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追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第三章:フロンティアの洗礼

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第十三話:黄昏の帰還

 木々の梢を焦がすように染めていた太陽が、西の稜線へと沈もうとしていた。

 森の中に伸びる影は黒さを増し、昼間の穏やかな表情とは異なる、夜の帳特有の冷厳な空気が漂い始めている。

 私は、腐葉土を踏みしめるブーツの感触を確かめながら、一つ大きな息を吐き出した。白い呼気が、黄昏の薄明かりの中に溶けていく。


「……重いわ」


 独り言のように漏れたその言葉は、比喩でも感傷でもなく、物理的な事実に対する率直な感想だった。

 背負った革鞄のベルトが、肩に食い込んでいる。

 行きは空っぽに近かった鞄の中には、今は依頼品の薬草と、解体したキラーベアの素材の一部――高値で売れる胆嚢や心臓、爪といった部位――が隙間なく詰め込まれている。

 さらに厄介なのが、背後の「荷物」だ。

 私は振り返り、自分が引きずっているものを見た。

 剥ぎ取ったキラーベアの分厚い毛皮を袋状にし、その中に食肉として切り出した大量の赤身肉を包んである。即席のソリだ。

 地面との摩擦を減らすために、接地面には水魔法で薄い膜を張り、滑らせるようにして運搬しているのだが、それでも質量そのものが消えるわけではない。数百キロはあるであろう肉塊を、魔力による補助と自身の腕力だけで牽引し続けるのは、なかなかの重労働だった。


「おい、コレット。足が遅くなっているぞ」


 私の苦労など知ったことではないと言わんばかりに、前方から尊大な声が飛んできた。

 視線を向ければ、そこには漆黒の毛並みを夕陽に輝かせた黒猫が、切り株の上に座ってこちらを見下ろしている。

 ベルだ。

 彼は尻尾をゆらりと揺らし、不満げに髭を震わせた。


「我の腹時計は、すでに限界を告げる鐘を鳴らしているのだ。あの街の菓子屋が店じまいをする前に到着せねば、貴様をその肉塊と一緒にソリにして引きずってやるからな」


「それは困りますね。貴方がソリを引いてくださるなら歓迎ですが、私がソリになるのは遠慮したいところです」


 私は額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、軽口で返した。

 最強の魔獣でありながら、その思考回路は「食」と「睡眠」に直結している。この単純明快さが、彼という存在を脅威ではなく、愛すべき同居人として受け入れさせている要因なのだろう。


