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第96話: 使命の覚醒と、魂の灯火

数分前――ニースが王の間で崩れ落ちるその直前のこと。

場面はアンジーが闇に呑まれた瞬間に遡る。

黒い波のようなノワールの渦が地下牢を満たし、アンジーの身体はその深淵へと引きずり込まれていた。

光を閉ざす闇は、重く冷たい水に溺れるようで、一瞬ごとに息を奪っていく。

だが彼女の腕の中には、眩い白銀を放つ小さな狼、ハティルがいた。

腰の高さほどに成長したその体を、アンジーは必死に抱きしめる。


「……大丈夫です、ハティル。わたしは、まだ負けません」


足元からずるずると絡みつく闇。

そこから響くのは、か細く掠れた声だった。


『ダ……スケテ……ヒトリ、ニ……シナイ、デ……』


それは人間の悲嘆を模した呻き。

だがアンジーは唇を固く結ぶ。


「惑わされません。これは犠牲となった人々の声を真似ただけ……。けれど、だからこそ、わたしは退けない」


杖を構え、光魔法を紡ぐ。

純白の輝きが闇を裂くように走った――だが、飲み込まれる。

光は闇に呑まれ、無力に消えた。


「……っ!光が……届かない……?」


心臓を冷やす恐怖。

足は鉛のように重く、視界は闇で満たされる。

その横で、ハティルが「きゃうん!」と悲鳴をあげた。

小さな足に黒い鎖が絡みつき、引きずり込もうとしていた。


「ハティル!!」


だがアンジーの足もまた闇に囚われ、動けない。

黒い口が無数に現れ、吐息を吐きかける。

生温かく、ぬるりとした気配が頬を舐める。


『イ……ッショ、ニ……イヨ……ヒトリ、ジャ……ナイ……』


「や、やめてください!!近寄らないで……っ!」


『ナンデ?…キミ、モ、ヒトリ…ボッチ、デショ?』


「ちがいます!私には大切な人がいます…!帰りを待ってくれる大切な人がーーー」


身体は抵抗を許さず、ついには口にまで闇が入り込んでくる。


「っ…!!」


呼吸ができない。

意識が暗転する。まるで深い湖に沈むように、永遠の眠りへと誘われていく。


――その時。


『……ジー……アンジー……』


柔らかな声が、彼女を照らした。


ーーー誰ですか?


暖かく、朗らかで、まるで陽光のような声。


『あなたの使命を忘れないで。闇を葬り去ること。リリーを倒すのよ――それが、あなたの役目』


ーーー私、私の使命………


はっと目を見開いた瞬間、長い闇に閉ざされていた琥珀の瞳が、まるで天の黎明を迎えるかのように光を取り戻した。

その輝きは薄暗い地下牢を押し返し、絶望に覆われていた空気を震わせる。

光はただの反射ではない。揺るぎなき決意と、背負った使命の炎そのものだった。

アンジーは叫ぶ。


「ハティル!!いえ……白銀の月に吠えし魂よ!今こそ、記憶の腐りを喰らい、打ち破れ――ハティオス!!」


その瞬間、身体を縛っていた重さがふっと消える。

抱かれていた小さな狼は、白銀に輝きながら変貌を遂げた。

毛並みはより神々しく、瞳には月光のごとき力を宿す。フェンリル――その名を冠する存在へ。


「この空を、この世界を照らしてください!」


アンジーの声に応えるように、ハティオスは天へ向かって咆哮した。


わおおおおおん――!


