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ライトニング・シューター  作者: 黒羽燦
二巻《氷狼の顎門》
30/31

chapter 1 Imperfect Combustion -不完全燃焼-

「リョタロー!!」

 名前を呼ばれて遼太郎は跳ね起きた。掛け布団をはじき飛ばして頭を抑える。

 傍らには義理の姉である八千草華恋が仁王立ちしていた。スポーツブラとショーツという組み合わせで、首にはスポーツタオルを巻き付けている。トレーニング帰りだろうか。

「……大丈夫だ…………。……ッ!?」

 電灯の紐を引き、目を刺す光に耐えながら頭の横に置いた目覚まし時計を掴む。細目を開けた遼太郎は、文字盤を見て短いうめき声をあげた。午前四時――新聞配達のアルバイトには到底遅い。

「全部終わってるよ。焦るなって」

「……起こしてくれよ」

「リョタローが目覚まし時計で起きないったら、よっぽど疲れてるからさあ。無理は体に毒ですよー」

 窓の外に目を向けてみればしとしとと雨が降っていた。雨天時の配達が困難を極めることを遼太郎はよく知っている。不敵に笑う義姉に感謝しつつ、目を擦って霞を払う。

「すまねえな」

「気にしなさんな。クビになったらクラブで雑用の仕事があるし、もっと堂々といきなって。というかクラブに鞍替えすれば? 私の半裸、興味ない?」

「家じゃ全裸だろ」

「おーおー、風説の流布は止めて欲しいね。もちろん他の女の子の半裸も拝めるぞ」

 高校生にしてプロのキックボクサーであり、夜はややいかがわしい店でキャットファイト(とはいってもガチンコの)を繰り広げている彼女のボディは、一般的な女子高生とは一線を画していた。肩や上腕の筋肉も女子にしてはかなりのものだが、何よりも目を引くのは薄く割れた腹筋と、八頭身に近い抜群のプロポーションだろう。

 それでいて顔立ちも整っている。小顔で黒目の多い瞳は、なるほど沙知の従姉であることも納得できた。ずれた肩紐が日焼けしていない肌を覗かせている様子は、扇情的な雰囲気と同時に、ダビデ像に通ずるような『肉体美』を感じさせる。

「でもこのくらいならあんまりエロくないでしょ」

「まるで彫像だな」

「褒めてる?」

「率直な感想を述べただけだ」

「んー、そ。んで、学校休むか?」

「馬鹿言うなよ姉貴。一時間寝過ごしたぐらいで休めるか。問題ねえ」

「そうか。うん。割と元気そうでよかったよ、うん」

 華恋の視線が泳ぐ。下半身がテントを張っていた。

「これは体調とは関係ねえよ」

「知ってる。毎朝勃起するんだってね」

「少しは恥じらいを持ってくれよ」

「オッサンの前、かつローションプールの中で半裸で組み合ってるし」

「姉貴こそもうやめたらどうだ」

「いやいや。女の子をいたりいだり、中々楽しいんだ」

「そうかよ……体を引きずるな」

 遼太郎の首を羽交い締めにした華恋が、そのまま彼の体を引き摺ってゆく。それなりに踏ん張ってはいるのだが、女性の限界を突破した超人的な膂力に抗うことができなかった。

「立て、立つんだリョウ! ってね」

「なあ、朝から疲れないか」

「ん? アンタのテンションが低い分、私が埋め合わせをしようと思って」

「そういう気遣いはいらねえよ」

「そうか。ま、とにかく早く食卓に来なよ」

「来なよ、といいつつ首をひっつかんで引きずってるじゃねえか。やめろ」

 制止の声も届かず、部屋から引きずられるようにして狭いリビングへと向かう。手洗いうがいをきっちりと済ませて椅子に座れば、テーブルの上にはトーストとサラダ、目玉焼きが並んでいた。ヨーグルトには薄切りにされたバナナが浮かび、スプーン一掬いの蜂蜜が浮かぶ。遼太郎は皿に盛られた草を、キャベツだかレタスだか判別がつかないままにトーストの上にのせ、目玉焼きを挟んでマヨネーズをかける。八十キロを超える握力に任せて、強引にパンを折り畳んだ。

