chapter 0 Game Over -幕引き-
頭上には曇天の空がある。漏れる光もないほど密集した雲の下、晩秋の風が少年の体に染み渡った。
視線を下げた少年の眼前には塹壕の壁。その先には、葉を散らしてしまった細い木や、申し訳程度に生えるぺんぺん草が散見される。遮蔽物として設置されたドラム缶は、野ざらしにされたせいで錆だらけになっており、もはやただの廃棄物であると言えた。
少年の隣には、一人の少女がいた。塹壕の縁から顔を出して、敵陣の方を伺っている。せわしなく顔を動かす様は、どこか小動物に似た愛嬌がある。
「沙知、撮影今日だったんだろ。わざわざ出てこなくても良かったんじゃないか」
遼太郎の言葉に沙知が笑って答える。何を思ったか、ぴょんと飛び跳ねて遼太郎に抱きついた。少しよろめいた遼太郎が、躊躇いがちに沙知の体を押し返す。
「よせって」
「いいでしょ、最近忙しくて、あえてないし……もう辞めようかな、芸能界なんて」
「悪魔に魂を売ってもなってやるとか言ってなかったか?」
「うん……そんなことも、言ってたけどね。なんだろ。あんまり面白くないというか、さ」
ふぅ、とため息をついて地面に腰掛ける。落ち着きのない彼女だが、ここ最近のハードスケジュールを聞くに、疲労が溜まってるのであろうことは容易に予想できた。
「大物だな。子役から始めてここ二年は売れっぱなし、すげえ経歴じゃねえか」
「ううん、りょうちゃんのほうがずっと凄いよ。……新聞配達、大変じゃない?」
「慣れたよ。沙知がルートを割り出してくれたお陰で随分ラクしてる。毎朝、前野の爺さんと世間話をする余裕があるぐらいだ」
「凄いなあ」
「天才子役と比べたら、底辺もいいところじゃねえか」
「……ごめん」
「責めちゃねえ。すぐ謝るの、やめた方がいい。……まあ、進退も含めて、お前がやりたいようにやるのが一番だろ」
「りょうちゃんは、自分のやりたいようにできてる?」
「さてね、どうだか。最近は死にたくなることはなくなった分、マシだ」
「そうだよね。昔より、お話してくれるもの」
「なこた、どうでもいいだろ」
パァン、と試合開始を告げる号砲がなった。沙知はグレネードランチャーを、遼太郎はショットガンを、足元から拾い上げる。それとほぼ同時に寒風が塹壕を吹き抜けていった。沙知は体を抱くようにして、塹壕の壁にもたれかかった。
「うー……寒いねえ」
「こんな時期に屋外フィールドって、何考えてるんだって話だよな」
荒野を睨み、愛銃のスパス12をしっかり構える。動きの少ないディフェンダーはアタッカーに比べてウォーミングアップが難しかった。トリガーを引けるように薄手の手袋を選択していたが、手の甲が冷えるのとは対照的に、手の平はじっとりと汗ばんでいた。
不動のまま数分の時が過ぎる。
隣の彼女が期待を込めてこちらを見つめてくる。何か話のネタはないかと思案するが、バイトと勉強とトレーニングのほかには何もない日々の生活には、沙知を楽しませることのできる華やかさは存在していなかった。
『坂上がそっちに行くぞッ!』
「了解」
サカガミ。舌の上でその単語を転がしながら、遠くであがる炎の方へ目を向ける。
曰く、ライトニング・シューター。電撃のように野を駆ける、投手あがりのアタッカー。しかし遼太郎に取ってみれば、塹壕の上を飛び越えるなど動く的もいいところである。
五十メートルほど先のドラム缶から坂上洋介が飛び出した。一瞬遅れて、後から少女がついてくる。素早くショットガンを向けた遼太郎は、塹壕から頭と銃口だけ出して敵の方へと撒き散らした。洋介らしき影のとなりで、少女のヒット・ブザーが鳴った。
「ざまみろ」
素早くポンプ・アクションを行って次弾を撃ち放つ。岩陰に潜む洋介の影が動いた。背後から沙知のグレネード・ランチャーが放物線を描いて、洋介の頭上を狙って一発が爆発した。
滑りながら地面に伏せて、並べられたタイヤの後方へと身を隠した。間髪入れずに駆けてくる洋介に、遼太郎の散弾が牙を剥く。
想像以上のスピードに舌打ちを一つした。すでに二者の距離は十メートルほどに詰まってしまい、散弾が有効に散らばる距離とは言いがたかった。アサルトライフルのように連射もできない分、この距離での競り合いは不利だった。
沙知の次弾を待たずして洋介が飛び出した。反対に遼太郎は身を屈め、塹壕の上を跳ねる一瞬を狙って銃口を上方向にする。跳躍したと判断してトリガーを引き絞った時には、洋介が沙知の真上にいた。
踏切が早すぎたのか、塹壕のフチに届いたのは片足だけだったらしい。もう片足は、中腰の沙知の背中の上だ。
――悲鳴が、聞こえた。
聞いたこともないような絶叫に驚いてショットガンを取り落とす。振り向いてみれば、自分の左後方で沙知がうずくまっていた。
続く銃声。フラッグの方へと走っていった洋介が、後方確認もせずにアサルトライフルの弾をばらまいたのだ。
状況の判断が送れる中で、耳をつんざくような悲鳴だけが聞こえてくる。うずくまる沙知の側に屈んで見るも、何をどうすればいいのか分からない。
「い、……っちゃ、だめ……」
「サチッ!! 救急車! クソッ……!」
無線機に叫ぶ。先ほどの射撃で撃ち抜かれていたため、機能を失っていたが、それも思い出せない。跳ねるように塹壕を飛び出した遼太郎は、左手に握っていたショットガンを投げ捨てた。
岩に当たった銃が、鈍い音を立てて地面を転がっていった。