その一声は衝撃波となり、地下牢全体を揺るがす。

黒い波は根こそぎ吹き飛ばされ、粉々に砕けた。

闇は悲鳴をあげ、散り散りに砕け、無数の光の粒となって宙を舞う。

まるで夜空に溢れる星々のように、輝きは牢を照らし出した。

アンジーの金の髪は光を反射し、琥珀の瞳は女神のように神秘を宿していた。


「アンジー!!」


ようやく闇が晴れ、駆け込んできたシュネとライカの姿があった。

だが二人は立ち尽くす。


「……アンジー…か?」


氷の瞳を細めるシュネ。

その声は震えていた。

ライカも返す言葉を失い、唇を噛む。

そこにいたのは、いつもの天然な少女ではない。

使命に覚醒した、別格の存在だった。


「……はい。わたしはアンジーです」


微笑む彼女は、穏やかで、それでいて冷厳。

その背に寄り添うのは、巨大な白銀の狼――フェンリル、ハティオス。

神話から抜け出したかのような光景に、二人はただ呆然とした。

アンジーは振り返り、床に残る小さな影に目を向ける。

闇の塊は縮こまり、弱々しい声を発していた。


『……ヤメテ……マブシイ……』


「……これで終わりです。闇を葬ることが、わたしの使命ですから」


静かに告げ、しゃがみこむ。

人差し指を立て、小さな影を「ピン」と弾いた。


『……ア……』


影は霧のように消え、光の粒となって消散していく。

だが――最後に残った黒い炎だけが、消えなかった。


「……往生際が悪い。潔さのない存在は、なおさら不浄です。もう一度――」


再び手をかざそうとした、その時。


「やめて!!」


アンジーと炎の間に飛び込んだのはクラリスだった。

彼女はマントを翻し、身を挺して影を庇う。


「……なぜ……?それは悪です…。守るべきものではありません」


「分からないの!?ずっと、助けを呼んでいたでしょ!!この子は…この子は……ニースの魂よ!」


クラリスの声は震えていた。

腕の中で燃える黒い炎を抱きしめながら、必死に叫ぶ。


「この灯火が消えたら、彼も消えちゃう……!」


「……え?」


アンジーの目が揺れる。

信じがたいが、クラリスが嘘を言っているとは思えなかった。


「違います。これは……不浄の異物です。排除しなければいけません。どこでそんなことを聞いたのかわからないですが、根拠もないのに、そんなことを言われても…」


「根拠ならあるわ!!わたしはさっきまでシルヴィアと戦ってきた。あいつが気を失う前に言ったのよ!!」


「…ですが、それがニースさんだというのはさすがに無理があります。あまりにも醜いです」


「これは絶対にニースの魂よ。だって、わたしはずっと彼と一緒にいたもの。これはあいつ自身じゃない。一人でいるくせに一人が嫌いで…人が好きなくせに独りよがり。ひねくれもので、でも芯はまっすぐ。あいつそっくりの魂よ…」


栗毛の髪が乱れ、涙に濡れた目が必死に訴えてくる。


「だから、お願い……!どうか……消さないで……!」


アンジーは息を呑み、黒い炎を見つめた。


「……これが……救うべき魂……?」


今にも消え入りそうな弱々しい炎。

ここで消せば、悪は排除される。

彼女の使命が全うできる。


だがーーー迷いながらも、彼女は決意を込めて手を差し伸べる。


「分かりました。私なら浄化できます」


掌に温かな光を宿し、黒い炎を優しくすくい上げる。

そして――ふぅっと息を吹きかけた。

炎は青白に変わり、鼓動のように脈打つ。


「ああ……よかった……」


クラリスの頬を涙が伝う。


「………先生の言葉を信じてよかったです。これは…ニースさんの魂。信じられなくてごめんなさい」


「大丈夫よ。これで彼は救われたわ」


だがアンジーは首を振る。


「安心するには早すぎます。これは応急処置です。本来の魂に戻さねばなりません。早く戻さなければ、炎が消えてしまいます」


そう言って、光の炎を掌に宿したまま、ハティオスを見上げる。

フェンリルは頭を垂れ、アンジーが跨れるように姿勢を落とした。


「……わたしも連れて行って!!」


クラリスが必死にハティオスの足にすがる。

アンジーは短く考え、頷いた。


「……分かりました」


二人を乗せ、ハティオスは地を蹴る。爪が牢の床を抉り、風となって駆け抜けた。

地下牢はたちまち遠ざかり、白銀の残光だけが残る。

残されたシュネとライカは、ただ呆然と立ち尽くす。


「あれは……本当にアンジーなのか……?」


震える声で呟くシュネに、ライカはただ唇を結び、何も答えられなかった。

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