「ふん。王たる我が荷車を引くなど、天地がひっくり返ってもありえん。……だがまあ、貴様のその鈍足ぶりを見ていると、我の空腹がさらに刺激されるわ」


「もう少しの辛抱です。森を抜ければ、道も平坦になりますから」


 私は再びロープを握り直し、足に力を込めた。

 水魔法の被膜を再構成する。

 イメージするのは、氷の上を滑るスケートの刃。

 ずしりとした重量感が、ふっと軽くなる瞬間を捉え、私は前へと進んだ。


 森の出口が近づくにつれ、風景が変わっていく。

 鬱蒼と茂っていた巨木は姿を消し、人の手が入った雑木林へと移り変わる。

 それと同時に、風に乗って運ばれてくる匂いも変化した。

 湿った土と植物の清浄な香りから、薪を燃やす煙の匂い、家畜の糞の匂い、そして何より、多くの人間が密集して暮らす場所特有の、熱気を含んだ生活臭へ。


 夕暮れに染まりつつあるフロンティアの街が見えてきた。

 丸太を組んで泥で固めただけの粗末な防壁が、夕陽を受けて赤く染まっている。

 決して美しくはない。王都の城壁のような威容も、芸術的な装飾もない。

 けれど、そこには「生きる」という泥臭い執念が凝縮されているように見えた。


「……着いたわね」


 私はフードを目深に被り直し、自分の表情を隠した。

 ここからは、ただの冒険者「コレット」としての振る舞いが求められる。

 貴族としての洗練された所作は不要だ。むしろ、邪魔になる。

 私は背筋を少しだけ丸め、疲労した労働者らしく見えるように重心を落とした。


 門の前には、朝と同じ二人の衛兵が立っていた。

 彼らは槍を地面に突き立て、欠伸を噛み殺しながら交代の時間を待っているようだった。

 しかし、森から現れた私の姿――正確には、私が引きずっている巨大な毛皮の包み――を認めた瞬間、彼らの眠気は吹き飛んだようだった。


「お、おい……止まれ!」


 衛兵の一人が、慌てた様子で槍を構えた。

 私は大人しく足を止める。


「なんだ、その荷物は。朝に出て行った薬草採りの娘だよな? そんな大荷物、持っていなかったはずだが」


 彼の視線は、赤黒い剛毛に覆われた毛皮の包みに釘付けになっている。

 隙間からは、血生臭い匂いが漏れ出していた。

 普通の神経なら、警戒して当然だろう。

 下手をすれば、人間の死体を運んでいると疑われかねない。


「依頼の成果と、その副産物です」


 私は努めて低い声で、事務的に答えた。


「森の奥で、運良く『大きな獲物』の死骸を見つけまして。素材として使えそうな部分を持ち帰りました。中身を確認されますか?」


 私が包みの結び目に手をかけると、衛兵は顔をしかめて手を振った。


「い、いや、いい。その血の匂いだけで十分だ。……ったく、最近は物騒だからな。変な病気とか持ってなきゃいいんだが」


 彼は鼻をつまみながら、道を開けた。

 不潔なものを避けるような態度。

 以前の私なら不快に思ったかもしれないが、今の私には好都合だ。

 中身を詳細に改められれば、これが森の主クラスの魔獣であることは一目瞭然だっただろう。そうなれば、ここで足止めを食らい、説明責任という面倒な時間を浪費することになる。


「通っていいぞ。」

「感謝いたします」


 私は小さく頭を下げ、フロンティアの街中へと足を踏み入れた。


 街の中は、黄昏時を迎えて活気づいていた。

 仕事を終えた職人たちが家路を急ぎ、酒場からは早くも酔客の笑い声が聞こえてくる。

 屋台からは煮込み料理の湯気が立ち上り、空腹を刺激する香りが通りに充満していた。

 ベルが鼻をひくつかせ、私の足元に頭突きをしてくる。


「コレット、いい匂いだ。あっちで肉を焼く匂いがするぞ」


「あとで、ですね。まずは換金です。この重い荷物を持ったままでは、買い食いもできませんから」


 私は彼をなだめつつ、大通りを外れて路地へと入った。

 人混みを避けるためでもあるが、冒険者ギルドへの近道でもある。

 さあ、早く素材を売りに出したい。

 その一心で先を進んだ。



 冒険者ギルドの建物が見えてきた。

 入り口の看板には、剣と盾の意匠と共に、魔力で灯されたランプが揺れている。

 中からは、地響きのような喧騒が漏れ聞こえていた。

 朝の比ではない。

 一日の労働を終え、報酬を手にした冒険者たちが、酒と食事に興じている時間帯だ。

 欲望と熱気が最高潮に達している場所。


 私は一度立ち止まり、荷物の紐を握り直した。

 ここからが本番だ。

 ただのFランク冒険者が、キラーベアの素材を持ち込む。

 それがどれほど異様なことか、理解していないわけではない。

 波風を立てずに済ませるのは不可能だろう。

 だが、今後の生活資金のためには、避けて通れない道だ。


「行きますよ、ベル」


「うむ。さっさと終わらせろ。我慢の限界だ」


 私は扉を押し開けた。

 

 ドッ、という音圧と共に、熱気が吹き付けてくる。

 タバコの煙、エールの匂い、汗臭さ、そして脂っこい料理の匂い。

 それらが混ざり合い、視界が白く霞むほどの淀んだ空気を形成していた。

 数百人の男たちが、大声で笑い、叫び、テーブルを叩いている。

 

