第一話:断罪
シャンデリアの煌めきが、まるで暴力のように視界を焼き尽くしていた。
王城の大広間。そこは今、この国で最も選ばれた血筋を持つ者たちが集う、華やかな牢獄と化している。
鼻を突くのは、体臭を誤魔化すために塗りたくられた香水の匂いと、欲望が腐敗したような甘ったるい熱気。着飾った男女が交わす言葉は、そのすべてが腹の探り合いであり、心にもない賞賛の応酬だ。
私は、この世ではコレット・ド・ヴァロワという公爵令嬢として生を受けた。しかし、いつの間にか思い出したのだ。その前世である現代日本の記憶。だからこそ、この世界の在り様が滑稽でたまらない。
生まれた家柄だけで人間の価値が決まり、その根源たる血統というものを守らなければならない。
そして何より、誰もが「伝統」や「秩序」という美しい言葉で糊塗し、ここにいる誰もが、仮面を被っている。笑顔の裏で舌を出し、握手をした手で相手の背中に短剣を突き立てる機会を窺っている。そんな前近代的な因習に縛られた空間に身を置くことは、私にとって、精神的な拷問に等しかった。
私は壁の花となることを選び、周囲の喧騒を意識の外へと追いやっていた。
グラスの中の果実酒が温まっていく。この液体一滴に、平民の数日分の稼ぎがつぎ込まれているのだと思うと、目眩すら覚える。
早く帰りたい。
自分の部屋に戻り、静かに休みたい。
そんな私のささやかな願望は、唐突な静寂によって断ち切られた。
優雅に流れていた弦楽四重奏が、不自然なほど唐突に止まる。
まるで時が凍りついたかのように、人々の談笑もピタリと止んだ。数百の視線が、示し合わせたように大広間の入り口へと吸い寄せられていく。
そこに立っていたのは、この国の第一王子、エリオット・ド・ヴァルモンだった。
そしてその腕には、本来そこにいるはずのない少女――男爵令嬢ティアナ・ド・ミエルが、へばりつくように寄り添っている。
「……始まったわね」
私は小さく嘆息した。
エリオット王子の顔は、まるで舞台役者のように上気している。その瞳には、これから自分が演じる「正義の執行者」という役割への陶酔が浮かんでいた。
ああ、なんと分かりやすい。
彼は今、自分が物語の主人公であると信じて疑わないのだろう。隣に侍らせた「可憐なヒロイン」を守るため、悪役を断罪する英雄。そんな安っぽい脚本に酔いしれているのだ。
人波が割れ、二人が私の方へと歩いてくる。
周囲の貴族たちが、扇の隙間から好奇に満ちた視線を向けてくるのが分かった。彼らにとって、他人の不幸ほど美味な蜜の味はないのだ。
私は背筋を伸ばし、表情筋を完璧に制御して、静かに彼らを迎え撃つ姿勢を取った。
逃げる理由はない。それに、この茶番に付き合うのも、これが最後になる予感がしていたからだ。
「コレット・ド・ヴァロワ!」
エリオット王子が、広間に響き渡る声で私の名を叫んだ。
その声には威厳の欠片もなく、ただ感情に任せた粗野な響きが含まれている。
私はゆっくりと優雅に一礼した。そのすべてが王室の作法に則ったものだ。皮肉なことに、私がこの世界で生き抜くために身につけた「貴族としての仮面」は、彼らよりも遥かに精巧にできている。
「はい、殿下。本日はまた、随分と賑々しいご登場ですこと」
私の静かな返答が気に入らなかったのか、エリオット王子は顔を真っ赤にして激昂した。
「貴様、そのふてぶてしい態度はなんだ! 自分が何をしたのか、分かっていないわけではあるまい!」
「何をしたか、でございますか? 残念ながら、私には心当たりがございません。もしよろしければ、私の無知を啓蒙してはいただけませんか?」
私の言葉は、丁寧な敬語の形を借りているが、その実、相手の知性を問う刃を含んでいる。しかし、感情の沸点を超えている彼に、その皮肉が通じるはずもなかった。
彼は隣のティアナを庇うように一歩前に出ると、大仰な身振りで私を指差した。その右手には、なみなみと注がれた赤ワインのグラスが握られている。
「しらばっくれるな! 貴様が、このティアナに対して行ってきた数々の陰湿な嫌がらせ……余はすべて知っているのだぞ!」
嫌がらせ。
その単語が出た瞬間、会場がざわめいた。
ティアナが、王子の影から怯えたような瞳を覗かせる。その瞳は潤み、今にも零れ落ちそうな涙を湛えている。計算し尽くされた「被害者」の表情だ。
「ひどい……コレット様、まだとぼけるのですか?」
ティアナの声は、甘ったるく、粘りつくような響きを持っていた。砂糖を煮詰めすぎて焦がしたような、独特の不快感が背筋を走る。
彼女は震える声で、切々と訴え始めた。
「私、ずっと怖かった……。コレット様に、身に覚えのない悪評を流されたり……『お前は聖女ではない』って罵られたり……。それに……!」
次々と並べ立てられる罪状。
聖女否定。悪評やありもしない噂を流す。
どれもこれも、あまりに稚拙な創作だ。
私は呆れを通り越して、感心すら覚えた。よくもまあ、これほどまでに根拠もなく敵として作り上げることができるものだ。
(……馬鹿馬鹿しい)
心の中で、冷たく吐き捨てる。
しかし、エリオット王子にとって、ティアナの言葉は神の啓示にも等しい真実らしい。
「聞いたか、皆の者! これぞ、コレットの本性だ! 聖女候補であるティアナの清らかな心に嫉妬し、その地位を脅かそうとする卑劣な行い……。断じて許されるものではない!」
