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追放令嬢が拾った伝説の魔獣は、食いしん坊な黒猫でした。 ~「不敬だぞ!」と怒る最強魔獣を、ご飯とブラッシングで完全攻略しました~  作者: 速水静香
第二章:黒猫の王

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第十話:生きた湯沸かし器

 胃袋が満たされると、人間という生き物は現金なもので、別のところに意識が向くようにできているらしい。

 私は最後の一滴までスープを拭い取ったパンの欠片を飲み下し、ほっと安息の息を吐き出した。ウサギ肉の濃厚な脂と、野草の爽やかな香りが味覚を刺激する素晴らしい食事だった。空腹という生物的な危機を脱した今、私に余裕が生まれ、そしてその余裕が、無視しがたい不快感を拾い上げていた。


 私は自分の手の甲に視線を落とす。

 そこには、解体作業の際に付着したと思われる微細な血痕が、皺の間に黒くこびりついていた。指先は調理に使った獣脂で微かにべたつき、爪の隙間には土が入り込んでいる。

 鼻をすすると、自分の髪や衣服から漂う臭いが、鼻を刺激した。

 三日間に及ぶ囚人護送馬車での旅路でかいた冷や汗。雨の中を泥まみれになって歩いた時の湿った土の匂い。そして先ほどの調理で浴びた油煙と、生肉特有の鉄錆のような臭気。

 それらが幾層にも重なり合い、私という人間を不潔というカラーで覆い尽くしている。


 耐え難い。

 空腹のあまり、なりふり構わず食事を優先していた時には麻痺していた感覚が、満腹感と共に鮮烈に蘇っていた。

 私は元来、整然とした状態を好む。散らかった部屋、乱れた衣服、そして汚れた身体。それらは私の精神衛生を著しく害するノイズだ。

 衣食住の『食』は確保した。雨風をしのぐ『住』も手に入れた。

 ならば次に着手すべきは、文化的で衛生的な生活、すなわち『入浴』である。


 私は立ち上がり、決意を固めた足取りで教会の裏手へと向かった。

 石造りの廊下を歩くブーツの音が、昨日よりも軽やかに響く。

 目指すは、炊事場のさらに奥。探索の際に一瞥しただけの、あの区画だ。

 重厚な木の扉を押し開ける。

 きしみ音と共に現れたのは、ひんやりとした空気が漂う石造りの浴室だった。

 かつてここに住んでいた修道士たちが、祈りの前に身を清めた場所なのだろう。床も壁も、すべてが切り出された石で構成されており、高い天井付近には換気用の小窓が設けられている。

 そして部屋の中央には、大人が十分に足を伸ばして浸かれるほどの大きさを持つ、長方形の浴槽が鎮座していた。


 私は浴槽の縁に歩み寄り、その内部を覗き込んだ。

 予想はしていたが、惨憺たる有様だ。

 浴槽の底には、換気窓から吹き込んだと思われる枯れ葉が腐葉土のように堆積し、石の表面には黒カビと水垢が固着して、不気味な模様を描いている。隅の方では、何か得体の知れないキノコのようなものが小さなコロニーを形成していた。

