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追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第三章:フロンティアの洗礼

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第十二話:森の暴君

 冒険者ギルドの重厚な扉を背にした途端、私は肺の中に溜まっていた澱んだ空気をすべて吐き出した。

 建物の中に充満していた、安酒と汗、それに欲望が発酵したような独特の臭気は、何度嗅いでも慣れるものではない。外の空気が、たとえ土埃を含んでいたとしても、遥かに清浄に感じられた。

 首から下げた認識票が、歩くたびに微かな金属音を立てて私の胸元を叩く。錆びた鉄のような鈍い色をしたFランクのプレート。それは、この街における私の社会的地位が最底辺であることを示す烙印であり、同時に、面倒な義務や期待から解放された自由の証明書でもあった。


 私は足元を見下ろした。

 そこには、一匹の黒猫が、まるで自分の庭を散歩するかのような悠然とした足取りで歩いている。

 ベルは、時折すれ違う人間たちに鋭い視線を投げかけ、彼らが道を譲るのを確認してから、ふんと鼻を鳴らした。


「……不愉快な場所だ。人間の欲望が泥のように渦を巻いておる。あのような場所に長く留まれば、我の高貴な精神まで腐敗してしまいそうだ」


「我慢してください、ベル。あそこは、私たちがまともな生活を送るための関所のようなものですから」


 私は声を潜めて彼を諭した。

 周囲には、依頼を求めて行き交う冒険者や、荷物を運ぶ商人たちの姿がある。猫と会話をする女など、奇異の目で見られるのが落ちだ。もっとも、すでに「場違いな洗濯係」として嘲笑の対象になっているのだから、今さら気にする必要もないのかもしれないが。


