chapter 19 憎悪
夕日が沈みかけた土手を駆ける少年が一人いた。
ライトガンセンターの帰りは、自宅方面まで七キロ程度の道を走破するのが常であった。ショットガンと制服、教科書の詰め合わせを背負っているのにも関わらず、その駿足でもって土手を走るランナーたちをごぼう抜きにしてゆく。
新聞配達のアルバイトも含めれば、一日に二十キロ走ることも珍しくない。陸上の都大会は面倒という理由で蹴っていたが、三千メートル・五千メートルともに大会記録を塗り替えるだけの実力を持っている。
川岸の方に目をやれば、数年前までは大量に生えていたススキは駆逐され、セイタカアワダチソウが毒々しい黄色を放っていた。様変わりしていく土手の景色を睨み、グズつき始めた空に舌打ちを一つした。
二十分もかからずに自分の街に辿り着く。おちぶれたラーメン屋と、パチンコ屋から流れてくる軍歌に顔を顰める。アスファルトで固められた道路には吐き捨てられたガムが散り、電信柱の側ではカラスが生ゴミをついばんでいた。
駅前を抜けて住宅街の方へと走る。駅から五百メートルほど離れたその一帯は、自分が住んでいる場所とは違い、治安もマシで地下も高かった。
「……」
建て売りの小さな一軒家が目の前にあった。随分前に立てられた物件ではあるようだが、庭はよく手入れされており、外壁の塗装も塗りなおしたらしいクリーム色が映えている。
遼太郎は躊躇いがちにインターホンを押す。
「あ、遼太郎君ね。サチー! 遼太郎君が来たわよ!」
陽気に笑いながら出迎えてくれた中年女性――会いに来た少女の母親に頭を下げながら、遼太郎は靴を脱いで廊下に足を踏み入れた。
「失礼します」
静かに廊下を歩いていく。勝手知ったる従妹に会うだけだというのに、遼太郎の足取りは鉄球を引き摺っているかのように重い。
ドアの前でまた足が止まる。今まで千回は回してきたドアノブを、今日も同じように回すだけだ。たったそれだけの動作ではあるものの、遼太郎にとってはどんなトレーニングよりも過酷な試練だった。
「こんにちは、りょうちゃん」
少女――安藤沙知がベットから起き上がる。
肩ほどまで伸びた黒い髪が揺れた。耳にかかるあたりの髪を小さく三つ編みにしているのは、出会ったころから一貫している。
意思の強そうな瞳。以前より白みの増した肌が、触れがたい空気を強くしている。高校生とは思えないバストサイズにも関わらず、薄いシャツ一枚しか羽織っていない姿は目のやり場をなくさせた。
歌って踊れる天才子役。公共放送の連続ドラマに始まり、一時はバラエティ番組なんかにも顔を出していたらしい。テレビを見なかった遼太郎は当時の活躍を知らないが、言われてみれば思い当たる節もあった。
「寝てたか」
「うとうとしてたら寝ちゃってた。危ないとは思いつつも……」
沙知は照れ隠しのように頭を掻く。周囲の評価に関係なく――素朴な少女だと、遼太郎は思っている。
「なんかりょうちゃん、最近一段と筋肉質になったねぇ」
「……おかしいか」
「ううん。格好いいよ」
遼太郎は沙知の背中と、膝の裏に手をいれると、いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢で彼女を腕に抱えた。
下半身不随の彼女は、「褥創」と呼ばれる状態――皮膚細胞の壊死の危機に常に晒されている。感覚がないため、長時間同じ体勢でいても「痺れる」事に気づかない。それゆえに、血液が迫されて詰まっている事を意識できず、細胞の壊死に繋がる。もっとも、両腕を使って器用に態勢を変えているため、よほどのことがない限りはそういう事態にはならないだろう。それでもいつの日か、「持ち上げて」と頼まれて以来、遼太郎は会うたびにこうして少女の体を持ち上げている。
会話が途切れた。それと同時に遼太郎の思考が悪い方へと流れていく。
きっかけはただの事故だった。
杉山綾乃と坂上洋介という二人の中学生がヴァルハラというチームに入り、もともといた二人はレギュラーの座を失った。同好会を結成してヴァルハラに挑んだ試合で坂上洋介が塹壕を飛び越えたとき、安藤沙知という少女の背中を踏みつけた。彼女は運悪く脊髄を損傷し、下半身麻痺になった。
説明には原稿用紙一枚もかからないし、感想にはたった十文字もいらないだろう。誰かに話したところで「それはお気の毒に」という返事をされるだけだ。
だが小堀遼太郎にとっては違う。