王子が声を張り上げるたびに、彼の手元のグラスが大きく揺れる。
そして――
ぽたり。
あ、と思った時には遅かった。
王子の手から零れた赤ワインが、放物線を描いて落下していく。
私の視界の中で、その光景だけがスローモーションのように鮮明に映し出された。
深紅の液体は、床に敷かれた淡いクリーム色の絨毯へと吸い込まれていく。
それは、この国の職人が数年がかりで織り上げた、最高級の羊毛絨毯だ。その繊細な織り目の一つ一つに、職人の魂と時間が込められている。
だが、王子の不注意によって零されたワインは、無慈悲に繊維を染め上げ、醜いシミとなって広がっていく。
(……ああ、なんてことを)
私の心は、濡れ衣を着せられた怒りよりも、その一点に釘付けになっていた。
職人の技術。費やされた労力。素材の価値。
それらが、権力者の些細な感情の爆発によって、一瞬にして損なわれていく。
これだ。これこそが、私がこの世界で最も嫌悪する光景だ。
彼らは、自分たちの足元を支えている「労働」や「技術」に対して、あまりにも無自覚で、無敬意だ。自分たちが特権階級にいるのは当然の権利だと思い込み、他者が積み上げたものを平然と踏みにじる。
その傲慢さが、あの絨毯のシミに凝縮されているように思えた。
「……聞いているのか、コレット!」
王子の怒号が、私の思考を現実へと引き戻す。
私は視線をシミから王子へと戻した。
私の沈黙を、罪の肯定と受け取ったのだろうか。彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、高らかに宣言した。
「よって、余は今ここに宣言する! コレット・ド・ヴァロワとの婚約を破棄する! 貴様のような性根の腐った女は、将来の王妃に相応しくない!」
婚約破棄。
その言葉が放たれた瞬間、会場の空気が爆ぜた。
貴族たちが一斉にざわめき出し、好奇の視線が私に突き刺さる。
しかし、私の胸に去来したのは、安堵だった。
(やっと……終わった)
肩の荷が下りるとは、まさにこのことだ。
家同士の契約という鎖。王太子妃教育という名の無駄な時間の浪費。そして何より、エリオットという話の通じない相手と生涯を共にしなければならないという絶望的な未来。
それらすべてが、彼自身の愚かさによって断ち切られたのだ。
私が手を下すまでもなく、向こうから勝手に自滅してくれた。これほど効率的な話はない。
私は表情を崩さず、むしろ今までで一番穏やかな眼差しで王子を見つめた。
「承知いたしました。殿下がそう望まれるのであれば、私は異存ございません」
「なっ……!?」
私のあまりにあっさりとした反応に、エリオット王子は虚を突かれたように口を開けた。
彼はきっと、私が泣いて縋り付くか、あるいは怒り狂って否定することを期待していたのだろう。それが「断罪イベント」における悪役令嬢の正しい振る舞いだからだ。
だが、私はその期待に応えるつもりはない。
彼の脚本通りに踊らされるなんて、まっぴらごめんだ。
プライドを傷つけられた王子は、顔を歪めてさらに言葉を重ねた。
私に屈辱を与えなければ気が済まないのだろう。
「ふん、強がりを言うのも今のうちだ。婚約破棄だけで済むと思うなよ。貴族としての籍を剥奪し、平民以下の罪人として、追放を命じる!」
追放。
その言葉の重みに、周囲の貴族たちが息を呑む。
しかし、彼はそこで残酷な笑みを浮かべ、最後の仕上げとばかりに告げた。
「行き先は――『還らずの森』だ!」
悲鳴に近いざわめきが広がった。
王国の国境沿いに広がる未開の地。強力な魔獣が跋扈し、瘴気に満ちた死の森。
そこに、身一つで放り込まれる。それは実質的な死刑宣告だった。
だが。
私の思考は、すでに別の方向へと走り出していた。
(還らずの森……)
人跡未踏の地。つまり、そこにはこの煩わしい貴族社会は存在しない。
顔色を窺う必要も、中身のない世辞を言う必要も、理不尽な命令に従う必要もない。
あるのは、自然の掟と、生存競争というシンプルなルールだけ。
それは、ある意味、私がずっと求めていた「自由」に他ならないのではないか?
もちろん、危険はある。死ぬ可能性も高い。
だが、この窒息しそうな「華やかな牢獄」で、心を殺して一生を終えるよりは、遥かに分かりやすい選択肢だ。
「……感謝いたします、殿下」
私は深く、優雅に一礼した。
それは、彼への皮肉でも、負け惜しみでもない。
私をこの腐った社会から解放してくれたことへの、純粋な感謝だった。
「貴方のそのご決断が、どうぞ国益に叶うものでありますように。そしてティアナ様、どうぞお幸せに」
私は顔を上げ、二人に向けて微笑んだ。
それは作り物の仮面ではない。憑き物が落ちたような、清々しい笑みだったはずだ。
エリオット王子は、私のその表情を見て、何か言い知れぬ不安を感じたのか、たじろいだように後ずさった。
しかし、私はもう彼に関心などなかった。
私は踵を返し、絨毯のシミを避けるようにして歩き出した。
背中に突き刺さる数百の視線。
蔑み、嘲笑、あるいは憐憫。
以前なら、その視線の意味を分析し、どう振る舞うべきかを計算していただろう。
だが今は、それらがただのノイズにしか感じられなかった。
彼らはここに残り続けるのだ。この閉塞した箱庭の中で、互いの足を引っ張り合い、見えない鎖に繋がれたまま踊り続けるのだ。
私は、そこから降りる。
いや、強制的に降ろされた。




