表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第三章:フロンティアの洗礼

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/18

第十五話:黄金の油脂と甘美なソレ

 朝の光が、木枠の窓を通して室内を照らし出している。

 私は重い瞼を持ち上げ、視界が白くぼやけた状態から、天井の木目を眺めた。

 私には、少しごわつく羊毛の毛布が首元まで掛かっている。背中には、煎餅のように薄いマットの感触があり、寝返りを打つたびに古びた木製ベッドが軋む音がする。


 誰にも急かされず、何時までにドレスを着なければならないという義務もなく、ただ自分の意志で起き上がる朝。

 私は大きく伸びをし、肺いっぱいに朝の空気を吸い込んだ。宿屋特有の、乾燥した木材と微かな埃、そして階下の厨房から漂ってくるスープの匂いが混ざり合った生活の気配。

 悪くない。


「……いつまで寝ているつもりだ、コレットよ」


 私の胸元あたりから、不満げな、それでいてどこか期待を含んだ声が聞こえた。

 視線を落とすと、黒い毛玉が私の胸の上に乗って、じっとこちらの顔を覗き込んでいる。金と赤の瞳が、朝の陽光を受けてキラキラと輝いていた。


 ベルだ。


 どうやら、私が起きるのを今か今かと待っていたらしい。

 尻尾が、私の鼻先をくすぐるように揺れている。


「おはようございます、ベル。今日は、随分と早起きですね」


「早起きではない。貴様が遅いのだ。太陽はとうに昇り、街はすでに活動を始めているぞ」


 ベルは私の胸から軽やかに飛び降り、床の上で優雅に背伸びをした。

 その動作一つ一つに、隠しきれない王者の風格――と、それ以上に食欲への執着――が滲み出ている。


「忘れたとは言わせんぞ。昨夜の誓いを」


「誓い、ですか」


「とぼけるな! クッキーだ! バターと砂糖をふんだんに使い、香ばしく焼き上げたという、焼き菓子だ!」


 ベルの毛が逆立ち、バチバチと小さな火花が散った。

 彼の「腹時計」は、どうやら極めて正確かつ執拗に、昨晩のお預けをカウントしていたらしい。

 私は苦笑しながら、ベッドから足を下ろした。

 冷たい床板の感触が、素足を刺激する。


「忘れてはいませんよ。身支度を整えたら、すぐに行きましょう。パン屋さんの焼きたてが一番美味しいはずですから」


「うむ。その言葉を待っていた。急げ、一刻も早くだ」


 私は洗面台の水差しから水を汲み、顔を洗った。

 冷たい水が肌を引き締め、昨日の疲れを洗い流してくれる。

 麻のシャツに袖を通し、革のズボンを履く。最後に、Fランク冒険者のギルドカードを首にかける。

 鏡に映った自分の姿は、かつての煌びやかな公爵令嬢とは似ても似つかない、地味で実用的なものだった。


 私たちは宿を出て、朝の光に満ちた通りへと繰り出した。

 昨夜の静寂とは打って変わり、街はすでに喧騒に包まれていた。

 荷車を引く商人たちの掛け声、朝市の準備をする露店商の音、家畜の鳴き声。それらが混然一体となって、フロンティアという街の活気を形作っている。

 私は雑踏を縫うように歩きながら、目的のパン屋を目指した。

 ベルは私の足元にぴったりと張り付き、他の歩行者に踏まれないよう器用に立ち回っている。時折、すれ違う人々が黒猫の姿に目を留めるが、昨日のような恐怖の対象としてではなく、単なる「冒険者の連れているペット」として見られているようだった。