 排水溝に至っては、泥と埃が詰まり、その機能を停止しているように見える。


 普通のご令嬢ならば、悲鳴を上げて逃げ出すか、あるいはあまりの不潔さに卒倒していたかもしれない。

 だが、私は口元に微かな笑みを浮かべていた。

 汚い。確かに汚い。

 けれど、これは修復不可能な汚れではない。

 むしろ、私の得意とする水魔法でどうにかなる。

 目の前に広がる混沌とした汚れを見ていると、それを浄化し、あるべき姿へと戻したいという衝動が、じりじりと這い上がってくる。


「……やりがいがあるわね」


 私は袖を捲り上げ、浴槽の正面に立った。

 深く息を吸い込み、肺の中の空気を入れ替える。

 イメージするのは、清純な水。

 汚れを浮かして、浄化する水。


『清らかなる水よ、あるべき姿へ還せ』


 静かな詠唱と共に、水流が空気中から発生する。

 それは単に浴槽を濡らすだけの水ではない。私の明確な意思を宿した、流動する掃除用具だ。

 水は生き物のようにうねりながら浴槽の中に堆積した落ち葉や土を巻き込んでいく。

 さらに、石の表面にこびりついた黒いシミへと殺到する。

 ゴシゴシと擦る必要はない。

 水は石材の微細な凹凸に入り込み、汚れの下へと潜り込む。そして内側から押し上げるようにして、長年の蓄積をすべて洗い流していくのだ。


 見ていて気持ちが良いほどに、汚れが浮き上がっていく。

 黒ずんだ石肌が、本来の乳白色を取り戻していく過程は、何度見ても飽きることがない。

 最後に、私は排水溝に向けて水の圧力を集中させた。

 詰まっていた泥の塊が、水流に押されてゴボリと音を立て、暗い穴の奥へと消えていく。

 開通した排水管が、勢いよく汚水を飲み込んでいった。


 数分後。

 そこには、新築同然に磨き上げられた美しい浴槽があった。

 石の表面は滑らかで、一点の曇りもない。

 私は満足げに頷くと、仕上げの魔法を行使した。


『集え、純粋なる滴』


 空気中の水分を集束させ、不純物を一切含まない清浄な水を生成する。

 私の頭上に巨大な水球が出現し、それが浴槽へと降り注ぐ。

 ザアアアッという快い音と共に、浴槽に透き通った水が満たされていく。

 水面は鏡のように静止し、天井の梁を映し出していた。


 私は浴槽の水に指先を浸した。

 冷たい。

 森の冷気を吸い込んだ石材によって冷やされた水は、氷水のように私の体温を奪っていく。

 このまま入れば、汚れは落ちるかもしれないが、心臓が止まるか、風邪をひいて寝込むのが落ちだろう。

 私には水を温める術がない。火属性の適性は皆無だ。


 私は濡れた手を拭き、浴室を出た。

 向かう先は礼拝堂。

 そこには、頼れる――そして手のかかる――熱源がいるはずだ。



 礼拝堂に戻ると、予想通りベルは一番日当たりの良い場所を占拠していた。

 午後の柔らかな陽光が差し込む床の上で、黒い毛玉が気持ちよさそうに寝息を立てている。

 満腹で、暖かく、敵もいない。

 猫として、あるいは生物として、これ以上の幸福はないだろう。

 その幸福をあえて破壊することに、多少の罪悪感がないわけではない。

 だが、私の清潔な生活のためだ。ここは心を鬼にしてもらう必要がある。


「ベル」


 声をかけるが、反応はない。

 耳がピクリと動いただけだ。聞こえているのに無視を決め込んでいる。


「ベル、起きてください。お仕事の時間ですよ」


 私は彼の横にしゃがみ込み、その肩を指でつついた。

 ベルは面倒くさそうに片目だけを開け、金色の瞳で私を睨んだ。


「……なんだ、人間。王の午睡を妨げるとは、不敬にも程があるぞ」


「申し訳ありません、陛下。ですが、緊急の公務が発生いたしました」


「公務だと? 下等な魔獣の討伐か? それとも新たな供物が届いたか?」


「いいえ。お風呂です」


 ベルは怪訝そうに眉間のしわを寄せた。


「風呂?貴様が勝手に入ればよかろう。我は猫の姿ゆえ、水に濡れるのは好まぬ。毛繕いで十分だ」


「私が貴方を入れるのではありません。お湯を沸かしていただきたいのです」


 私が用件を告げると、ベルは呆れ果てたように大きく口を開け、そして盛大な欠伸をした。


「はぁ? 貴様、我をなんだと思っている。暴食の王ベルモスだぞ。それが、給湯器代わりに使われるだと? 断る。我の炎は敵を焼き尽くすためのものであり、貴様のぬるま湯を作るためのものではない」


 彼は再び目を閉じ、丸くなろうとした。

 想定内の反応だ。

 プライドの高い彼が、素直に頷くはずがない。

 私は次なる手札を切った。


「そうですか。それは残念です。貴方ほどの高貴な王が、薄汚れた下僕に世話をされることを許容されるとは思いませんでした」


 ベルの動きが止まる。


「……何が言いたい」


「考えてもみてください。私はこの後、貴方の体をブラッシングするつもりでした。ですが、私の手は油と泥で汚れています。服からは獣の臭いがします。そんな不潔な人間が、貴方の美しい毛並みに触れる……ああ、想像するだけで恐ろしい。王の威厳が損なわれてしまいます」


