暗闇の隣人
停電は、音もなくやってきた。
エアコンの送風音が途切れ、冷蔵庫の低いうなりも消えた。部屋は急に広く、心細くなる。
窓の外を見ると、向かいのアパートも真っ暗だった。街灯だけが頼りなく点いている。月に一度くらい、こういう夜がある。理由は知らない。誰も困らない程度の、短い停電だ。
懐中電灯を探そうとしていると、廊下の方から声がした。
「……今夜も、だね」
隣の部屋の人だった。
顔も名前も知らない。引っ越してきてから半年、挨拶らしい挨拶をした覚えもない。すれ違えば軽く会釈するだけの存在だ。
ドア越しに、彼は続けた。
「明るいと、うるさくてさ」
「……何がですか」
自分の声が、思ったより大きく響いた。
「いろんな考えが」
少し間があって、鍵の音がした。
廊下に出ると、隣人は小さな懐中電灯を持って立っていた。年齢はわからない。若くも老いても見える、不思議な顔立ちだった。
「電気があると、人は黙るんだよ」
「逆じゃないですか」
思わずそう言うと、彼は小さく笑った。
「本当に言いたいことほど、明るい場所じゃ言えない」
その言葉に、胸が少しだけざわついた。
なぜか反論できなかった。
廊下の床に座り込み、壁にもたれて話した。
仕事のこと。最近眠れないこと。誰にも言っていない、辞めたい気持ち。
「逃げてもいいと思ってる」
隣人が、ぽつりと言った。
「……え?」
「君、ずっとそう考えてるだろ」
心臓が跳ねた。
それは、誰にも口にしていない言葉だった。
「怖いんだ。何も変わらなかったらって」
隣人は、まるで続きを読むように言葉を重ねる。
自分の中に沈めていた考えが、次々と外に出ていく。
「でも、何かを壊さないと進めない気もしてる」
その通りだった。
否定も肯定もできず、ただ息をする。
やがて、パッと廊下が明るくなった。
電気が戻ったのだ。
「じゃあね」
隣人はそれだけ言って、部屋に戻った。
翌朝、明るい廊下ですれ違っても、彼は何も言わなかった。ただの隣人だった。
昨夜の話など、最初からなかったかのように。
それでも、部屋に戻って電気を消すと、少しだけ静かになった気がした。
明るさの中で聞こえなかった、自分の声が、まだそこに残っていた。