「ふん。だが、収穫はあったのだろうな? 我にあのような不快な空気を吸わせたのだ。それ相応の対価がなければ承服できんぞ」


「ええ、依頼は受けましたよ。薬草の採取です。指定された数はそれなりに多いですが、森を知り尽くした貴方の鼻があれば、造作もないことでしょう?」


「当然だ。森の草一本たりとも、我の感知から逃れることはできん。……して、報酬は?」


「銀貨数枚です。貴方がご所望の、バターと卵をふんだんに使った焼き菓子を買うには十分な額かと」


 その言葉を聞いた瞬間、ベルの尻尾がピーンと垂直に立った。

 単純で、扱いやすい相棒だ。

 私は口元の布の下で小さく笑みをこぼし、森へと続く街道へ足を踏み出した。

 街の喧騒が遠ざかり、緑の匂いが濃くなっていく。

 やはり、私にはこちらの方が肌に合っているようだ。

 誰かの顔色を窺う必要も、値踏みされることもない。あるのは、自然の摂理というシンプルなルールだけ。

 私は革鞄のベルトを握り直し、足取りを速めた。



 森に入ると、空気の温度が一段下がったような気がした。

 頭上を覆う木々の枝葉が、太陽の光を遮り、緑色の薄暗い天蓋を作っている。

 足元の腐葉土はふかふかとしていて、歩くたびに湿った土の香りが立ち上る。

 私はギルドで受け取った依頼書の内容を頭の中で反芻した。

 目的物は『癒しの雫草』と呼ばれる薬草だ。葉の先端に朝露のような水滴を溜める性質があり、解毒作用や傷の治癒を助ける効果があるという。

 湿気の多い場所、特に大木の根元や岩陰を好んで自生する。


「ベル、案内をお願いできますか?」


「任せておけ。あっちだ」


 ベルは短い前足で斜め右方向を指し示した。

 そこは獣道すらなく、下草が生い茂る未開の藪だったが、私は迷わず彼の後を追った。

 茨が服に引っかからないよう、慎重に枝をかき分けて進む。

 森の深部へと進むにつれ、周囲の気配が変わっていくのが分かる。街の近くのような人の手が入った痕跡は消え、太古から続く自然の営みが色濃くなっていく。

 足元の悪い道なき道を行くこと数分。

 視界が開け、苔むした巨岩が折り重なる一帯に出た。

 岩の隙間から、清らかな湧き水が染み出している。

 そして、その周囲には、青白い光を帯びた可憐な草が群生していた。


「……素晴らしいわ」


 私は思わず感嘆の声を漏らした。

 ギルドの依頼書にあった下手なスケッチとは比べ物にならない、生命力に溢れた実物がそこにあった。

 葉の先には、きらきらと輝く水滴が乗っている。

 それは単なる水分ではなく、植物が精製した魔力の結晶のようなものだ。微かな燐光を放ち、周囲の空気を浄化しているようにさえ見える。


「これだけの群生地は、そうそうお目にかかれないわね。さすがは森の主の鼻だわ」


「ふん、この程度、造作もない。さあ、とっとと摘め。我は早くあの甘い菓子とやらにありつきたいのだ」


 ベルは近くの岩の上に飛び乗り、退屈そうに欠伸をした。

 私は鞄から採取用の小さなスコップと、保存用の布袋を取り出した。

 薬草採取は、ただ引き抜けばいいというものではない。根を傷つけないように周囲の土ごと掘り起こし、葉の水滴を落とさないように丁寧に扱う必要がある。雑に扱えば、薬効成分が揮発してしまうからだ。


 私は膝をつき、土に指を這わせた。

 ひんやりとした感触。

 土の湿り具合、根の張り方を指先で探る。

 スコップを斜めに差し込み、てこの原理で優しく持ち上げる。

 土塊と共に、薬草がふわりと浮き上がった。

 泥を軽く払い、湿らせた布で根を包む。

 この作業を繰り返す。

 単調だが、没頭できる作業だ。

 一つ、また一つと採取するたびに、鞄がずっしりと重くなっていく。それは労働の対価そのものの重みであり、私の生活を支える確かな基盤となるものだ。

 王城で宝石を選んでいた時よりも、今、泥にまみれて薬草を選んでいる時の方が、私は自分自身の人生を生きているという実感があった。


 二〇株ほど採取したところで、私は一度手を止めて額の汗を拭った。

 依頼の規定数は十分に満たしている。これ以上採りすぎても、鮮度が落ちてしまうだけだ。

 残りはそのままにしておこう。根こそぎ奪うのは、次への糧を失う愚かな行為だ。


「順調ですね。これなら、お昼過ぎには街に戻れそうです」


 私が鞄の口を閉めようとした時だった。


 ピタリ。


 岩の上で毛繕いをしていたベルの動きが止まった。

 上げていた後ろ足を下ろし、上体を低くして、森の奥を睨み据える。

 その背中の毛が、針金のように逆立っていた。


「……ベル?」


 私が声をかけると、彼は短く、鋭い声で制した。


「動くな」


 その声には、いつもの尊大さとは違う、冷徹な緊張が含まれていた。

 私は息を潜め、彼の視線の先を追った。

 何も見えない。

 ただ、鬱蒼とした木々が並んでいるだけだ。

 だが、何かがおかしかった。

 先ほどまで聞こえていた小鳥のさえずりが、完全に消えている。

 風が止まったかのように、葉擦れの音もしない。

 森全体が、息を止めて何かに怯えているような、重苦しい静寂。


 ドスン。


 腹の底に響くような、重い音がした。

 地面が微かに揺れる。

 遠くではない。近い。


 ドスン。ドスン。


 音は規則的に近づいてくる。

 木々が軋む音が混じる。

 何かが、強引に木々を押し分けてこちらへ向かってきている。


「……チッ。厄介な客だ」


 ベルが舌打ちをした。

 次の瞬間、前方の茂みが爆ぜるように吹き飛んだ。

 現れたのは、絶望的なまでに巨大な質量だった。


 熊だ。

 だが、私が図鑑や動物園で見たことのある愛らしい熊とは、生物としての格が違った。

 立ち上がれば優に三メートルは超えるであろう巨体。

 全身を覆う毛は赤黒く変色し、鋼のような光沢を放っている。

 丸太のように太い腕の先には、私のナイフよりも長く鋭い爪が生え揃っていた。

 そして何より異様なのは、その双眸だ。

 理知の光など欠片もなく、ただ破壊と殺戮への衝動だけが赤々と燃えている。


『キラーベア』


 脳裏に、ギルドの掲示板で見かけた高難易度討伐対象の名前が浮かんだ。

 森の奥深くに生息し、鋼の皮膚と猛毒の爪を持つとされる、歩く災害。

 なぜ、こんな森の入り口近くに?

