chapter 8 斜陽
さらに二回の模擬演習を重ね、全ての片付けが終わったころには日が随分と沈み込んでいた。
ディフェンダーを充実させようとすればアタッカーが崩れ、両方を成り立たせようとしても陣形のどこかに穴が開く。何かを強化すれば何かが弱体化するのは仕方がない――部員達を包んでいたのはそんなあきらめムードだった。
手早く着替えを済ませた洋介は、一人部室に残って活動記録を記入する。活動記録欄に今日の練習内容を一通り書き終えて外に出ると、暗い校庭の端で文香が佇んでいた。花壇の方を静かに見つめているその姿は、朴念仁の洋介にさえ可愛いと思わせるだけの華があった。
「菅原さん、すいません。遅くなってしまいました」
呼びかけの言葉に文香はむっとした顔をする。日誌に時間をかけ過ぎたかと洋介が反省していると、
「苗字は嫌いなの。菅原財閥の娘さんで理事長の七光りで入った菅原さん、良いご身分ですねってニュアンスを感じる」
抑揚の少ない声で流れるように話す文香の言葉に、洋介は内心苦笑した。すたすたと先に歩き出した文香を大股で追いながら声をかける。
「まーったく思っていませんが。じゃあ、どう呼べばいいんですか」
文香は人差し指を立てると、それを頬に当てて顔を少し傾けた。わざとらしい動作ではあるものの、この少女がすると可愛らしいく華がある。
「文香さん」
「……そんな仲でも」
女子を名前で呼ぶのは気が引けた。果たして十五年の人生の中で女子を名前で呼んだコトがあっただろうかと思案する。一人ぐらいはいたような気がするものの、ぱっとは思い浮かばない。
「文香さん」
表情は変わらないが有無を言わせぬ口調で繰り返す。
「……文香さん」
根負けした洋介が、渋い表情ながらも小声で名前を呼んだ。文香は口元に笑みを浮かべ、
「ふみちゃんって」
「いや……」
「ふみかって」
「……」
洋介は返答をしかねて頭の後ろを掻いた。レールに乗った校門をスライドさせながら背後を盗み見れば、文香は残念そうな顔をしてこちらを見つめていた。
鳳ヶ丘の駅から幸鳳学園までは、徒歩で十五分弱の距離がある。先日、洋介が駅に自転車置き場があればいいのにとぼやいたところ、文香が自宅の庭に止めて良いと申し出てくれたのだ。それからというもの、文香と一緒に下校して文香の家に自転車を置き、その後駅まで歩くというのが洋介の帰宅ルートだった。
「意外とノリが悪いね」
「同年代の女子と話たことがないんですよ」
「私なんて男子とも女子とも話たことが無いよ」
「……えっと」
「ごめん。でも不幸アピールをしたわけじゃないんだよ。別段不幸だとも思ってない」
「いいえ、そういう事ではなく。良く考えたら、俺も今まで男子ともしゃべってきてないな、と」
洋介は、幼いころから一人でいることが多かった。むしろそれを好んでいた節すらある。小学校に入ってからは野球のクラブに入ったが、今思い返してみればそこでも若干浮いていたように思う。練習が終わった後もすぐに帰るか一人で残って練習をしているかの二択ばかりで、六年間一緒にいたのにほとんど口をかわさなかった相手も少なくない。
「そうは見えないけれど。まあ、見える見えないなんて関係ないか」
歩き出した洋介に、文香は鳥の雛のようにちょこちょこと追従する。洋介の歩幅に合わせるのが難しいようで、加速と減速を繰り返しながら感覚を掴もうとしていた。
「どうでもいいかもしれないけど、外見で分かる情報なんてたかが知れてるのに、人は見た目が九割っていうのはちょっと非合理的だよね」
洋介は頷いて、そう思います、と答える。文香も得心したように頷いた。一見すると妖精か何かに見える目の前の少女は、こうして話していると間違いなく普通の高校生だった。
二人でくだらない話をしながら人通りもまばらな田舎臭い道を歩いていく。駅までの道には小さなコンビニがあるぐらいでひっそりとしており、高校設置に際して道沿いに備え付けられた街灯以外には光源も感じられない。この辺りに住んでいるのは戦前から住んでいるような高齢者か、もしくは文香が住んでいるあたりの高級住宅街の人間ぐらいのものだった。
