chapter 23 毒蛇
敵がいない。
言葉そのものだけを考えてみれば悪い意味ではないだろう。だが、奇襲に成功したにも関わらず、第二波を仕掛けてこない相手に違和感を覚えずにはいられなかった。塹壕戦を仕掛けてくる気ならばこちらから攻めてしまえばいいと――頭の中ではそう考えてはいるものの、進言できるようなアイデアとは言えないだろう。だからただ、地面を這いつくばりながら息を殺していた。
目の前には十メートル四方ほどの草地が広がっている。林の中では見通しがきく場所であり、音の通りもいいだろう。しかし一発の銃声すら聞こえてくることはない。
『部長、今どこにいますか』
『樋山さんと一緒に中央ラインあたりで待機しています』
『瀬谷先輩は』
『右側、自陣から三百五十メートルぐらい進攻したところ。不思議と敵は少ない感じ』
『……やはり、右側から責めるのが良さそうですね』
秋菜は一人で行動していたにも関わらず、敵に攻撃されることはなかった。洋介は右サイドは空いているのではないかという思いを強くする。
『五人合流できればそれなりにやれそうですね』
『そううまくいくかあ? 俺は奇襲が怖くてしようがねえよ』
泰久の提案に和彦が疑問の声をあげる。確かに奇襲はあった。完全な「防戦」ではないことは容易に予想されたが、それでも敵の動きがないことから察するに防戦気味のスタイルを取っているであろうことは間違いなかった。
『……二人と三人に分けましょう』
文香が静かに提案する。
『手薄ではないでしょうか』
『五人から一箇所というのは対応力に欠ける気がします。どちらにしろ、誰かが敵の目を引かないと難しいと思ったので』
『瀬谷さんと大崎先輩、檜山先輩が合流して右サイドに。洋介君と服部先輩は中央へ』
「全体的に右に移動ってことか」
『敵のディフェンダーは左サイドに集中してる気がしています。部長の方を襲った敵は一人だけど、坂上君たちの方には三人も来ていましたし』
「オーケー了解。それで、右サイドにいったらどうする?」
和彦の声に文香は間髪いれず答えた。
『私たちから見て右側の塹壕に潜り込みます』
「右、としたのは瀬谷さんが敵に遭遇していないからですか?」
『はい。瀬谷さんが敵と遭遇していないのは恐らく偶然ではありません。多分、彼らは私たちから見て左側に戦力を集中させている』
「何か理由があるの?」
『敵は襲ってきたけど意外と早く引き下がったので。多分、背後に味方がいたと思うんです。ちょっかいを出すだけにしてはしつこかったですし、私は背後の安全を確信した上で、倒せたら倒してしまうぐらいの気持ちでいったんじゃないかと思っています。だから左サイドは危険ではないでしょうか。右サイドが安全という確証はないですが、わざわざ右にまで味方ディフェンダーを散らして配置する意味は薄い気がするんです。仮に配置していたとしても右に偏っているということはまずないはずです。それを踏まえて、三人なら突破できるかと』
「ほーお、すげえなぁ、菅原。ヤスは納得いくのか?」
『僭越ながら僕の読みとほぼ同じです。檜山さんがグレネードランチャーを十分に持っている。なるべく敵から距離を置いて爆撃したい。カズヒコと坂上君が隙を作ってくれれば、三人で入れこめる確立は高いですからね』
文香の読みに感心した。五百メートルも離れた場所のことなのに、実際に交戦をした洋介たちよりも遥かに正確に敵の配置を理解している。その一方で情けなさも感じていた。文香や泰久に言われてみれば頭の中に敵の配置を描けるが、言われなければ何も分からない。敵に出会ったという情報を、相手の配置に結び付けて考察できていなかった。
「うまくいけば、そのまま制圧できるかもな」
素直に納得した調子で和彦が呟く。
『……どちらにせよ、時間がたっぷりあるわけではないですし。決める事は狙わなくても、敵を追い立ててもらえれば』
「追い立てる? 追い詰めるんじゃないのか?」
『敵は多分、私たちが右から攻めたら左サイドから私たちの陣地を攻めてくるはずです』
「何だって?」
『防戦だけで時間稼ぎが出来るほど幸鳳が弱くない事は分かってるはずなのに敵は篭城を選んできた。でも、もし攻勢に転じる気があるとするならおかしなことではない。だからそっちにディフェンダーが裂きたくないですが……』