「小癪な」

 眼前の華恋も同じことをしている。卵の黄身とマヨネーズが両脇から垂れているのが、どこか彼女らしかった。

「まあなに、とりあえずおめでとう」

 真向かいの華恋が笑いかけてくる。悪意のない表情と言葉を見て、遼太郎は訝そうに片眉をあげた。

「皮肉かよ。どうしようもないんだぜ? 三年も就活なりなんなりで忙しいし解散だ解散」

「もったいないね。せっかくつかんだ切符なんでしょ」

「サカガミには勝てた。個人的にケリはつけたつもりでいるけどな」

「とか言いながらメンバー集めに駆けずり回るんじゃい?」

 サラダを口に運ぶ手が止まる。そう長く一緒にいるわけではないが、自分の義理の姉であり従姉である彼女の洞察力については良く理解しているところだった。

「そう見えるか」

「ん。別に馬鹿にしてるわけでも茶化してるわけじゃないよ。やれるところまでやればいい。山積みの問題は全部解く必要なんてないし。夏休みの宿題ってさ、ほっとけばわりとゴリ押しできたでしょ。小学校中学校なんてロクにやらなかったぞぉ私」

「なんの話だよ」

「やりたいことはやったって話。昆虫採集して日記つけて、スイカ食べて――そういうことばっかり。あとはクソ食らえ、って感じ。それでいいじゃん」

「負ける試合だとわかっててもリングインするのか」

「するね。しなかったら何かプラスになる? 敗北も散財も構いやしない。保険かけながらセコセコ生きるのはダルいでしょ。大火傷しても鉄火場を踏破する――その方がずっと男らしい」

「あんた女だろ」

 遼太郎の言葉に華恋はまた笑う。邪気も打算も何もないその表情からは、しかし頭の悪さを感じさせるわけではなかった。考えた上でそれを選び取ったのだろう。繊細さと剛胆さが同居した彼女のことを、遼太郎は純粋に尊敬していた。

「ごちそうさまでした、と。……んじゃ、行ってくるわ」

「ん。着替えてからいきなよ」

「わかってるっつーの」

 華恋が自分の掌に向けて拳を打ち付けた。パァンと言う音が、萎んでいた遼太郎の活力を取り戻させる。

「わりいな」

「ん? 今日の食事当番は……私であってる。どした?」

「んでもねえ」







 遼太郎はどこまでも汚い町を走っていた。

 鼻腔を満たす異臭が何であるかは分からない。排気ガス、吐瀉物、糞尿――あるいはその全てだろうか。早朝まで降っていた土砂降りの雨がそれら全てを混濁させている。犬の糞で埋め尽くされた植え込みには、道行く子供によって薙ぎ払われたサルビアの花弁が散る。

 足元にはひび割れたレンガブロックの道が続いている。吐き捨てられたガムでできた黒く歪んだ水玉が、黒と赤茶のマーブル模様を作っていた。

 住んでいる場所に誇れるものがあるとしたら何だろうか。日本一汚い川、重犯罪人が多く収容されている拘置所――。生活保護の受給者数や給食費の未払い率も日本一だった。東京の貧民街スラムという呼び名はあながち間違っていないだろう。

 喧噪を耳にしてふとその方向へ目を向ける。ホームレスといった体の男が、スーツ姿の男に怒鳴り掛かっていた。酔っているのか呂律がまわっておらず、対するスーツの男もいまにも殴りかからんばかりの剣幕である。

 別に珍しい光景ではない。

 喧嘩、虐め、万引き、スリ、ポイ捨て、障害児、痴呆老人――

 ここはそういうあぶれた人間の掃き溜めだった。数の大小はあれどこの町でもみられる光景なのかもしれないが、駅までの往復で五回か六回は目撃するこの町はやはり異常と言えるだろう。