 昨夜のギルドでの一件は、まだ噂の段階で留まっているのだろうか。あるいは、朝の忙しさが彼らの好奇心を上書きしているのかもしれない。

 いずれにせよ、騒がれないのは好都合だ。


 やがて、通りの向こうから、たまらなく魅力的な香りが漂ってきた。

 小麦が焼ける芳醇な香り。焦げた砂糖の甘くほろ苦い匂い。そして、濃厚なバターの香り。

 それらが鼻腔をくすぐった瞬間、足元のベルの動きが変わった。

 弾むようなステップになり、喉の奥からゴロゴロという音が漏れ始める。


「……来た。これだ。この香りだ」


 ベルが陶酔したように呟く。


「昨夜、我の鼻を弄んだ香りの源泉……! コレット、あそこだ!」


 彼が前足で示した先には、『小麦の穂』という看板を掲げた小さな店があった。

 レンガ造りの煙突からは白い煙が立ち上り、開け放たれた扉からは、焼きたてのパンが並ぶ棚が見える。

 店の前にはすでに数人の客が並んでいたが、私たちは最後尾についた。


 順番を待つ間も、ベルは落ち着かない様子で足踏みをしていた。

 ようやく私たちの番が回ってくる。

 店の中に入ると、熱気と共にさらに濃厚な香りが押し寄せてきた。

 棚には、丸い田舎パンや、細長いバゲット、そして木の実を練り込んだハード系のパンが所狭しと並んでいる。

 だが、私たちの目的はそれではない。

 カウンターのガラスケースの中に、それはあった。

 黄金色に焼き上げられた、手のひらサイズのクッキー。

 表面には砂糖の粒がまぶされ、光を受けてきらきらと輝いている。

 その隣には、たっぷりのバターを使ったと思われる、厚焼きのガレットも並んでいた。


「いらっしゃい。何にする?」


 恰幅の良い女性店主が、笑顔で問いかけてくる。


「このクッキーを十枚。それと、ガレットを五つお願いします」


 私が注文すると、足元でベルが「もっとだ! 買い占めろ!」というようにグルグルとその場を歩き騒いでいるが、私はそれを無視した。

 これ以上買うと、食べきれずに湿気てしまう。美味しいものは、一番美味しい瞬間に食べ切るのが流儀だ。

 紙袋に包まれた焼き菓子を受け取り、代金を支払う。

 焼きたての熱が、紙袋を通して手に伝わってくる。


 店を出てすぐ、人通りの少ない路地のベンチに腰を下ろした。

 ベルが私の膝に飛び乗り、待ちきれない様子で紙袋に鼻を突っ込もうとする。


「待ってください、ベル。今、出しますから」


 私は袋の中から、まだ温かいクッキーを一枚取り出した。

 バターの香りが、爆発するように広がる。

 ベルの目の前に差し出すと、彼は一瞬だけ躊躇い、そして恭しく口を開けた。

 サクッ。

 小気味よい音が響く。

 ベルがクッキーを半分かじり取った。


 彼の動きが止まる。

 咀嚼する音だけが、静かに続く。

 そして、ごくりと飲み込んだ後、彼は天を仰いだ。


「……なんだ、これは」


 震える声。


「うまいぞ!口に入れた瞬間、砂のように崩れ、バターの風味が奔流となって押し寄せてくる! 砂糖の甘さが脳を直接揺さぶり、気づけば消えている……! 儚い! だが、強烈な余韻だ!」