五分ほど歩いたところで会話が途切れてしまい、洋介は思い悩む。隣に位るのが男子――例えば駿や泰久なら、今使ってるM16をできればM4カービン、欲を言うならxm8に取り替えたい、というような銃についての話や、最近巨人に入った気になる外国人選手について話すのだが、いかんせん女子向けの話題が少なかった。
とりあえず何か声をかけようと、勉強の調子でも訪ねるつもりで口を開いたとき、
「ねえ。ヨッケ君はどうして私から距離を置かないの」
洋介の言葉が発せられるより先に、文香がポツリと呟いた。
「置いてどうするんですか」
洋介は心底不思議そうな顔をする。
「みんな、私には置いてるから」
「そうですか? 少なくともライトガン部内ではそんなことないと思いますけど。多分嫉妬してるんじゃないでしょうか」
一応、「多分」と言うふうに頭につけてみたものの、他の生徒たちが文香から距離を置く理由の一位は、どう考えても嫉妬だろう。自分たちより綺麗だから。自分たちより頭がいいから。自分たちより金持ちだから。洋介には理解できない発想だった。相手の能力に嫉妬していてどうするのだろう。固まって悪口を言っている暇があるのなら、努力をしてそれに勝る力を蓄えた方がよほど有益ではないだろうか。
「どこに? ちびで病弱だよ、私」
「ちびで病弱……僕はそう思いませんけどね。仮にそうだったとして、そういうところに嫉妬するんですよ。人間、特に女性は人から同情票を集めたい生き物ですから」
真顔のまま淡々と語る洋介の横顔に向けて、文香は、
「詳しいんだね。私はそういうの、良く分からないや」
「すいません適当に言っただけです。僕も全く分からない」
洋介は照れ隠しに頭を掻いた。
「ずーっと野球しかやってなかったもんで、女の人のことって、あんまりわからないんですよね」
この間、二人が一緒に帰っているところを目撃した駿は、初々しさを感じさせない洋介のことをプレイボーイと評していた。しかし実際のところは、ただ単に洋介が女子を女子と見れていないだけという部分が大きかった。
中学生時代に同じクラスの男子がアダルトビデオに入り浸っていた頃は、スパイアクション映画や戦争系のドキュメンタリーに凝っていたし、学校でそういう会話に花を咲かせていたクラスメイトに混ざるよりは、どちらかといえばオタクっぽい仲間と銃や軍隊についてのべっとりとした会話をしていることが多かった。同年代の男子はベッドの下に成人向けの本を隠しているらしいが、洋介のベッドの下には「世界の軍隊」とか「月刊ウェポンマガジン」のような雑誌と、五日分の非常食しかおいていない。
「あれ、野球やってたんだ。もう辞めちゃったの?」
「中二の時に肩を壊したんです。ライトガンを初めてからは全くやってないですね」
そういって洋介は笑う。文香は目を伏せて、ごめんなさい、と小声で謝った。
「いえ。おかげでライトガンを始められたんです。しかも随分と勉強したおかげで、幸鳳に受かりましたし」
後悔は全くないですよ、と締めくくり、続けて一つの質問を口にする。
「あの、文香さんは、ライトガンは好きですか?」
「え……うん、凄く面白いよ。私なんて大した仕事をしているわけじゃないんだけれど。みんな真剣だし、純粋だし、凄くいい部活だと思う」
突発的な質問にも文香はしっかりと答えを返す。洋介はそれを聞いて安心したとばかりに小さく息を吐く。
「実のところちょっと不安だったんです。文香さんを誘ったとき、少し強引だったんじゃないかって。興味もないものに巻き込んでしまったかと思ってて」
「ぜんぜんそんなこと思ってないよ。あのまま根暗文学少女をやってたら、もしかしたら高校をやめちゃったかもしれないし」
文香は笑いながら洋介に質問を返す。
「洋介君は、ライトガンが好きなの?」