 私が中に入ると、入り口近くにいた数人がこちらを振り向いた。

 朝、私を「洗濯係」と嘲笑った連中とは違う顔ぶれだが、その瞳にある色は同じだ。

 値踏み。侮蔑。そして、私の後ろにある血生臭い荷物への警戒。


「……なんだ、あの大荷物は?」


「また新入りか? 死体処理でも請け負ったのかよ」


 下卑た囁き声が聞こえる。

 私は彼らの視線を意識の外へと追いやった。

 彼らは背景だ。私の目的を達成するための障害物ですらない。

 私はカウンターへと一直線に進んだ。

 重い荷物を引きずっているせいで、床板が軋み、その音が周囲の喧騒に不協和音として混じる。


 カウンターの中には、朝に対応してくれた赤毛の女性がいた。

 彼女は山積みの書類と格闘していたが、私の姿を認めると、驚いたように目を瞬かせた。


「あら、アンタ……。戻ってきたの? 随分と遅かったじゃない」


 彼女の言葉には、少しだけ安堵の色が含まれていた。

 おそらく、私が森で野垂れ死んだと思っていたのだろう。

 Fランクの初心者が森へ入り、そのまま帰ってこないことは、ここでは日常茶飯事なのだから。


「ええ、少し手間取りましたが。依頼の品を納品します」


 私はカウンターの前に荷物を置いた。

 ドサリ、と重い音が響く。

 まずは、鞄から採取したばかりの薬草を取り出す。

 湿らせた布を開くと、そこには青白い光を放つ『癒しの雫草』が、瑞々しい姿のまま横たわっていた。

 葉の先端には、宝石のような水滴が揺れている。

 採取してから数時間が経過しているにもかかわらず、その生命力は損なわれていない。


 受付の女性が、身を乗り出して薬草を検分した。


「……嘘でしょ。これ、すごく状態がいいわね」


 彼女の声が上ずった。

 プロの目で見ても、これほどの品質は珍しいのだろう。


「根の周りの土も完璧に残ってるし、葉も傷んでない。何より、この雫……魔力が全く揮発してないわ。熟練の薬師でも、ここまで綺麗に持ち帰るのは難しいのよ?」


「丁寧に扱いましたので」


 私は短く答えた。

 彼女は感心したように頷き、薬草をトレーに移していく。


「合格よ。これなら満額……いや、色をつけて買い取れるわ。Fランクにしては上出来ね」


 彼女は笑顔を見せた。

 これで、一つ目のハードルはクリアだ。

 私の評価は「ただの素人」から「丁寧な仕事ができる採取屋」へと少しだけ上がっただろう。

 だが、問題はここからだ。


「ありがとうございます。……それと、森で拾い物をしまして。こちらも買い取っていただけますか?」


 私は足元の毛皮の包みを指し示した。

 受付の女性の視線が、その禍々しいオーラを放つ塊に向けられる。

 彼女の笑顔が、少し引きつった。


「拾い物……? 随分と大きくて、血生臭い拾い物ね」


「ええ、少々嵩張りまして」


 私は意を決して、包みの結び目を解いた。

 毛皮を開く。

 露わになったのは、丁寧に切り分けられた赤身の肉塊と、そして――


 ゴロリ。


 カウンターの上に転がり出た、巨大な黒い臓器。

 大人の握り拳二つ分はある胆嚢だ。

 表面は濡れたような光沢を放ち、独特の苦味を含んだ強烈な匂いを周囲に撒き散らす。

 さらに、鋭利な刃物のような巨大な爪。


 受付の女性の動きが、完全に停止した。

 彼女は口を半開きにし、目の前の物体と、私の顔を交互に見た。

 呼吸を忘れたかのように、胸の動きが止まっている。


「……え、ちょ、ちょっと……待って」


 彼女の声が震えた。

 その異変を察知したのか、近くの席で飲んでいた数人の冒険者が、興味深げに立ち上がって覗き込んできた。


「おいおい、姉ちゃん。何がそんなに……」


 男の言葉が途切れた。

 彼の目もまた、カウンターの上の物体に釘付けになっていたからだ。


「嘘だろ……?」


 誰かが呟いた。

 その声は、静まり返り始めたギルドの中に、波紋のように広がっていった。


「おい、あれを見ろ。あの黒い塊……」


「まさか、キラーベアの胆嚢か!?」


「バカな! あんな特大サイズ、見たことねえぞ!」


 キラーベア。

 その名が出た瞬間、ギルド内の空気が一変した。

 喧騒が消え失せ、張り詰めた緊張感が支配する。

 全員の視線が、私と、カウンターの上の素材に集中した。


 疑念。驚愕。そして恐怖。

 キラーベアは、この森における災厄の代名詞だ。

 鋼鉄の皮膚を持ち、並大抵の攻撃は通じない。その爪には麻痺毒があり、一撃でも受ければ死が待っている。

 Bランク以上のパーティーですら、遭遇すれば撤退を選択するほどの魔獣。

 その素材が、今ここに、Fランクの少女によって持ち込まれたのだ。


「……鑑定、させてもらうわね」


 受付の女性は、震える手で拡大鏡を取り出した。

 プロとしての意地で冷静さを保とうとしているが、額には脂汗が滲んでいる。

 彼女は胆嚢を手に取り、光にかざした。

 次いで、爪の硬度を確認し、肉の断面を調べる。


「……本物よ」


 彼女の宣言が、ギルド内に響いた。


「しかも、鮮度が異常に高い。死後、半日も経っていないはず。それに……この肉、血抜きが完璧だわ。魔力を帯びた血が、完全に除去されている。こんな芸当、宮廷料理人だって……」