「――その辺にしとけ」

 立ち止まり、対岸の歩道に向けて恫喝する。酔った男がびくりと体を震わせて、捨て台詞を一つ残して場を去っていく。

 いかつい容姿も使いようだ。逆立つ髪に三白眼。やや荒れた肌に百八十センチを超える長身、極めつけには全身を纏う鋼の鎧だ。せりあがった筋肉が肩幅を余計に強調し、学ラン越しですら化け物じみたシルエットを浮かび上がらせる。

「あ、君……!」

 両手で握力強化用のゴムボールを握り潰し、サラリーマンを無視して歩を進めていく。駅までは歩けば十五分というところだが、遼太郎は手を抜いて走っても三分とかからない。日常動作の全てをトレーニングに変換していかないことには、練習時間の不足が否めないのである。

 駅の西口に辿り着いたところで定期券を取り出し、地下へと続く階段にさしかかる。二段飛ばしで下ってゆくたび、生ぬるい風が頬を撫でつけた。

 地下鉄のホームは薄暗い。節電といえば聞こえはいいだろうが、ただ単に蛍光灯を取り替えていないだけだ。チカチカと明滅を繰り返す管の側に、不快な羽音を立てながら銀蠅が飛び回っている。群れる人々の呼吸は荒く、顔色は暗い。灰色一色のプラットフォームを戦場にして、誰もが貴重な酸素を奪い合っているようだった。

 ホームの一番端に、ぽつんと一人の少女が座っていた。備え付けの椅子ではなく、車椅子の上にである。

 彼女を中心として半円を描くように、明らかに異質な空間が広がっている。混み合ったホームにも関わらず、その場所だけは不可侵の領域が展開されていた。

 さしずめ地雷原に揺れる花とでもいったところだろうか。

 車椅子。大きな胸。柔和な笑みを浮かべた顔。

 何を考え、何を思い、己を傷つけた競技に参加し続けているのだろうか。自分が傷つくことは厭わないが、他者の為となれば兵太も驚くほど手段を選ばない苛烈な少女――。その名を安藤沙知あんどうさちと言った。

 彼女と初めて出会う人間は、まず何が目につくだろうか。子役でならしたかわいげのある表情は今も全く色あせることはなく、むしろ大人への萌芽を感じさせる分、現役時代よりも磨きがかかっていた。耳の前に小さな三つ編みを二つ垂らしているのは、もうずいぶん前からそうしているように思える。

 遼太郎の姿を見つけたのか、彼女が車輪を転がした。海を割るように、戦車に乗った聖女が鉄塊と共に道を裂く。

「どうしたの」 

 人垣を蹴散らした彼女が小首を傾げた。計算ずくの所作ではあるが、わざとらしさを感じさせない。

「どうもしねえ」

 曖昧な返事に沙知がくすくすと笑った。何が面白いのかさっぱり分からずに、遼太郎は怪訝な表情をして彼女の車椅子の裏に回る。

「待たせて悪いな」

「ううん。今来たところ」

「車椅子をホームの端まで転がして、か」

「強がってるんだから、そゆことは言わなくて良いの」

「三日前は、女は甘えたい生き物って言ってたよな」

「女性は神秘的な生き物なのです」

「そうかよ」

 付き合いきれないとばかりに遼太郎は話を打ち切った。異臭を振りまきながら停車した電車の、その入り口まで沙知を転がす。乗り口の段差のところで、車輪の脇から突き出したティッピングレバーを踏み、前輪を軽く浮かせた。沙知の体重移動は慣れたもので、遼太郎が倒すタイミングに合わせて重心を後方へうまくずらしてみせた。おかげでほとんど力を入れずに彼女を電車へと乗せることができる。