 私は大げさに嘆いてみせた。

 ベルはむくりと起き上がり、私の顔と手をじろじろと観察した。

 そして鼻を近づけ、くんくんと臭いを嗅ぐ。

 途端に、彼は顔をしかめて後ずさった。


「……臭いな。獣脂と汗の臭いだ。確かに、このまま触れられるのは不快だ」


「でしょう? ですから、私が清潔になることは、すなわちベル、貴方のためでもあるのです」


 論理のすり替えだが、彼には効果的だ。

 ベルは少しの間、不満そうに尻尾をパタパタと床に打ち付けていたが、やがて諦めたように溜息をついた。


「……致し方あるまい。王たる我の品位を守るためだ。特別に力を貸してやる」


「感謝いたします。それと、お湯を沸かしていただいたあかつきには、いつもの倍の時間、念入りにブラッシングさせていただきます。耳の後ろも、顎の下も」


 その言葉を聞いた瞬間、ベルの瞳孔がわずかに開いた。

 彼は喉の奥でゴロゴロという音を漏らしかけ、慌てて咳払いで誤魔化した。


「ふん、別にそのような対価を求めているわけではないが……まあよい。案内せよ」


 交渉成立だ。

 私は心の中で勝利のガッツポーズを決め、ベルを抱き上げた。

 彼は「歩ける!」と抗議したが、私は「お急ぎですので」と言い訳をして、浴室まで小走りで向かった。



 浴室に到着すると、ベルは浴槽の縁に飛び乗った。

 満たされた水を見て、彼は鼻を鳴らす。


「ふん、水遊びか。人間というのは脆弱だな。自浄作用を持たぬとは」


「皮脂腺の構造が違いますから。さあ、お願いします。熱すぎず、ぬるすぎず、いい湯加減で」


「注文の多い下僕だ」


 ベルは水面を見下ろし、小さく息を吸い込んだ。

 その瞬間、浴室内の空気が張り詰める。

 彼の周囲に陽炎のようなゆらぎが生まれ、魔力の高まりを肌で感じる。


『灯れ、灼熱』


 短い詠唱と共に、ベルの口から紅蓮の炎が吐き出された。

 それはかまどの火付けに使ったような小さな火球ではなく、太い火柱となって水面を叩いた。


 ボォォォッ!