 思考する間もなく、キラーベアの視線が私たちを捉えた。


「グオオオオオオオオッ!!」


 空気がびりびりと震えるほどの咆哮。

 その衝撃だけで、足がすくみそうになる。

 圧倒的な捕食者。

 食物連鎖の頂点に君臨する暴力の権化。

 生物としての本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。逃げろ、と。

 だが、足が動かない。

 あの巨体で突進されたら、背を向けて数歩も走らないうちに追いつかれ、背中から引き裂かれる未来しか見えない。


 キラーベアが、ゆっくりとこちらへ歩を進めた。

 口の端から、粘度のある唾液が滴り落ちる。

 私たちは、獲物として認識されたのだ。

 私は震える手で腰のナイフに触れた。

 あまりにも頼りない。この銀のナイフで、あの鋼のような筋肉を貫けるとは到底思えない。

 魔法は?

 私の水魔法は、洗浄と分離に特化している。

 相手の目に向かって水を放ち、視界を奪うくらいならできるかもしれない。だが、それでこの暴君を止められる保証はどこにもない。


「……ベル、逃げましょう。私の魔法で目潰しをします。その隙に……」


 私が小声で提案すると、ベルは呆れたように鼻を鳴らした。


「逃げる? 誰がだ?」


 彼は岩の上から一歩も動かず、悠然と巨大な魔獣を見下ろしていた。

 その小さな体躯は、キラーベアの足先ほどしかない。

 吹き飛ばされれば、ひとたまりもないサイズ差だ。

 だというのに、彼の纏う空気は、不思議なほど落ち着いていた。


「我の昼寝の時間を削り、あまつさえ森の静寂を乱すとは。近頃の獣は礼儀を知らぬらしい」


 キラーベアが、目の前の小さな黒い塊に気づき、苛立ちを露わにした。

 獲物は逃げ惑い、恐怖の悲鳴を上げるべきだ。

 それなのに、この小動物はあろうことか、自分を無視して欠伸をしている。

 その傲慢さが、暴君の逆鱗に触れたのだろう。


「ガアアッ!!」


 キラーベアが右腕を振り上げた。

 風を切り裂くような速度で、巨大な爪がベルに向かって振り下ろされる。

 岩ごと砕くつもりだ。


「ベル!!」


 私が叫んだ、その時だった。


「――邪魔だ」


 ベルの低い声が響いた。

 瞬間、周囲の空気が急速に歪んだ。


 彼が何かを放ったようには見えなかった。

 予備動作も、詠唱もない。

 ただ、ベルの周囲を漂っていた大気が、一瞬にして殺意を持って凝縮されたような感覚があった。


 ヒュッ。


 短く、鋭い風切り音がしたかと思うと、振り下ろされようとしていたキラーベアの動きが、唐突に停止した。

 まるで時が止まったかのように、巨大な腕は空中で静止し、憤怒に満ちた表情が凍りつく。


 ズンッ。


 遅れて、鈍い衝撃音が体内から響いた。

 血飛沫は上がらない。

 外傷らしい外傷も見当たらない。

 だが、キラーベアの瞳から、急速に光が失われていく。

 脳天を貫かれ、生命維持を司る中枢を一瞬で破壊されている。


 ズズズン……。


 巨体が崩れ落ちた。

 地面が大きく揺れ、土煙が舞い上がる。

 森の暴君は、一度もその爪を振るうことなく、ただの肉塊へと変わった。

 あまりにあっけない幕切れ。

 何が起きたのか、私には視認さえできなかった。


 おそらくは風魔法。

 ベルが使用した風魔法によって、不可視の空気の弾丸が撃ちだされ、キラーベアの眉間を的確に貫いたのだと、状況から理解するしかなかった。


「……ふん。的が大きい分、外しようがない」


 ベルは前足を舐めながら、つまらなそうに言った。

 私は呆然と、その光景を眺めていた。

 知ってはいた。

 彼が伝説の魔獣であり、規格外の力を持っていることは。

 だが、これほどとは。

 Fランクの新人冒険者が遭遇すれば即死確定のモンスターを、一歩も動かず、魔法による一撃だけで沈黙させてしまった。


「……コレットよ、何を呆けている」


 ベルの声で、私は我に返った。


「あ、いえ……あまりに鮮やかだったので。今のは、風魔法ですか?」