 彼女は信じられないものを見る目で私を見た。

 その視線は、もはやFランク冒険者を見るものではない。

 得体の知れない怪物を見るような、畏怖を含んだものだった。


「説明、してもらえるかしら? 貴方、一体何者なの?」


 彼女の問いかけに、周囲の冒険者たちも耳を澄ませた。

 私はフードの下で、小さく息を吐いた。

 予想通りの展開だ。

 ここで下手を打てば、私は「何か危険な手段を使った」あるいは「誰かの獲物を盗んだ」と疑われ、糾弾されることになる。


「通りすがりに、発見したのです」


 私は用意していた言葉を紡いだ。

 声が震えないように、腹に力を入れて。


「森の入り口近くで、すでに事切れているこの個体を見つけました。まだ温かかったので、放置するのは資源の浪費だと思い、解体して持ち帰った次第です」


 ある意味で、それは嘘ではない。

 私が気が付いたときには、ベルによって事切れていた個体が目の前にあったのだから。


「……死骸を、拾った?」


 受付の女性は、眉をひそめた。

 納得していない。当然だ。

 キラーベアのような強力な魔獣が、森の入り口で都合よく死んでいるはずがない。

 しかも、素材には目立った外傷がない。

 あるのは、おそらく体内での致命的な破壊の痕跡だけ。

 それは「自然死」や「他の魔獣との争い」では説明がつかない状態だ。


「おいおい、姉ちゃん。そいつは無理があるぜ」


 背後から、野太い声が掛かった。

 振り返ると、歴戦の冒険者と思われる、大柄な男が立っていた。

 全身に古傷があり、腰には巨大な斧を差している。

 彼は私の顔を覗き込み、威圧的な笑みを浮かべた。


「キラーベアが野垂れ死ぬなんて話、聞いたことがねえ。それに、その解体の手際……ただの素人じゃねえな。どこかの高ランク冒険者の手引きか? それとも、盗品か?」


 彼の言葉に、周囲から同調する声が上がる。


「そうだ! Fランクの小娘ができることじゃねえ!」


「誰の手柄を横取りしたんだ!」


 悪意のある推測が、瞬く間に真実のように広まっていく。

 彼らにとって、私が「盗人」である方が、心理的に受け入れやすいのだ。

 一人の少女がキラーベアを仕留めたなどという、自分たちの常識を根底から覆す事実よりも。


 面倒だ。

 本当に、面倒くさい。

 私はただ、正当な労働の対価を得たいだけなのに。

 バターと卵の香りがするクッキーが遠のいていく気がした。


 その時。

 ギルドの奥にある、一際重厚な扉が開かれた。

 軋むような音と共に現れたのは、巨岩のような体躯を持つ男だった。

 禿げ上がった頭には無数の傷跡があり、左目は眼帯で覆われている。

 残された右目は、猛禽類のように鋭く、場を支配する強烈な覇気を放っていた。


 ギルドマスター。

 この荒くれ者たちの頂点に立つ男。


「……騒がしいな。酒が不味くなるだろうが」


 低く、腹の底に響く声。

 それだけで、騒ぎ立てていた冒険者たちが口を噤んだ。

 彼はゆっくりとした足取りでカウンターに近づき、そこに置かれた胆嚢を無造作に手に取った。

 鼻を近づけ、匂いを嗅ぐ。


「……ほう。本物だな。しかも、上物だ」


 彼は胆嚢を置くと、右目で私を射抜いた。

 物理的な重圧を感じるほどの視線。

 普通の新人なら、この時点で腰を抜かして泣き出しているかもしれない。

 だが、私は動じなかった。

 王城での「魔女狩り」のような断罪劇に比べれば、この程度の威圧は児戯に等しい。


「嬢ちゃん。お前さんがこれを持ち込んだのか?」


「はい」


「拾った、と言っているそうだが?」


「事実ですので」


 私の即答に、ギルドマスターは口の端を歪めた。

 笑ったのではない。獲物を見定めた獣の表情だ。


「嘘をつくのが下手だな。この素材の状態……外傷は皆無。内臓だけが綺麗に破壊されている。これは、魔法か特殊なスキルによる一撃必殺の痕跡だ。自然死でも、他の獣との争いでもねえ。明確な意志を持って殺されたもんだ」