「はい。とても」
文香の質問に対し、洋介は無邪気な笑顔で頷いた。その表情に文香は思わず目を逸らす。
「どうしました?」
「ううん。なんでもない」
文香が首を横に振り――そしてまた沈黙が訪れる。
駿なら簡単に盛り上げられるのだろうが、残念ながら洋介には彼のユーモアセンスの十分の一も備わっていなかった。芸が無いと思いつつも、同じような質問を返してみることにする。
「なんか質問タイムみたいで悪いですけど、一ついいですか」
「うん、なに?」
「どうして文香さんはそんなに僕の側にいるんですか?」
質問の仕方が悪かったと思い直し、洋介は慌てて訂正する。
「あぁいや、いたらイヤとかそういうのでは無くてですね。逆に、俺がイヤなんじゃないかって。なんというか、つまらないでしょ、俺」
右手をバタバタと動かす謎のジェスチャーがツボに嵌ったのか、文香が吹き出した。声をあげて笑いながら文香が口を開く。
「一緒にいると楽しいから、でいいかな」
文香の言葉に洋介は不思議そうな顔をする。
「初めて言われましたよ」
「今まではなんて言われたの?」
そういわれて洋介は考える。技術や技量について評価されることはあっても、性格や気質について何か言われたことがあっただろうか。
「あー」
洋介の記憶の中に一人の少女の顔が思い浮かんだ。忘れてたの、バカじゃないの、と記憶の中の少女が笑っている。
「間抜けなクソマジメ、と」
彼女から貰った評価を思い出した。その時は肩を壊して自殺まで考えていたのにも関わらず、その少女はそんなことは意に介さずにそういってのけた。
「酷いこという人だね、その人」
「そうですかね……? まあ、僕は間抜けですけどマジメじゃないですし……うーん」
記憶の中の少女に思いを巡らせる。射撃の的も、会話の的も――自分が狙ったものは何一つとして逃さないような、それでいて飄々とした雰囲気の人間だったと――そういう風に記憶している。
「友達?」
「幼馴染ですね。友達といえば友達です」
「ふーん」
文香の目が細められる。何かを見極めるようにじっと洋介の顔を見つめていた。何かあるのかと洋介は後ろを振り返るが、薄暗い空に雲に隠れた月が浮かんでいるぐらいのもので、特に面白いものがあるわけではなかった。
「女の子?」
「あれ、もしかして俺話したことありましたっけ?」
「ないけど」
「じゃあなんで分かったんです?」
「女の勘、かな」
そう言って文香は不機嫌そうに唇を突き出した。女の勘という言葉は幼馴染も良く使っていたが、そんなによく当たるのなら自分にも分けてほしいものだと思った。もしかしたら駿の狙撃が回避できるかも、などと考えてしまう。
「そうだ」
洋介は何かを思い出したように唐突に切り出した。
「あの、文香さん。ライトガン部に足りないもの、何だと思いますか」
「足りないもの?」
いつも戦績の処理をして、設置されたカメラで戦闘を確認している彼女ならば、何かアドバイスをくれるのではないかというふうに考えたのだ。
「ディフェンスが甘いとか、変にアタッカーを散らし過ぎているとか、アタッカーの独断専行が目立つとか……何かそういうのがあれば、教えてほしいんですけど」
「えーっと」
予期せぬ質問だったのか、文香が小さな手を顎に当てて悩み始める。うーん、と小さく唸ったあと、
「部長が指揮官の時はとにかく負傷者を戻してるけど、前線も味方陣営も手薄になってる気がする。交代して新しい戦力を投入するよりは、思い切って前衛後衛を分けてやるべき、かなあ」
文香は一度口を閉じるが、あと、と付け加えて話し始める
「一手目が明らかに後手だと次もどうしても後手になりがちに感じた。中央ラインは取りにいっちゃっていいんじゃないかなあ。あとはディフェンダーが重過ぎるような……」
既に随分な量の問題点を口にしていたが、それでも文香の喋りが止まる事はなかった。
爆発物をもっと増やすことで攻撃の効率化を。