「そうだ。空気を圧縮して撃ち出した。眉間の一点から侵入させ、脳を破壊した。我には他愛もないことだ」


 恐ろしいほどの精密射撃だ。

 これほどの巨体に対し、外傷を最小限に抑えて即死させるなど、熟練の狩人でも不可能だろう。


 彼は毛並みを整えながら、倒れたキラーベアを顎で指し示した。


「おい、あれはどうする? 放置すれば他の獣の餌になるだけだが」


 私は巨大な亡骸を見上げた。

 確かに、これをこのままにしておくのはもったいない。

 キラーベアの毛皮は防寒具として最高級品だし、その肉は……少し硬そうだが、煮込めば食べられるかもしれない。肝や爪は素材として高く売れるはずだ。

 生活費を稼ぐまたとないチャンスだ。


「……いただきます。せっかくの恵みですから」


 私は覚悟を決めて、キラーベアに近づいた。

 近くで見ると、その大きさは圧巻だ。

 山のような死体。

 死因を確認するように頭部を見てみるが、眉間に小さな穴が開いているだけだった。

 血もほとんど出ていない。

 ベルの言う通り、毛皮は無傷に近い状態だ。

 解体するとなれば、大仕事になるだろう。

 だが、私には魔法がある。


「ベル、周囲の警戒をお願いできますか? 解体中は無防備になりますから」


「仕方あるまい。我の狩りの獲物を横取りされるのは不快だからな」


 ベルが見張りに立つのを確認し、私は作業に取り掛かった。

 まずは血抜きだ。

 これほどの巨体、普通の方法で吊るして血を抜くのは不可能だ。

 私は杖代わりにしている木の枝を構え、意識を集中させた。


『清らかなる水よ、巡りて分かて』


 私の指先から水が溢れ出し、ベルが開けた眉間の小さな穴や、口から体内へと侵入していく。

 血管を通り、体内の血液を押し流すイメージ。

 水と血液を置換していく。

 傷口から、薄まったピンク色の水が流れ出し、地面に吸い込まれていく。

 この方法なら、周囲を血の海にすることなく、きれいに血抜きができる。


 次に皮剥ぎだ。

 ナイフを入れる。鋼のように硬いと言われる皮膚だが、関節の継ぎ目や柔らかい部分を狙えば刃は通る。

 さらに、水魔法の「分離」の特性を応用する。

 皮と筋肉の間に水の膜を作り、滑らせるようにして剥離していくのだ。

 メリメリという音と共に、分厚い毛皮が剥がれていく。

 力任せに引く必要はない。水の力で、組織と組織の結びつきを解くだけだ。


 解体作業は順調に進んだ。

 内臓を取り出し、必要な部位を選別する。

 肝臓、心臓、胆嚢。これらは薬の材料や高価な素材になる。

 肉は……量が多すぎる。

 すべてを持ち帰るのは不可能だ。

 良質な部位、ロースやバラ肉を中心に切り出し、水魔法で洗浄して血と汚れを完全に落とす。

 清潔な状態になった肉塊を、持参した布袋に詰めていく。

 鞄に入りきらない分は、剥いだ毛皮で包んでソリのように引きずるしかないだろう。


 一通りの作業を終えた頃には、太陽は中天を過ぎていた。

 私は額の汗を拭い、息を吐いた。

 手や服は、思ったよりも汚れていない。

 常に水魔法で洗浄しながら作業を進めたおかげだ。

 足元には、きれいに処理された素材の山がある。


「……終わりました」


「ふん、相変わらず手際だけは良いな。掃除婦としての才能は認めざるを得ん」


 ベルが戻ってきて、素材の山を検分した。


「胆嚢も取ったか。苦くて不味いが、人間どもはこれを珍重するらしいな」


「ええ、金貨数枚にはなると聞きました。これで冬用の厚手の毛布が買えます」


「ならば、さっさと戻って換金するぞ。我の腹時計が菓子を要求している」


 私たちは撤収の準備を始めた。

 重い荷物だが、水魔法で地面との摩擦を減らせば、なんとか運べるだろう。


 その時だった。


 ガサッ。


 少し離れた茂みが揺れた。

 獣ではない。

 もっと慎重で、作為的な音。

 人の気配だ。

 私は反射的にベルを足元に呼び寄せ、フードを深く被り直した。

 顔を見られてはいけない。


 茂みから現れたのは、数人の男たちだった。

