chapter 1 脈動
大きく体を震わせて洋介は目を覚ます。
悪夢の内容は先日の試合のワンシーンだった。たかだか光線銃――痛みのない玩具であるはずなのに、夢の中で洋介の頭を吹き飛ばしたそれは実銃の感覚を持って迫ってきていた。
「はぁ」
洋介は誰にも聞こえないように、ボリューム最小で溜息を吐く。
春の陽気に晒されていためか、ブレザーの背中がほんのりと暖まっている。
黒板には何やら円形の物体の絵が描かれている。半分寝ていた状態で取ったノートには、ミミズの這ったような字で「銅鏡」と書かれていた。慌てて消しゴムでミミズの除去に試みるが、勢い余ってノートの端が折れ曲がる。
高校に入ったら、高校に入ったらと、中学時代の教師たちは口を酸っぱくしていたが、現実はどうか。
野辺市の鳳ヶ丘にある幸鳳学園は、西東京では最大級の規模を誇る私立高校だったが、洋介が通っていた公立中学校と比べて大差があるわけではなかった。深緑色の黒板が有り、ところどころ傷つけられた机があり、座っていると尻と背中が痛くなる椅子がある。無理にでも違いを挙げろと言われたら、携帯電話の持ち込みが可能であることぐらいだろうか。
「ふぁ……あ」
意に反した欠伸と、それに付随した間抜けな声が洋介の口から発せられる。四月も中旬を過ぎ、緊張感が抜けた後に襲来する陽気は強敵だった。事実、クラスメイトの数名は既にノックアウトされて机に突っ伏している。
黒板の端に貼られた計画表が視界に映る。洋介は、もうすぐ一回目の定期考査があることを思い出した。中学時代の一回目の定期考査と言えば、周囲の人間は緊張した面持ちで努力をしていたように思えるが、高校のクラスメイトたちはそうではないらしい。弛緩しきった空気から察するに、しょっぱなから残念な点数を叩き出すであろうことは目にみえていた。
もっとも洋介が所属しているのが普通コースだからという原因も大きかった。幸鳳学園には、普通コースの上に進学コース、選抜コース、特進コースと三つのコースが有る。特進の生徒に至っては日本トップの大学にゴロゴロ受かると言うのに、普通コースはこんな調子だった。
「お前ら、良いご身分だなあ。社会人は忙しいんだぞ」
箸墓古墳を熱く語っていた男がやる気の無い生徒の態度にむくれる。四十代中盤、ぶっくりと膨れた腹と禿頭、時代錯誤な丸い黒眼鏡が目立つ中年親父だった。見た目に反してかなりの熱血漢でもあり、行動力は抜群、更には生徒想いという頼れる教師で、日本史の授業が面白くない事を除けばクラスでの評価は上々である。
「先生の高校の頃はどうだったんですか」
一番前の席に座っていた男子生徒が非難するように声を上げた。
「当時の俺は忙しかったんだぞ。珍しいライフル部でな、メチャクチャ練習したもんだ。こう、構えてだな……」
太田はにんまりと笑いながらライフルを構える真似をする。誇らしげなその姿に、生徒たちは苦笑いを浮かべていた。
「おーい、坂上。聞いてるかー」
太田は洋介の所属しているライトガン部の顧問であることから、よく洋介に絡んできた。成績も素行も良好なため、太田としては他の生徒とのパイプとして利用したいのだろう。
「はい」
しっかり聞いていました、という顔をして洋介は太田の方を見る。取り繕う技術には自信があったが、担任、日本史の授業、部活動と接点が多いために、太田が相手だと見透かされることも多かった。
「まあいいんだけど」
洋介のそっけない返事に太田は拗ねたように目線を逸らす。それと同時に終了を告げるチャイムが鳴った。眠そうな顔をした代表委員がやる気の無い号令をかける。
「帰りの会……はいいや、伝える事無いし。各自解散」
太田はそれだけ言うとそそくさと教室から去っていく。いなくなるのを待ってましたとばかりに、女子生徒たちがコーヒー切れだとはやしたてる。どうやら今朝太田が持っていたビニール袋の中に大量のコーヒー缶が入っていたらしく、それをネタにしているようだ。いつかカフェイン中毒で死ぬんじゃないだろうかと、どうでもいい会話が展開されていく。
洋介はまたも窓の外に目を向けて、青々しくなり始めた桜の若葉をしげしげと見つめていた。桜が咲いていた頃は女子がキレイキレイと騒ぎ立てていたが、散った後の茂り始めた桜には興味がないらしい。もちろん洋介も桜の花は好きだったが、葉桜も十分に見ごたえがあるものだと思っていた。
ちらりと腕時計に目をやった。今日は四時から部活が始まるので、まだ三十分も暇な時間がある。先に行って準備を済ませておこうと思うものの、なんとなく動く気が沸かずに結局目だけを窓の外へと向ける。
ソフトテニス部の下手なラリーを見つめていると、窓の外の風景がぼやけてきた。洋介は目を瞑り何か違うことを考えようと思うものの、努力も空しく先日の光景がフラッシュバックする。
――走って、走って、転んだ。雨と泥の中、ショットガンが――。
瑣末な一敗が意識を囚えて離さないという事実に、洋介は辟易していた。心を侵食していくその光景から目を背けるように机に突っ伏すと、今度は昨日の光景が脳裏に蘇ってきた。