彼女を巻き込んでしまったという罪悪感と、その事実を知らされてすらいない洋介への憎悪と――抱いている感情は非常に分かりやすいものだが、それを解決する術が見当たらない。故に、閉塞する。
「なんかそればっかりだよりょうちゃん。もう、思い出さなくていいんじゃないかな」
「そうだな」
沙知はまるで遼太郎の全てを知っているようだった。それに反して遼太郎は、沙知が何を考えているのか分からない。いや、なぜそう考えられるのか、わからない。
沙知は踏まれたという事実を洋介に伝える事を拒んだ。脊髄の怪我がどれだけの痛みを伴うのかは遼太郎には分からないが、悲鳴を上げながらも、洋介には伝えるなと――救急車に運ばれていく中でも、それだけを遼太郎に伝えたのだ。
理由は簡単だ。脊髄損傷をさせたとなれば、それをした側が受ける精神的なダメージは半端なものではないだろう。坂上洋介という人間とは何度も相対したわけではないが、芯が強そうには見えなかった。何より彼は野球で肩を壊してライトガンに転身した直後であり、そんなことがあればまた掴んだものを失ったのだろう。何よりライトガンという競技の安全性も問われ、下手をすれば競技そのものが公には認められなくなってしまうかもしれない。
だがなんだというのだ。
坂上洋介の存在が、あるいはライトガンという競技の存在が沙知を傷つけたんだと叫びたい気持ちがあった。チームに入っていざ始めようとしたところ、沙知のレギュラーを奪われ――そしてその人生そのものに傷をつけられて。
しかし本当にそうだろうか。
――ディフェンダーの自分が坂上洋介を倒す事が出来ていたとすれば。
――沙知の塹壕に飛び込んでくる前に自分のショットガンで打ち倒すことができていたとすれば。
あるいは、彼女は――
「りょうちゃん、凄く怖い顔してるよ。笑えるくらい」
「そうだな」
「駄目だよ、楽しくやらないと。試合はどう? 調子いい?」
遼太郎が沙知を助けたいと思う気持ちとは裏腹に、沙知が遼太郎のことを助けていた。自分の弱さに打ちひしがれながら、少女への罪の意識だけが胸中で渦を巻く。
「ああ」
「さっすがりょうちゃん。何か出来ることがあったらガンガンどうぞ」
いっそなじってくれればと遼太郎はいつも思っている。アンタがちゃんとやってくれれば私は、と。もしくは沙知の両親が、お前が誘ったから私の娘はこうなったんだと――そういってくれれば。
しかし沙知本人も、その家族もそんなことは一言も言わなかった。
遼太郎は沙知の体を静かにベッドに降ろそうとする。沙知が首を振って、傍らの車椅子を指差した。指示されたとおりに車椅子に優しく座らせた。沙知は車椅子を軽々と操って、ベッドの側においてあったダンボールから箱を取り出して持ってくる。
「これを渡したくて」
重み、形、大きさ。まごうことなく内容はライトガンである。
「開けていいよ」
開けた箱の中に入っていた銃は、
――タウルス・ザ・ジャッジ。
散弾が撃てるリボルバーだった。忘れもしない。沙知が怪我をした日の朝、フィールドに向かうバスの中で自分が語った銃なのだから。
遼太郎はその日の出来事を全て鮮明に覚えている。
「あれ……気に入らなかった?」
「いや、これ……結構高かっただろ」
ライトガンは遼太郎の金銭感覚からすると高い。リボルバーだから十万円はしなくとも、五万円はくだらないだろう。遼太郎が使っているショットガンも、ためてきた小遣いやお年玉からやっとのことで捻出して買った中古品である。
中高生がそう簡単に買えるものではない。幸鳳学園のような私立高校に通う余裕のある家ならば別かもしれないが、多くの学生達は金がないために悪質な銃で勝負を強いられているという現実があった。
沙知は自分よりは裕福だろう。とは言っても、こんな街に住まざるを得ないのが現状だ。生活に余裕があるとは思えなかった。
「吊ってみようか」
沙知はホルスターを手にとると、遼太郎の腰い手馴れた手つきで取り付けた。
遼太郎は付けた貰ったホルスターにザ・ジャッジを収める。
「お、良い感じ。かっこいいよ」
サチはパチパチと手を叩いていて笑っていたが、遼太郎の異変に気づいたのかその手を止める。
「りょうちゃん……?」
「いや……」
遼太郎は首を振って手で顔を抑えるが、指の隙間から流れ落ちていくものを止める事ができなかった。
嬉しいだけで悲しくはない。
妬ましくもないし、悔しくもなく、苦しくもなかった。
ただ憎かった。
小堀遼太郎も、坂上洋介も、何もかも。
その理由は遼太郎にも分からない。
「審判」という名の銃が、蛍光灯の明かりに反射して黒く輝いていた。