 革鎧に身を包み、剣や槍で武装している。

 胸元には、銀色に輝くプレート。Cランク、あるいはBランクの中堅冒険者たちだろうか。

 彼らは、解体されたキラーベアの残骸と、その傍らに立つ私を見て、驚愕に目を見開いていた。


「おい、嘘だろ……?」


 先頭に立つ剣士風の男が、掠れた声で呟いた。


「キラーベアだぞ……? あの災害級の魔獣が、死んでる……」


「しかも、解体済みだ。誰がやったんだ?」


 彼らの視線が、私に集中する。

 小柄な女。

 地味な服。

 手には血のついていないナイフ一本。

 そして足元には、ただの黒猫。


 状況と、目の前の人物像が一致しないことへの混乱が、彼らの表情に浮かんでいる。


「嬢ちゃん、まさか……あんたがやったのか?」


 男の一人が、恐る恐る声をかけてきた。

 私はどう答えるべきか迷った。

 正直に「私の猫がやりました」と言っても信じてもらえないだろうし、逆に信じられればベルが危険視されるかもしれない。

 かといって、「私がやりました」と言うには無理がある。


「……通りすがりに、死んでいるのを見つけました」


 私は努めて冷静な声で嘘をついた。


「誰かが倒して、そのまま放置していったようです。もったいないので、解体させていただきました」


 苦しい言い訳だとは思う。

 キラーベアを倒して素材を放置する冒険者などいるはずがない。

 だが、今の私にはこれ以上の説明が思いつかなかった。


 男たちは顔を見合わせた。

 疑っている。当然だ。

 彼らの一人が、キラーベアの死体に近づき、しげしげと観察した。


「……傷がないぞ。眉間に小さな穴があるだけだ」


「魔法か? だとしたら、相当な手練れだぞ。こんな針の穴を通すような精密な一撃で、あの巨体を即死させるなんて……」


 彼らは戦慄していた。

 死体から読み取れる攻撃の痕跡が、あまりにも高度で、異質だったからだ。

 剣で切り結んだ跡も、炎で焼かれた跡もない。

 ただ、見えない何かで命を刈り取られたような不自然さ。


「……放置、ねえ」


 剣士の男が、胡散臭そうに私を見た。

 その視線が、私の足元のベルに向けられる。

 ベルは、ただの猫のふりをして「にゃあ」と可愛らしく鳴いてみせた。

 ……演技派だ。


「まあ、いい。どのみち、俺たちじゃ手が出せない相手だったのは確かだ。運が良かったな、嬢ちゃん」


 彼らは深入りを避けることにしたらしい。

 あるいは、不自然な状況に何か得体の知れない気配を感じ取ったのかもしれない。

 冒険者としての勘が、これ以上関わるなと告げているのだろう。

 彼らにとって、キラーベアを一撃で葬る何者かが近くにいるかもしれないという可能性は、恐怖でしかないはずだ。


「お気をつけて」


 私は短く告げ、荷物を引きずって歩き出した。

 彼らの視線が背中に突き刺さるのを感じる。

 値踏みするような、畏怖を含んだ視線。


 森を抜けるまで、私たちは無言だった。

 ギルドへ戻れば、また騒ぎになるだろう。

 Fランクの洗濯係が、キラーベアの素材を持ち帰るのだ。

 ただで済むはずがない。

 それに、あの死体の状態を見れば、ギルドの人間なら何かしらの違和感を抱くはずだ。


「……面倒なことになりそうですね」


 私が溜息交じりに呟くと、ベルは足元で鼻歌交じりに答えた。


「何を気にする。下等生物どもの評価など、路傍の石ころと同じだ。それより、菓子だ。我は早くあの甘美な塊を口にしたい」


 彼のブレない姿勢に、私は少しだけ救われた気がした。

 そうだ。

 誰にどう思われようと関係ない。

 私たちは、私たちの生活を守るために、ここにいるのだから。


 私は顔を上げ、街への道を急いだ。

 鞄の中で、薬草とキラーベアの胆嚢が、確かな重みを主張していた。

 今夜は、きっと豪勢な夕食になるだろう。

 それだけが、今の私にとっての確実な真実だった。


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