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暗闇の隣人

作者: 猫治
掲載日:2025/12/31

停電は、音もなくやってきた。

エアコンの送風音が途切れ、冷蔵庫の低いうなりも消えた。部屋は急に広く、心細くなる。


窓の外を見ると、向かいのアパートも真っ暗だった。街灯だけが頼りなく点いている。月に一度くらい、こういう夜がある。理由は知らない。誰も困らない程度の、短い停電だ。


懐中電灯を探そうとしていると、廊下の方から声がした。


「……今夜も、だね」


隣の部屋の人だった。

顔も名前も知らない。引っ越してきてから半年、挨拶らしい挨拶をした覚えもない。すれ違えば軽く会釈するだけの存在だ。


ドア越しに、彼は続けた。


「明るいと、うるさくてさ」


「……何がですか」


自分の声が、思ったより大きく響いた。


「いろんな考えが」


少し間があって、鍵の音がした。

廊下に出ると、隣人は小さな懐中電灯を持って立っていた。年齢はわからない。若くも老いても見える、不思議な顔立ちだった。


「電気があると、人は黙るんだよ」


「逆じゃないですか」


思わずそう言うと、彼は小さく笑った。


「本当に言いたいことほど、明るい場所じゃ言えない」


その言葉に、胸が少しだけざわついた。

なぜか反論できなかった。


廊下の床に座り込み、壁にもたれて話した。

仕事のこと。最近眠れないこと。誰にも言っていない、辞めたい気持ち。


「逃げてもいいと思ってる」


隣人が、ぽつりと言った。


「……え?」


「君、ずっとそう考えてるだろ」


心臓が跳ねた。

それは、誰にも口にしていない言葉だった。


「怖いんだ。何も変わらなかったらって」


隣人は、まるで続きを読むように言葉を重ねる。

自分の中に沈めていた考えが、次々と外に出ていく。


「でも、何かを壊さないと進めない気もしてる」


その通りだった。

否定も肯定もできず、ただ息をする。


やがて、パッと廊下が明るくなった。

電気が戻ったのだ。


「じゃあね」


隣人はそれだけ言って、部屋に戻った。


翌朝、明るい廊下ですれ違っても、彼は何も言わなかった。ただの隣人だった。

昨夜の話など、最初からなかったかのように。


それでも、部屋に戻って電気を消すと、少しだけ静かになった気がした。

明るさの中で聞こえなかった、自分の声が、まだそこに残っていた。

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