでいてどこか期待を含んだ声が聞こえた。
視線を落とすと、黒い毛玉が私の胸の上に乗って、じっとこちらの顔を覗き込んでいる。金と赤の瞳が、朝の陽光を受けてキラキラと輝いていた。
ベルだ。
どうやら、私が起きるのを今か今かと待っていたらしい。
尻尾が、私の鼻先をくすぐるように揺れている。
「おはようございます、ベル。今日は、随分と早起きですね」
「早起きではない。貴様が遅いのだ。太陽はとうに昇り、街はすでに活動を始めているぞ」
ベルは私の胸から軽やかに飛び降り、床の上で優雅に背伸びをした。
その動作一つ一つに、隠しきれない王者の風格――と、それ以上に食欲への執着――が滲み出ている。
「忘れたとは言わせんぞ。昨夜の誓いを」
「誓い、ですか」
「とぼけるな! クッキーだ! バターと砂糖をふんだんに使い、香ばしく焼き上げたという、焼き菓子だ!」
ベルの毛が逆立ち、バチバチと小さな火花が散った。
彼の「腹時計」は、どうやら極めて正確かつ執拗に、昨晩のお預けをカウントしていたらしい。
私は苦笑しながら、ベッドから足を下ろした。
冷たい床板の感触が、素足を刺激する。
「忘れてはいませんよ。身支度を整えたら、すぐに行きましょう。パン屋さんの焼きたてが一番美味しいはずですから」
「うむ。その言葉を待っていた。急げ、一刻も早くだ」
私は洗面台の水差しから水を汲み、顔を洗った。
冷たい水が肌を引き締め、昨日の疲れを洗い流してくれる。
麻のシャツに袖を通し、革のズボンを履く。最後に、Fランク冒険者のギルドカードを首にかける。
鏡に映った自分の姿は、かつての煌びやかな公爵令嬢とは似ても似つかない、地味で実用的なものだった。
私たちは宿を出て、朝の光に満ちた通りへと繰り出した。
昨夜の静寂とは打って変わり、街はすでに喧騒に包まれていた。
荷車を引く商人たちの掛け声、朝市の準備をする露店商の音、家畜の鳴き声。それらが混然一体となって、フロンティアという街の活気を形作っている。
私は雑踏を縫うように歩きながら、目的のパン屋を目指した。
ベルは私の足元にぴったりと張り付き、他の歩行者に踏まれないよう器用に立ち回っている。時折、すれ違う人々が黒猫の姿に目を留めるが、昨日のような恐怖の対象としてではなく、単なる「冒険者の連れているペット」として見られているようだった。
昨夜のギルドでの一件は、まだ噂の段階で留まっているのだろうか。あるいは、朝の忙しさが彼らの好奇心を上書きしているのかもしれない。
いずれにせよ、騒がれないのは好都合だ。
やがて、通りの向こうから、たまらなく魅力的な香りが漂ってきた。
小麦が焼ける芳醇な香り。焦げた砂糖の甘くほろ苦い匂い。そして、濃厚なバターの香り。
それらが鼻腔をくすぐった瞬間、足元のベルの動きが変わった。
弾むようなステップになり、喉の奥からゴロゴロという音が漏れ始める。
「……来た。これだ。この香りだ」
ベルが陶酔したように呟く。
「昨夜、我の鼻を弄んだ香りの源泉……! コレット、あそこだ!」
彼が前足で示した先には、『小麦の穂』という看板を掲げた小さな店があった。
レンガ造りの煙突からは白い煙が立ち上り、開け放たれた扉からは、焼きたてのパンが並ぶ棚が見える。
店の前にはすでに数人の客が並んでいたが、私たちは最後尾についた。
順番を待つ間も、ベルは落ち着かない様子で足踏みをしていた。
ようやく私たちの番が回ってくる。
店の中に入ると、熱気と共にさらに濃厚な香りが押し寄せてきた。
棚には、丸い田舎パンや、細長いバゲット、そして木の実を練り込んだハード系のパンが所狭しと並んでいる。
だが、私たちの目的はそれではない。
カウンターのガラスケースの中に、それはあった。
黄金色に焼き上げられた、手のひらサイズのクッキー。
表面には砂糖の粒がまぶされ、光を受けてきらきらと輝いている。
その隣には、たっぷりのバターを使ったと思われる、厚焼きのガレットも並んでいた。
「いらっしゃい。何にする?」
恰幅の良い女性店主が、笑顔で問いかけてくる。
「このクッキーを十枚。それと、ガレットを五つお願いします」
私が注文すると、足元でベルが「もっとだ! 買い占めろ!」というようにグルグルとその場を歩き騒いでいるが、私はそれを無視した。
これ以上買うと、食べきれずに湿気てしまう。美味しいものは、一番美味しい瞬間に食べ切るのが流儀だ。
紙袋に包まれた焼き菓子を受け取り、代金を支払う。
焼きたての熱が、紙袋を通して手に伝わってくる。
店を出てすぐ、人通りの少ない路地のベンチに腰を下ろした。
ベルが私の膝に飛び乗り、待ちきれない様子で紙袋に鼻を突っ込もうとする。
「待ってください、ベル。今、出しますから」
私は袋の中から、まだ温かいクッキーを一枚取り出した。
バターの香りが、爆発するように広がる。