 凄まじい熱波が巻き起こり、水面から爆発的な蒸気が噴き上がる。

 一瞬にして視界が真っ白に染まった。

 ゴボゴボと沸騰する音が響く。


「ストップ! ストップですベル! 私を茹でる気ですか!?」


 私は慌てて叫んだ。

 このままでは入浴どころか、熱湯地獄になってしまう。

 ベルは炎を止め、きょとんとした顔で私を見た。


「なんだ、ぬるいか? ならばもっと火力を……」


「逆です! 熱すぎます!お風呂は四〇度前後が適温なんです。敵を焼くのではなく、温めるんです」


「加減が難しいな。弱すぎれば消えるし、強すぎれば蒸発する」


「貴方ならできます。あの精緻な魔力の制御があれば、お湯の温度管理など造作もないはずです」


 おだてつつ、修正を促す。

 ベルは「ふん、当然だ」と胸を張り、今度は慎重に口を開いた。

 吐き出される炎の色が、赤から青白く変化し、細く長い形状へと変わる。

 彼はその炎を、まるで棒でかき混ぜるように水面へ走らせた。

 熱が一点に集中せず、浴槽全体に行き渡るように拡散されていく。


 立ち上っていた荒々しい蒸気が、次第に穏やかな湯気へと変わっていく。

 私はそっと手をお湯に入れた。

 熱い。けれど、肌を刺すような痛みはない。

 じんわりと熱が伝わってくる、絶妙な温度だ。


「……素晴らしいです。さすがはベル」


「この程度、呼吸をするよりも容易いことだ!」


 ベルはドヤ顔で髭を震わせた。

 浴室全体が、温かく湿った空気に満たされている。

 石造りの冷たさが和らぎ、居心地の良い空間へと変貌していた。

 これこそ、私が求めていた文明の香りだ。


「では、私は入りますので。ベルは外で待っていてください」


「言われずとも出る。湿気で我の美しい毛並みが爆発しそうだ」


 ベルは不快そうに耳を伏せると、軽やかに床へ降りた。


「はいはい。ご配慮痛み入ります」


 憎まれ口を見送り、私は扉を閉めた。

 ようやく、一人きりの時間が訪れる。


 私は服に手をかけた。

 革のベルトを外し、シャツのボタンを外す。

 一枚脱ぐたびに、まとわりついていた重力が剥がれ落ちていくようだ。

 泥のついたズボンを脱ぎ捨て、下着も取り去る。

 素肌が外気に触れる。

 ひんやりとした空気が肌を撫でるが、目の前には温かな湯船が待っている。


 私は浴槽に足をかけた。

 ちゃぷん、と音がして、お湯が足首を包み込む。

 温かい。

 その単純な熱量が、こんなにも愛おしいとは。

 ゆっくりと体を沈めていく。

 膝、太もも、腰、そして肩まで。

 水位が上がり、お湯が全身を抱擁する。


「……ふぅぅ」


 堪えきれずに、深い溜息が漏れた。

 肺の中に溜まっていた緊張の塊が、白い息となって吐き出されていく。

 目を閉じ、頭を浴槽の縁に預ける。

 石の感触は硬いが、お湯の温もりがそれを中和してくれている。

 手足の先から、冷えと疲労が溶け出していく感覚。

 血液が巡り始め、ドクドクという自分の脈動が聞こえる。


 王都の屋敷には、猫足のついた磁器のバスタブがあった。

 侍女が好みの温度に調整し、高価な香油を垂らし、薔薇の花びらを浮かべてくれていた。

 けれど、あの頃の入浴は、これほど心地よかっただろうか。

 ただ身体を洗うだけの作業。

 次に着るドレスのことや、夜会での会話のシミュレーションに追われ、湯の温かさを感じる余裕などなかった気がする。

 今の私にあるのは、石の浴槽と、ただのお湯だけ。

 それなのに、ここには王都にはなかった『解放』がある。


 私は鞄から取り出した石鹸を手に取った。

 タオルで包んで大切に持ってきた、最後の文明の利器だ。

 お湯で濡らし、手で転がすと、滑らかな泡が立ち上る。

 淡い花の香りが鼻をくすぐった。

 決して高級なものではない、市井で売られている安価な石鹸だが、今の私にとっては宝石よりも価値がある。


 髪を洗う。

 指の腹で頭皮をマッサージするように。

 汚れと脂が泡に包まれ、洗い流されていく。

 頭が軽くなる。

 思考がクリアになっていく。


 体を洗う。

 こびりついた血も、泥も、すべてが落ちていく。

 白い泡が汚れて床に落ちるたび、私は『追放された令嬢』から、ただの『コレット』へと戻っていく気がした。

 誰の視線も気にしなくていい。

 評価も、噂も、嘲笑もない。

 あるのは、お湯の音と、自分の呼吸音だけ。


 私は再び肩までお湯に浸かった。

 水面が揺れ、天井の石組みが歪んで映る。

 こうして裸でいると、自分がどれほどちっぽけな存在であるかを思い知らされる。

 剣も魔法もなければ、獣の一撃で死んでしまう柔らかい肉体。