『なるほど。敵が飛び出していったときにディフェンダーが少ないのはマズいですね』
「敵がもし動かない――つまり完全に篭城する気なら、爆発物で徹底的に叩いてもらえれば。包囲するような体勢が整ったときは、ディフェンダーを何人か向かわせます」
「了解した」
『了解』
五つの返事を聞いて、文香の声が止まる。
『それでは、行動を開始してください』
洋介は和彦と共に敵陣衛の方へと歩を進める。先ほど逃げ帰ってきた右側ではなく、今回は中央だ。
但し、このラインにも泰久たちが敵を取り逃している。それを考えると余り気の進むルートではなかった。
『背後に気をつけて』
「ああ。もう遅れはとらないさ」
洋介は返事をしながら、先ほど対応できなかった事を疑問に思い始める。どうしてあれほどまで簡単に後ろを取られたのだろうか。
『……でも、まともに隠れてるだけだったのなら、洋介君たちが気づかないはずがないと思う。何らか別の手段で隠密行動をとっているとしか――』
別の方法とは何か。背後の和彦に視線を送ろうとして――
自分の右手側に襲撃者を目にする。
喉が千切れそうなほど全力で声を上げる。一瞬で状況を理解した和彦が地面に伏せ、そのまま横に転がって射線を空ける。反応の遅れた敵の顔面に洋介の弾丸が浴びせかけられる。和彦も伏射の姿勢をとってミニミを連射した。
「どこにいやがる……!」
和彦の叫び声が聞こえてくる。二人で百八十度ずつ、三百六十度を警戒して歩いてきたのにも関わらず、またもや背後からの襲撃だった。
ピンを抜いた手榴弾をほぼ手首のスナップだけで後方に投げつける。背中合わせで周囲を警戒しなければいけない以上、互いに相手の援護を期待することはできない。つまり攻め手が激減する。
遠くで草が揺れる。姿を現さない敵に和彦がミニミで牽制を仕掛ける。苛立ちが募っているのは洋介にも伝わってきたが、それでも和彦はしっかりと残弾を管理しつつ弾を撒いていた。
「っち……逃がしたか」
木の幹に遮られた視界は、前方五十メートル先の対照を補足するのは不可能だ。
「どうする指揮官。ラチがあかないぜ。どうやらヤツラは籠城と奇襲をミックスしてるみたいだ」
和彦が無線機に告げる。
『……二人が補足できないほどなんですか?』
「ああ、理由はわからねえけどな」
文香の疑問も当然だった。洋介も和彦も、幸鳳屈指の万能アタッカーだ。本来なら二人がかりで奇襲に対応できないほど柔ではない。両側に注意を払ってる上、隠れられそうな場所はすべてチェックしながらの行軍にも関わらず、敵は降って湧いたようにに出現する。極めつけに、銃声がするが敵の姿が見えないのだ。洋介は耳だけを頼りにM16のトリガーを引くが、ブザー音は聞こえてこない。
『大丈夫ですか』
「大丈夫じゃねえ」
和彦が荒い呼吸で無線機にそう伝える。
またも二人の側面を叩くように銃撃が始まった。和彦の左手からブザーが鳴る。一瞬でミニミを投げ捨ててハンドガンで応戦――するより早く、敵はその姿を消す。
「このゲリラ野郎が! ヤス! 早く合流してくれ!」
『合流しました! これより敵の右側の塹壕を制圧します』
「急いでくれよ!」
和彦から悲鳴のような声があがる。
発砲音。どこからか分からなかった。
少なくとも自分たちを取り囲むように二人の敵がいた。
警戒は完璧だったはずが、敵と出会うときはそのことごとくが奇襲。
このままの拮抗状態では近く数秒後に敗北するだろう。
ならばどうするか。
一瞬だけ視界が霞み、後に晴れる。赤く、どこまでも赤く晴れ渡った森と空が洋介の世界を埋めた。脳内にドキュメンタリー映画で見た戦場を描き出す。
汚れた世界の中で、洋介は不測事態の連打で霧散していた集中力を取り戻す。
頭に浮かんだものは試合前にダークイーグルのメンバーが着ていた迷彩服。あの黒さが、森の陰を意識して作られたものだとしたら。
洋介は視認できないほど暗い「陰」の部分に銃弾を放っていく。見えてはいないし、聞こえてもいないが――感じていた。
ヒットブザーが鳴り響いた場所に三発のM16を叩き込む。洋介の異変に気づいたのか、和彦は足を止めて口を閉じる。