「気に入りましたか?」


「うまい! うますぎる! 肉とはまた違う、暴力的なうまさだ! 人間め、これほど罪深いものを隠し持っていたとは!」


 ベルは残りの半分を一息に食べると、催促するように私の手を舐めた。

 私は苦笑しながら、次の一枚を取り出した。

 私も一枚、口に運ぶ。

 サクサクとした食感。

 上質な小麦の風味と、惜しげもなく使われたバターのコク。

 素朴だが、素材の良さを最大限に引き出した、職人の技を感じる味だ。

 王城で食べていた繊細な装飾の施された菓子よりも、この温かみのある一枚の方が、今の私の心には染みた。


 結局、私たちはそこで半分ほどを平らげてしまった。

 残りは後のお楽しみとして鞄にしまい、次の目的地へと向かう。


 市場だ。

 昨夜のギルドでの報酬のおかげで、懐は温かい。

 今日の目的は、教会での生活を「生存」レベルから「文化的な生活」レベルへと引き上げるための物資調達である。

 私は脳内の買い物リストを展開した。

 最優先事項は、食材と調味料。そして、冬に備えた布地。


 私たちは食材エリアへと足を踏み入れた。

 朝市は活気に満ちている。

 新鮮な野菜や果物が山積みされ、色鮮やかな光景が広がっている。

 私は乳製品を扱う屋台の前で足を止めた。

 大きな木桶に入った、黄色い塊。

 バターだ。

 先ほどのクッキーにも使われていた、魅惑の油脂。

 保存食の干し肉生活から脱却するためには、この油脂こそが必要不可欠だ。


「おじさん、このバターを壺一つ分ください」


「あいよ! 新鮮な牛乳から作った特製だ。パンに塗っても、料理に使っても最高だぜ」


 店主が素焼きの壺にバターを詰め込んでくれる。

 そのねっとりとした質感と、濃厚な乳の香りに、私は喉を鳴らした。

 これは、ただの油ではない。

 料理に深みとコクを与え、幸福度を底上げする黄金の断熱材だ。

 高価だが、惜しむべきではない。


 次に狙うのは、卵だ。

 割れやすい卵を運ぶのは冒険者にとってリスクが高いが、私には関係ない。

 籠一杯の卵を購入し、魔法で衝撃吸収の膜を張ればいいだけだ。

 白と赤茶色の殻が入り混じった卵たち。

 まだほんのりと温かい。

 これがあれば、料理の幅は無限に広がる。

 オムレツ、スクランブルエッグ、そして……。

 私の脳裏に、ある計画が浮かんでいた。

 今日の昼食のメニューだ。


 さらに、砂糖と塩、胡椒といった基本的な調味料を買い揃える。

 特に砂糖は貴重品で値が張るが、ベルの甘味への執着を満たすためには必須投資だ。

 白い結晶が入った袋を受け取ると、ベルが鼻を寄せて確認してきた。


「コレットよ、それは先ほどのクッキーに使われていた白い粉か?」


「ええ。これがあれば、似たようなお菓子を自分たちで作ることができますよ」


「なんと! 貴様、あの神の如き味を再現できるというのか?」


「材料と道具、そして熱源さえあれば」


 私はベルの顔を見て、にっこりと微笑んだ。

 熱源。

 すなわち、彼のことだ。


「ふん、我の炎を調理に使おうという魂胆だな。……だが、あの味が毎日食えるというのなら、考えてやらんでもない」


 交渉成立だ。

 単純な相棒を持って、私は幸せ者だと思う。


 食材の次は、布地だ。

 教会は石造りで、これから来る冬には底冷えすることが予想される。

 窓には水晶でできた、ガラスが入っているが、カーテンはない。

 それに、ベルのための寝床――クッションも必要だ。

 私は繊維製品を扱う店に入った。

 棚には色とりどりの布が巻かれて積まれている。

 手触りを確かめる。

 麻、木綿、ウール。

 私は厚手のウール生地を選んだ。色は深いモスグリーン。森の中に馴染み、かつ汚れが目立ちにくい色だ。

 さらに、肌触りの良いネル素材の生地も購入する。こちらはベルのクッション用だ。


「随分と買い込むね、お嬢ちゃん。何か商売でも始めるのかい?」


 店主が呆れたように聞いてくる。


「いえ、新居の準備です。少し広くて、何もないところなので」


 私は大量の布を抱え、店を出た。


「さあ、必要なものは揃いました。さあ、帰りましょう」


 私たちはフロンティアの街を後にした。

 門番の衛兵たちには、宙に浮く荷物を見て目を丸くされたが、昨日の「キラーベアの少女」だと気づくと、何も言わずに通してくれた。

 どうやら、私の悪名はしっかりと浸透しているらしい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