「うーん、もう少し段差を埋められればなあ」

 しまるドアに背を向けて沙知が呟く。

「駅員にいやあ、すぐにステップを持ってくるだろ。旅の恥はかき捨てだ」

「でも、声をかけるのが苦手って人もいると思うの。だってりょうちゃんが同じ状態だったらかけるの嫌がらない?」

「まあ、おおかたそれが面倒だから家から出なくなるだろうな」

「ほらねー。バリアフリーを推し進めないと」

「ひとりぼっちでも良いようにってか」

「私もね、もっと一人でラクに動けたらいいなっていうこと、あるもん」

「俺に電話を寄越せばいい」

 何の気もなしのその言葉に沙知が一瞬はにかんだ。

「えー。だって、りょうちゃんにプレゼント買うときとかだよ。知ってたら、『んなもんはいらねえ』って絶対に断るでしょ」

「ああ」

「ストイックなりょうちゃん」

「俺なんかにモノ買ってる余裕があるなら、孤児院か赤十字にでもに余裕があるときにすればいい――私も実際、そうしてる」寄付してやれ」

「いいの。どうせ全部救えるわけじゃないし。そういうのは、自分

「意味がわからねえな。余裕がなくても俺にはモノを買うのかよ」

「余裕がない、の定義にもよるけど。三食がしっかりたべられて、好きなことができて。それでもお金があるのなら、まずは近しい人に使いたいの。もちろん、身の破滅を及ぼすほどに貢ぐつもりとかはないからね。ヒモはだめだよ。私、およめさんにあこがれてるんだから」

「専業主婦ってことか」

「そうやって、なんでも役職みたいに呼ぶと残念な感じになっちゃうよ」 

「そういうもんなのか」

「そういうもんなのさっ」

 わかりましたか、と言って顔をあげる沙知に遼太郎は気のない返事で答えた。何度が議論をしたこともあるが、沙知は一瞬で折れるか一歩も引かないかのどちらかで、最終的にいいくるめられるのは遼太郎の方だった。理知的な幼馴染みの扱いに頭を抱えながらも、互いの穴を埋め合うようにしてうまいことやってきている。

 本当はもっとまじめに勉強をして沙知の行く都立進学校に入るつもりではあったが、中三の夏頃に高専を志望した沙知の意をくむかたちで今の自分がいる。

 確かに自分が介助をできるのはラクである。が、基本的に沙知は人助けが全くいらないレベルで自立していた。沙知が自分に対してどんな感情を抱いているのか遼太郎は判別できていないが、自分がいるからここに来たという事実だけは間違いないだろう。

 高校受験などロクに考えてもいなかった遼太郎が偏差値六十中盤を超える国立高専に入れたのはほかならぬ沙知のおかげであった。過去問を徹底的に分析し、大して長くもない勉強時間ながら偏差値が二十は跳ね上がった。

「なぁ、沙知。何か本持ってないか?」

「うん、あるよ。何がいいかなぁ。伊坂さんと……あと、桜庭さん」

「砂糖菓子がどうちゃらっていうのはよく分からなかった」

 沙知がゴソゴソと通学鞄を漁り始める。

「なんかそんな気がした。りょうちゃん、強すぎるからねえ。やっぱり、いきなり魔王が現れるような小説が良さそうだね」

「あんのかよ」

「ない。あっても主人公はりょうちゃんみたいに強くない」

「強い」

「精神的にってこと。絶望も後悔も諦念も切り捨てられる超人は、やっぱり主人公には向いてないよ。感情移入できないもの」

「そう見えるか、俺が」

「少なくとも、私の前ではそうしてくれてるから。少し寂しいけれど」

 口を塞ぐことしかできなかった。どこまでも真っ直ぐで、誰よりも正直な彼女に、答える言葉を持ち合わせていない。

「あ、虐殺器官があった」

「えげつねえタイトルだ」

「でもすっごい面白いよ」

「んじゃあそれにするわ」

 本を受け取り、しばらく表紙を眺めてからバッグに入れた。そのまま静かな時間の流れに身を委ねる。

 骨身を削るように生き急ぐ遼太郎も、この時ばかりは安息を感じていた。



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