もう一人の姿は、探すまでも無く――草を揺らす足音がする一地点。姿は無いが、音の死んだ森で強烈な存在感を放っていた。トリガーを引いて三連射を狙うが、相手からブザーは鳴らなかった。
背後で和彦のミニミが唸りを上げる。片手の状態でのフルバーストが森を引き裂いた。敵はミニミの弾幕のせいで足を止めざるをえなくなる。刹那、洋介の手榴弾が敵が隠れた木の裏側へと転がり――炸裂した。
「二人やったぞ!」
和彦が洋介の代わりに叫ぶ。
この人数差ならこちらも篭城戦に回ったほうが無難だと考えた洋介だったが、
『奇襲が――仕方ない、もう出ますよ!』。
泰久の声がして無線機が途切れる。耳を済ませれば敵陣の方で爆発音が響いている。
もう爆撃が始まっていた。ライフル、ライトマシンガン、グレネード――断続的に聞こえる発砲音と破裂音とが予想以上の火力を如実にあらわしていた。
「速く行け馬鹿野郎!」
和彦の声で思考を止める。
全力疾走で敵陣の方へ駆けて行く。流れていく景色の中に見えた敵の銃口は、しかし一陣の風となった洋介を捉えるには至らない。
塹壕がもうすぐ見えるというところで、フラグの方へ手榴弾を思いきり放り投げる。敵の頭上で激しい爆発、一瞬見えた大柄のディフェンダーに向けてグレネードランチャーの一発を叩き込んだ。
視界の右隅で味方が塹壕の方に走っていく姿を捉える。スナイパーライフルとライトマシンガンの銃声は相変わらず聞こえているが、爆発騒ぎのせいでその勢いは衰えていた。
洋介はそのままの勢いで塹壕の方へと突き進む。このまま三つの塹壕を飛び越えて、強引にフラッグへ――
「――サカガミイィッっ!! 前だッ!!」
『下がって!』
相反する二つの叫び声が洋介の思考をシェイクする。それでも一瞬で指揮官である少女の声を聞き分けて、大きく後ろへ飛び退さり、木陰へと転がり込んだ。
爆音。ガスが噴射するような音。続いて金属が擦れる音が洋介の耳に突き刺さる。二発三発と軽快とぶっ放される不可視の弾を、近場の木を盾にして回避する。
アサルトライフルやハンドガンとは違う、腹の底に響く重い音。なんとか立ち上がってM16を構え、頭だけを後ろに向けて敵の姿を確認した。
長く、重く、黒く光る。押し出しの強いスタイル、煩わしく騒がしいリロード音のショットガン、スパス12。
整列時に感じた圧倒的な威圧感。一瞬怯んだ洋介の足元で、12ゲージの弾が爆ぜる。
「小堀!」
自分でもなぜ彼の名前を知っているのか、どうしてその名を叫んだのかは理解できなかった。そして呼ばれた少年の、憎悪と憤怒の籠もった眼光が洋介を射貫く。
M16で牽制しながら岩場の陰へ逃れようと試みるが、隠れきる前に吐き散らされる散弾がM16の砲身に引っかかった。
絶望を告げる音がする。普通の銃弾なら「銃身」に命中することなど有り得ないが、飛び散る散弾なら話は別だ。
「お前、本当にそんなもんなのか」
洋介は混乱していた。ただ一つ、相手もどうやら自分との面識があるらしいということだけを理解する。
左方向にグレネードランチャーが一発飛んでくる。回避しようと木々へと動く間にショットガンの破片でブザーが鳴る。だがまだ退場判定は取られないし、手足も正常なままだった。
どうすればこの現状を打開できるのか。
一対一の状況でここまで追い詰められたのはこれが初めてだった。
そして、これほどまでの憎悪と怨嗟をぶつけられることも、人生で初めての経験だった。
洋介は戦闘行動以外の思考を停止する。味方がどうなっているのか分からないが、銃撃戦が続いているということはまだ生きているのだろうか。後退しながら散弾を防ぎ、ちらりと敵陣の右サイドを確認する。
「塹壕左サイド、吹き飛ばせッ!」
遼太郎が無線機に怒鳴り散らすと同時に、右サイドから手榴弾の爆発音が連続して聞こえてきた。五発六発の騒ぎではなく、十発や二十発という数の手榴弾が噴煙を噴き上げながら爆裂する。
そこまできてやっと、自分の視線が問題だったことに気がついた。下手すれば右側から攻めていた三人とも巻き込まれているだろう。反省や後悔の感情を捨てられたのは、目の前にたつ少年への恐怖が勝ったからに過ぎなかった。
洋介が逃げようと思えば爆発物を放り投げ、責めようと思えばショットガンを正確に撃ち込んできていた。攻め手には一分の隙も無い。無線機に手を伸ばそうとして、