ベルの目の前に差し出すと、彼は一瞬だけ躊躇い、そして恭しく口を開けた。
サクッ。
小気味よい音が響く。
ベルがクッキーを半分かじり取った。
彼の動きが止まる。
咀嚼する音だけが、静かに続く。
そして、ごくりと飲み込んだ後、彼は天を仰いだ。
「……なんだ、これは」
震える声。
「うまいぞ!口に入れた瞬間、砂のように崩れ、バターの風味が奔流となって押し寄せてくる! 砂糖の甘さが脳を直接揺さぶり、気づけば消えている……! 儚い! だが、強烈な余韻だ!」
「気に入りましたか?」
「うまい! うますぎる! 肉とはまた違う、暴力的なうまさだ! 人間め、これほど罪深いものを隠し持っていたとは!」
ベルは残りの半分を一息に食べると、催促するように私の手を舐めた。
私は苦笑しながら、次の一枚を取り出した。
私も一枚、口に運ぶ。
サクサクとした食感。
上質な小麦の風味と、惜しげもなく使われたバターのコク。
素朴だが、素材の良さを最大限に引き出した、職人の技を感じる味だ。
王城で食べていた繊細な装飾の施された菓子よりも、この温かみのある一枚の方が、今の私の心には染みた。
結局、私たちはそこで半分ほどを平らげてしまった。
残りは後のお楽しみとして鞄にしまい、次の目的地へと向かう。
市場だ。
昨夜のギルドでの報酬のおかげで、懐は温かい。
今日の目的は、教会での生活を「生存」レベルから「文化的な生活」レベルへと引き上げるための物資調達である。
私は脳内の買い物リストを展開した。
最優先事項は、食材と調味料。そして、冬に備えた布地。
私たちは食材エリアへと足を踏み入れた。
朝市は活気に満ちている。
新鮮な野菜や果物が山積みされ、色鮮やかな光景が広がっている。
私は乳製品を扱う屋台の前で足を止めた。
大きな木桶に入った、黄色い塊。
バターだ。
先ほどのクッキーにも使われていた、魅惑の油脂。
保存食の干し肉生活から脱却するためには、この油脂こそが必要不可欠だ。
「おじさん、このバターを壺一つ分ください」
「あいよ! 新鮮な牛乳から作った特製だ。パンに塗っても、料理に使っても最高だぜ」
店主が素焼きの壺にバターを詰め込んでくれる。
そのねっとりとした質感と、濃厚な乳の香りに、私は喉を鳴らした。
これは、ただの油ではない。
料理に深みとコクを与え、幸福度を底上げする黄金の断熱材だ。
高価だが、惜しむべきではない。
次に狙うのは、卵だ。
割れやすい卵を運ぶのは冒険者にとってリスクが高いが、私には関係ない。
籠一杯の卵を購入し、魔法で衝撃吸収の膜を張ればいいだけだ。
白と赤茶色の殻が入り混じった卵たち。
まだほんのりと温かい。
これがあれば、料理の幅は無限に広がる。
オムレツ、スクランブルエッグ、そして……。
私の脳裏に、ある計画が浮かんでいた。
今日の昼食のメニューだ。
さらに、砂糖と塩、胡椒といった基本的な調味料を買い揃える。
特に砂糖は貴重品で値が張るが、ベルの甘味への執着を満たすためには必須投資だ。
白い結晶が入った袋を受け取ると、ベルが鼻を寄せて確認してきた。
「コレットよ、それは先ほどのクッキーに使われていた白い粉か?」
「ええ。これがあれば、似たようなお菓子を自分たちで作ることができますよ」
「なんと! 貴様、あの神の如き味を再現できるというのか?」
「材料と道具、そして熱源さえあれば」
私はベルの顔を見て、にっこりと微笑んだ。
熱源。
すなわち、彼のことだ。
「ふん、我の炎を調理に使おうという魂胆だな。……だが、あの味が毎日食えるというのなら、考えてやらんでもない」
交渉成立だ。
単純な相棒を持って、私は幸せ者だと思う。
食材の次は、布地だ。
教会は石造りで、これから来る冬には底冷えすることが予想される。
窓には水晶でできた、ガラスが入っているが、カーテンはない。
それに、ベルのための寝床――クッションも必要だ。
私は繊維製品を扱う店に入った。
棚には色とりどりの布が巻かれて積まれている。
手触りを確かめる。
麻、木綿、ウール。
私は厚手のウール生地を選んだ。色は深いモスグリーン。森の中に馴染み、かつ汚れが目立ちにくい色だ。
さらに、肌触りの良いネル素材の生地も購入する。こちらはベルのクッション用だ。
「随分と買い込むね、お嬢ちゃん。何か商売でも始めるのかい?」
店主が呆れたように聞いてくる。
「いえ、新居の準備です。少し広くて、何もないところなので」
私は大量の布を抱え、店を出た。
「さあ、必要なものは揃いました。さあ、帰りましょう」
私たちはフロンティアの街を後にした。
門番の衛兵たちには、宙に浮く荷物を見て目を丸くされたが、昨日の「キラーベアの少女」だと気づくと、何も言わずに通してくれた。
どうやら、私の悪名はしっかりと浸透しているらしい。