昨日はいつもの射撃練習場に足を運んだものの、普段なら考えられないような壊滅的なスコアを叩き出して顔見知りの常連客たちから散々心配されたのだった。ショットガンで頭を吹っ飛ばされるよりはマシとはいえ、それはそれであまり良い記憶ではない。
部活まで昼寝をしようと思って目を閉じると、急に喋っていた女子生徒たちが沈黙した。たまたま会話が途切れたにしては長過ぎる静寂に違和感を覚えて、洋介は顔を上げる。
原因は火を見るより明らかだった。
後ろの引き戸を開いたところに、他クラスの女子生徒が佇んでいる。
腰まであろうかというロングヘアーは、よく手入れをされているのか艶やかに光っていた。日本人離れした白い肌が、唇の赤を鮮烈に印象付ける。大きな目はどこか虚ろで、華奢な体躯は風が吹けば吹き飛んでしまうかのように儚い。身長は洋介より頭ひとつ以上小さく、百五十センチ程度だろう。
――菅原文香。特別進学コースの令嬢の名は、本人の望まないところで校内を一人歩きしている。
女子生徒たちは雑談を再開したが、クラスに異物が紛れ込んだ違和感を払拭するには至っていないらしく、再始動した会話の歯車は全く噛みあっていない。
男子は特に反応していない。もっとも、その理由はもともと女子との間に溝があるから、というところが大きく、興味深々といった様子でちらちらと文香の方を伺っている者もいる。
蝋人形、あるいは亡霊。彼女につけられたあだ名を思い出しながら、洋介は苦笑する。劣等感丸出しの女子が考え付きそうな品の無いニックネームだと思ったからだ。好みは人によってあるだろうが、控えめに言っても美しい容姿だった。むしろ個人の好みに委ねることでしか、その容姿から欠点を探し出すことはできないだろう。それに加え、一組の生徒であること――また、幸鳳学園の運営母体となっている企業の社長令嬢であるとという噂が、彼女を孤立させていた。
「何してるの?」
抑揚の少ない小さな声で、少女が洋介に声をかける。
「何もしてません」
洋介は普通に返事をした。容姿が良かろうが、頭が良かろうが、金があろうが、目の前の少女は一介の高校生でしかない。何よりも、文香は洋介と同じライトガン部の部員――マネージャーだった。特進の生徒で部活をしている生徒はほんの一握りらしいとは聞いていたが、駄目元で勧誘したら入部してくれたのだ。
「そう」
面白みのない返答に文香が微笑む。洋介は何が面白かったのかと思案を巡らすが、答えは見つからない。
「強いて言うなら定点観測です」
実際、洋介は暇さえあれば携帯で樹木の写真を撮っていた。それも、必ず同じ風景を同じ場所から撮影する。図鑑に載っているような春夏秋冬の大雑把な変化ではなく、細かく移り変わる木々の表情を見ることが好きだった。
「へえ。じゃあ席替えが無いと良いね」
「そうですね。最後列の窓際ほどいい席はないですよ」
「窓際族は出世できないよ」
「この風景が眺めたいからあえて出世コースから外れるんです」
どちらかと言えば口下手な洋介だったが、この少女との会話はいつも調子良く進んだ。野球と銃と自然と趣味は多彩ではあるものの、それについて語り始めると饒舌になり引かれがちになるので、話し相手が話題を振ってくれると言うのは好都合だった。
周囲の目を無視してとりとめもない話を続けている脇で、クラスメイトたちがポツポツと立ち去っていく。
「ねえ、洋介君」
「なんでしょうか」
いつの間にかファーストネームで呼ばれている事に気がついたが、付き合っていると噂を立てられていることも含めてどうでもいいことだと思った。どうせ七十五日もすれば誰もが気に留めなくなることだろう。
「アドバイス通り話しかけたら、結構相手にしてくれた」
「それは良かった」
先般、洋介は文香にクラスメイトに対して自分から話しかけてみてはどうか、とアドバイスをしていた。文香は自分から話しかけることが少ないと感じたからだ。
コンプレックスと同化意識の塊のような普通科の生徒ならともかく、特進の生徒ならば文香を敵視しないのではないかという読みは、どうやら的筈れではなかったらしい。
「そうだね。ありがとう、洋介君。君はヒーローだ」
そういって文香はまた微笑んだ。何がヒーローなのかと考えるが、答えは出ない。
去り行く背中を目で追っていると、
「あ」
途中で文香が振り返る。長い黒髪が、ふわりと円を描くように翻った。
「あんまり気にしない方が良いよ」
それだけ言って、文香は静かに教室を後にする。
「……」
最後の言葉の意味は完全に理解することができたが、実行することは難しかった。洋介の頭にショットガンで撃たれる瞬間の映像がフラッシュバックする。
心に穿たれた小さな黒点が静かに広がってゆくのを感じていた。しかし今は先程よりもその勢いが弱まっている。その事実に気づいて、洋介は心の中で文香に礼を述べる。
ふと、肩を壊して野球を辞めた時も友人に救われた事を思い出す。一人で悶々としているだけではいけないと、気合いを入れて立ちあがる。そろそろ部活のメンバーが集まり始める時間だろう。机の下で握り締めていた拳を解いて、また握る。幼児の手遊びに似たそれは幼い頃からの癖だった。
「行こう」
洋介は憂いの表情を掻き消すと、机の右側に吊っていたボストンバックを肩に掛けて教室を飛び出した。