「アアアアアアアアアアアアアアァぁ!」
遼太郎の叫び声がそれを引き裂いた。通信妨害のために意図的に叫んでいるのだと気づいている余裕もない。パニックに陥った頭が、徐々に正常な判断力を奪っていく。
ただただ、後退するしかなかった。
被弾覚悟で飛び込むという真似はショットガン相手には実行できない。近距離のショットガンほどさばくのが難しい武器はないのだ。爆発物と違い自らを巻き込むこともなく、散弾が全て体に当たるようなことになれば一撃で退場、それに加えて長物にも関わらず室内戦向けと言われるだけの取り回しの良さがある。
先ほどの広い草地に出たあたりで、ぬかるみに足を取られて横転する。それでもなんとか岩陰へと潜り込んだが、M16は右手から離れていった。遼太郎のショットガンが、宙を舞うM16を打ち抜いた。
これで得物は消えた。
スナイパーがいればと考える。もしこの瞬間、未だ姿を現さない駿が現れてくれるとしたら――
ちらちらと木から顔を出しつつ遼太郎の様子を伺うが、遼太郎は洋介が抜いたM60など眼中に無いといった様子で悠然とリロードをする。
「鮫島はこねえよ」
遼太郎の言葉がまとまりかけていた思考に揺さぶりをかける。
「……どういう意味だ?」
「試合前に急に高熱が出たのがおかしいと思わなかったのか? 三十九度もある熱が引くわけがないだろうが」
「どうしてそれを……」
「もういい」
遼太郎が洋介の言葉を遮る。ぞっとするほど冷たい声に自分の無知を糾弾されているようだった。
「失せろサカガミ」
遼太郎がショットガンを三連射して洋介のいる方へ突っ込んでくる。M60を向けるより早く牽制の一発がその動きを封じる。
相当頭にきているらしいことは洋介にも理解できた。それでも冷静さを失っている訳ではないらしく、強引に責めるような真似はしない。
洋介は伏せたまま地面を転がって強引に回避するが、避けきれず一発が腕のブザーを鳴らす。まだ負傷判定は取られていないと判断している暇もなく二発目。
M60で反撃はしているものの、もう弾が切れかけていた。洋介は今ばかりは自分の選択を呪う――せめて、もっと装弾数の多い銃であれば。
遼太郎が飛び上がり、目の前の木の枝を掴んで洋介の頭上から一発、そのまま遠心力で体を振って洋介の反撃より早く地面に着地する。
人にあらざる化け物じみた動きに圧倒されれながら、洋介はただただ避け続ける。木を盾に、岩を盾に、散弾に体を抉られないよう、最小限の動きで遮蔽物を盾にする。
ブザーはいたるところで鳴っているが、まだ負傷判定は取られていない。この距離でのショットガンに一発の威力は無いが、このまま散弾を受け続けていればいずれ四肢のどこかが使えなくなる。
遼太郎の腕は確かだった。たとえ疲労の無い状態から始めても、十メートル前後の距離では自分よりも格上の相手であろうことは予想できた。
『敵が――』
『早く、アタッカー――』
無線機から文香たち味方ディフェンダーの声が聞こえてくる。文香の読みどおり、遼太郎はディフェンダーを攻撃に出したらしい。
遼太郎の方から手榴弾が飛来してきた。洋介は側の木を盾にして爆風を防いだ。
いったい何発の弾薬を携行しているというのだろうか。無尽蔵にも感じられる体力はおおよそ人間じみてはいない。さらに続けて手榴弾が洋介の背後に投げつけられる。逃げ場はない。閉塞状況が続いている。
「……はぁ、っ……ガ……」
酸素不足で肺が軋む。喉にはただ血の味が広がっていき、視界も徐々に白い靄がかかったように狭まっていく。
遼太郎が洋介の足元にスパスを撃ちこんだ。
目に見えない散弾を回避するために洋介は大きくバックステップを踏む。
無傷の遼太郎を残したまま退場することだけはなんとしても避けたかった。
引き下がったあたりの草の密集地帯に散弾が飛散した。よろめきながらも次なる木を盾にする。
遼太郎は冷静に、洋介の体を自分の領域に縫い付けるようにして追い立てる。
「ワルキューレ無しはキツいかよ、ジークフリード」
何か返事がしたかったが、もはや言葉も出なかった。
十歩に迫る距離。M60の残弾はたったの一発。
洋介は迫り来る「死」を確かに感じ取っていた。