 けれど、その脆弱な体で、私は生きている。

 自分の足で歩き、自分の手で食べ、自分の知恵で快適さを勝ち取っている。

 その事実が、静かな自信となって胸の奥に灯る。


 いつまでも入っていたい。

 けれど、のぼせて倒れては元も子もない。

 私は名残惜しさを感じつつ、浴槽から立ち上がった。

 ざばりと水が滴る。

 濡れた肌は、入る前とは別人のように白く輝き、健康的な赤みが差していた。



 私が浴室から出ると、ベルは扉のすぐ横で待っていた。

 香箱座りをして、退屈そうに尻尾を振っている。

 私の姿を見ると、彼は鼻をひくつかせた。


「……遅いぞ。溺れたのかと思ったわ」


「長風呂は美容の秘訣なんですよ。それに、せっかく沸かしていただいたお湯ですから、堪能しないともったいないでしょう?」


 私は濡れた髪をタオルで拭きながら答えた。

 着替えたばかりのシャツとズボンは、肌触りがよく、洗いたての体によく馴染む。

 ベルは私の足元に近づき、ふんふんと臭いを嗅いだ。


「肉の臭いは消えたな。代わりに、妙な花の匂いがする」


「石鹸の香りです。嫌いですか?」


「……悪くはない。あのむせ返るような香水よりはマシだ」


 彼はそう言って、私の足に体を擦り付けた。

 濡れた髪から落ちる雫を気にすることもなく、親愛の情を示してくれている。

 私は屈み込み、彼の頭を撫でた。


「さて、約束でしたね」


「うむ。待ちくたびれたぞ」


 私たちは連れ立って礼拝堂の奥、居住スペースへと移動した。

 暖炉には、すでにベルの手によって火が入れられている。

 パチパチと薪が爆ぜる音が、部屋に安らぎを与えていた。

 私は暖炉の前の椅子に腰掛け、ベルを膝の上に乗せた。

 鞄から取り出したのは、櫛だ。

 本来は私の髪を梳かすためのものだが、今はベル専用のブラシとなっている。


「では、失礼します」


 私は櫛を彼の背中に当て、毛並みに沿って滑らせた。

 艶やかな黒毛が、櫛の歯を通って滑らかに流れる。

 ベルが目を細め、喉を鳴らし始めた。


 ゴロゴロ……ゴロゴロ……。


 その音は、私の心臓の鼓動と重なり、不思議な安心感をもたらしてくれる。

 首筋から背中、そして腰へ。

 丁寧に、優しく。

 ベルは脱力し、私の膝の上で液体のようになっている。

 さっきまでの「暴食の王」という威厳はどこへやら、今はただの甘えん坊な猫だ。


「そこだ……もっと右……」


「ここですか?」


「うむ……悪くない……」


 耳の後ろを掻いてやると、彼の後ろ足がピクピクと動いた。

 私はくすりと笑いながら、彼のリクエストに応え続ける。

 清潔な衣服。温かい部屋。そして膝の上の温もり。

 これ以上の贅沢があるだろうか。

 王城の舞踏会よりも、宝石のついたドレスよりも、今のこの時間の方がずっと豊かで、価値があるように思えた。


 ふと、窓の外を見る。

 森はすでに夕闇に包まれ、木々のシルエットが黒く浮かび上がっている。

 夜が来る。

 けれど、もう怖くはない。

 ここには光があり、熱があり、相棒がいる。


 私はブラッシングの手を休めずに、明日の予定を脳内で組み立てた。

 食と住、そして衛生環境は整った。

 だが、生活を持続させるためには、消耗品が不足している。

 調味料、石鹸の予備、そして冬を越すための厚手の布地。

 それらを手に入れるには、対価が必要だ。

 つまり、現金である。


 私はベルの背中を見つめた。

 この森は、危険だが資源の宝庫だ。

 この森にいる魔獣や採取できる薬草。

 それらを換金できれば、生活はさらに向上するはずだ。


「ベル」


「……なん、だ……」


 夢うつつな声が返ってくる。


「明日は、街へ行ってみましょうか」


「まち……?」


「ええ。冒険者ギルドへ行って、素材を売るんです。そうすれば、もっと美味しいものが食べられますよ」


「……美味しい、もの……」


 食欲という単語に反応して、彼の耳が動く。


「バターたっぷりの焼き菓子とか、柔らかいパンとか」


「……行く。絶対に行く」


 ベルはむくりと顔を上げ、断言した。

 その瞳は、眠気など吹き飛んだかのように輝いていた。

 単純で、頼もしい相棒だ。


 私は微笑み、再び櫛を動かし始めた。

 明日は忙しくなりそうだ。

 けれど、その忙しささえも、今は楽しみで仕方がない。

 自分の足で歩く人生は、まだ始まったばかりなのだから。

 

 暖炉の火が、私たちの影を壁に長く伸ばしていた。

 揺らめく影は一つに重なり、静かな夜の訪れを告げていた。


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