 鋭い。

 さすがはギルドマスターだ。死体を見ただけで、死因を正確に分析してくる。


「正直に言え。誰がやった? お前さんの後ろにいるのは誰だ? 高ランクの魔法使いか? それとも、お前さんが隠しているのか?」


 彼は一歩踏み出し、私との距離を詰めた。

 壁のような巨体が、視界を覆う。

 周囲の冒険者たちも、固唾を呑んで見守っている。


 ここで誰かの名前を出せば、その人物を連れて来いと言われる。

 私がやったと言えば、実力を証明しろと言われる。

 どちらに転んでも、私の平穏は崩れ去る。

 ならば、真実に一番近い嘘をつくしかない。


「……私ではありません。相棒がやりました」


「相棒?」


 ギルドマスターは眉を上げた。

 周囲を見回す。


「どこにいる? 姿が見えねえが」


「ここにいます」


 私は足元を指差した。

 そこには、私の影に隠れるようにして座っていた黒猫が、退屈そうに前足を舐めていた。

 ベルだ。


 ギルドマスターの視線が下がり、ベルを捉えた。

 数秒の沈黙。

 そして、彼は鼻を鳴らした。

 それは明確な嘲笑だった。


「……猫か。嬢ちゃん、俺をからかってるのか? それとも、このギルドを舐めてるのか?」


 彼の声から温度が消えた。

 怒気が膨れ上がり、空気が張り詰める。

 周囲の冒険者たちが、青ざめて後ずさる。


「猫一匹に、キラーベアが殺せるわけがねえだろうが! ふざけた嘘をつくなら、もっとマシな……」


 ギルドマスターが怒鳴ろうとした、その瞬間だった。

 私の足元から、純粋な「力」が溢れ出した。


 ドクン。


 心臓を直接握り潰されるような感覚。

 ギルド内の照明が一斉に明滅し、窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げた。

 風はない。

 あるのは、純粋で濃密な、殺意の魔力だ。

 それはギルド全体を瞬く間に侵食した。


「……ひッ」


 誰かが短い悲鳴を上げた。

 息ができない。

 本能的な恐怖が、この空間を支配する。


 その発生源は、間違いなく私の足元にいた。

 ベルは毛繕いを止め、ゆっくりと顔を上げた。

 その金と赤の瞳が、妖しく輝いている。

 黒い毛並みが逆立ち、その身に秘めている巨大な力を映し出しているように見えた。


「……不愉快だ」


 小さな、しかし脳髄に直接響くような声。

 ベルが口を開いた。


「下等生物の分際で、我を猫と呼ぶか。その無知蒙昧な眼球をくり抜いて、空いた穴に焼き菓子でも詰め込んでやろうか?」


 言葉の意味など関係なかった。

 その声に含まれる圧倒的な「格」の違い。

 生物としての頂点に立つ捕食者が、餌である下等生物に向ける絶対的な威圧。

 ギルドマスターの顔色が、土気色に変わった。

 彼の右目が、極限まで見開かれ、痙攣している。

 歴戦の猛者である彼だからこそ、理解してしまったのだ。

 目の前にいる小さな生き物が、キラーベアなど比較にならないほどの「化け物」であることを。


 動けば、死ぬ。

 瞬き一つで、首が飛ぶ。

 そんな確信が、彼を金縛りにしていた。

 脂汗が滝のように流れ落ち、床に染みを作る。


 まずい。

 これは、やりすぎだ。

 ベルの機嫌を損ねたのは、彼らが私を疑ったからではない。

 無駄な問答のせいで、おやつの時間が遅れていることに腹を立てているのだ。

 このままでは、ギルドごと消し炭にされかねない。


 私は慌てて屈み込み、ベルの頭に手を置いた。


「ベル、やめなさい。お店が閉まってしまいますよ」


 その言葉は、どんな防御魔法よりも効果的だった。

 ベルの耳がピクリと動き、放出されていた殺気が嘘のように霧散した。

 重苦しい圧力が消え、ギルド内に空気が戻ってくる。

 