スナイパーライフルの長射程をもっと生かすこと。
伝達を容易にするために用語を簡略化、または新規作成すること――
文香がはっとした表情で話を切った
「ごめん。私何言ってるんだろう」
「え、いやあ……的確だと思いますよ」
洋介は瞠目していた。予想だにしない大量のアドバイスは、異常とすら感じられるほど的確だった。泰久に戦略を語って貰ったときにも驚いたものだったが、それすら上回るかもしれないと考える。
「文香さん、ライトガンは高校に入ってから知ったんですよね……?」
「うん。まだ知ってから二週間」
それが事実だとすれば彼女が天才的なセンスを持っていることは間違いないだろう。加えて言うのなら、マネージャーとして席についているだけでは勿体ないのではないだろうか――洋介はそんなことを考えた。
「ライトガン、やらないんですか。射撃練習だけでも、楽しいと思うけど」
「うーん、たしかに。心の準備ができたら私も撃ってみようかな。そのときは教えてね」
「はい」
洋介は力強い返事をして満面の笑みを浮かべた。
「ヨッケ君。その変わりといっちゃなんだけど、私がこの間の全国模試で学年一位だったらふみちゃんって呼んでね」
「……いいですよ?」
意図の読めない提案に戸惑いを覚えたが、幸鳳学園の一組には日本最高の国立大にも受かるレベルの人間がゴロゴロいるのだ。学年一位を取ることはそう容易ではないだろう。
「やった。あ、付き合ってくれてありがとう」
あっと言う間に目的地、洋介にとっては中継地点である場所にたどり着いていた。
「いえ。僕がつき合わせてる感じですし。それにしても、いつみても凄い家ですね」
洋介の口から出た台詞はお世辞ではなかった。二人の目の前に、赤レンガで覆われた西洋風の建物が堂々と構えていた。ヨーロッパの旅行ガイドやクラシック映画でしか見ないようなコーン型の屋根が、左右と中央に三つ張り出している。
建築物に詳しい訳ではないが、建物から漂う風格や煉瓦に這う蔦は、世界史の教科書に載っているような古風な西洋建築を体現していた。正門から入口らしきところまでよく手入れされた芝に覆われ、広々とした庭の中心には噴水があり、飛沫が月光を反射して煌めいている。
「綺麗ですね」
洋介はどちらかと言えば日本の古い木造建築が好みであったが、そういう好みを越えて純粋に感動を呼び起こすだけの力を持った建物だった。
「ラブホテルみたいだよね」
文香の言葉が洋介の感想を正面から叩き壊す。どうやらこの家のことを気に入っていないようで、土地と金を持て余していた馬鹿の道楽だと、ことあるごとに文句をつけていた。
「こんなに貫禄の有るラブホテルがあってたまるものですか」
良く分からない返答が面白かったらしく、文香が笑う。
「あれですね、東京駅がこういう建物ですよね」
「見る目があるね。この建物、東京駅より少し前に建設されたんだって」
「じゃあ築百年とかですか?」
もともとそういう家柄なのかと感心する。百年前からこれだけ厳かな家に住んでいるような資産家なら、高校の一つや二つの運営母体になっていてもおかしくはないだろう。
「東海道沖地震が来たら危ないかもね。耐震は大丈夫かな」
「その時は僕の自転車で逃げてくださいよ」
「サドルが高すぎて乗れないよ……。私にとっては、股を裂く拷問器具みたいなもの」
「立ちこぎすれば大丈夫ですよ」
門の前のランプに照らされながら会話を続ける。取り留めのない話が楽しいと感じたのは久方ぶりだった。
一通り話した後、洋介は庭の隅に自転車を止めて、雨避けのシートをかける。
「それじゃあ、また明日」
「あ、はい。さようなら」
洋介の挨拶に満足したように微笑むと、文香は小さな歩幅で庭を歩いていった。毎朝門まで歩くだけで疲れるんじゃないだろうかと思いながら、洋介は少女の背中を名残惜しそうに見送る。
「うーん……しかし、いい家だ」
そんなどうでもいい感想を口にしながら、洋介は月に背を向けて駅の方へと駆け出した。