「……ふん。命拾いしたな、人間ども。コレットの慈悲と、焼き菓子の甘美な誘惑に感謝するがよい」


 ベルはふいと顔を背け、再びただの猫のように座り込んだ。

 ギルド内は、嵐が過ぎ去った後のような静寂に包まれていた。

 誰も動けない。

 言葉を発することさえできない。

 ただ、荒い呼吸音だけが、あちこちから聞こえてくる。


 私は立ち上がり、硬直したままのギルドマスターに向き直った。

 彼は膝が震えるのを必死に堪えているようだった。


「見ての通り、少々気性の荒い相棒です。彼が機嫌を損ねて、じゃれついた拍子にキラーベアが死んでしまった……そういうことにしておいていただけませんか?」


 私は穏やかな声で言った。

 それは提案の形を借りた、事実上の通告だった。

 「これ以上探るな。さもなくば、この怪物が解き放たれるぞ」という。


 ギルドマスターは、乾いた唇を舐めた。

 彼は深く頷いた。何度も、何度も。


「……あ、ああ。分かった。そういうことだ。森には、人間の知らねえ魔獣もいる。……運が悪かったんだな、熊は」


 彼の声は掠れていた。

 周囲の冒険者たちも、コクコクと首を縦に振っている。

 誰も異論を挟もうとはしなかった。

 好奇心よりも、生存本能が勝ったのだ。


「ありがとうございます。では、査定をお願いします。急いでいますので」


 私が受付の女性に促すと、彼女はハッとして、慌てて計算を始めた。

 その手つきは、恐ろしいほどの速さだった。

 一刻も早く、この規格外の客を帰したいという一心なのだろう。


「え、えっと……キラーベアの素材一式、それに状態の良い薬草……特別報酬も含めて、合わせて金貨五枚と銀貨三枚になります!」


 提示された金額は、破格だった。

 おそらく、口止め料や、ギルドの保身のための上乗せが含まれているのだろう。

 私は遠慮なくそれを受け取った。


「感謝します」


 ずしりとした金貨の入った革袋を懐にしまう。

 これで、当面の生活費は確保できた。

 私は荷物をまとめ、カウンターに背を向けた。


 出口へと向かう私の前を、冒険者たちが蜘蛛の子を散らすように避けていく。

 モーゼが海を割るように、道が開かれた。

 彼らの視線は、もはや私を見ていない。

 私の足元を歩く、小さな黒猫に釘付けになっている。

 畏怖と恐怖。

 決して関わってはいけない禁忌を見る目だ。


 私は、そんな彼らの反応を心地よく感じていた。

 これでいい。

 「謎の実力者」でも「化け物を連れた変人」でも、なんとでも呼べばいい。

 誰も私に近づこうとしなくなれば、それだけ私の平穏は守られるのだから。


 ギルドの扉を開け、外の空気を目一杯吸い込む。

 夜の冷気が、火照った体に心地よい。

 空には一番星が輝き、街の灯りが温かく揺れている。


「……まったく、人間というのは度し難いな。真実を語れば疑い、力を示せば怯える。ほどよい距離感というものを知らんのか」


 ベルが呆れたように呟いた。

 私は歩きながら、彼を見下ろして苦笑する。


「それが人間というものですよ、ベル。理解できないものを恐れ、型にはまらないものを排除しようとする。……貴族社会と、何も変わりません」


 そう。場所が変わっても、人の本質は変わらない。

 けれど、今の私には、そんな理不尽を笑い飛ばせるだけの余裕がある。

 隣には最強の相棒がいて、懐には十分な金貨があるのだから。


「さあ、行きましょう」


「うむ。急げ、バターたっぷりの焼き菓子とやらを買いにいくのだ」


 私たちは夜の街へと歩き出した。  

 その足取りは、来る時よりもずっと軽く、確かなものになっていた。


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