第95話: 玉座に座る影――父と子の対峙
その黒い影は、ただの魔物とは明らかに違っていた。
人の形を模してはいるが、腹や脚のあたりから無数の口が開き、か細い声で「助けて……」「苦しい……」と呟く。
目も鼻も持たず、あるのは牙を剥いた口だけ。
しかも、その口の一部は笑い、別の口は泣き、あるいは叫び、まるで人間の感情そのものを刻んだかのように蠢いていた。
アンジーは金髪を揺らしながら杖を構えた。
「今まで犠牲になった人々の声を……模しているのでしょうか。……気味が悪いです」
横で低く唸るハティル。
その純白の毛並みが発光し、影を威嚇するように牙を剥く。
やがて黒い影は、ぎこちなく言葉を紡いだ。
「ドド……ドウ、シテ。ボク……ワルイ、コト……シタ? ……コワイ、ヨ。タスケテ、ヨ」
その言葉はたどたどしく、しかし確かに意味を成していた。
アンジーは眉をひそめ、きっぱりと叫ぶ。
「惑わそうとしたって……そうはいきません!」
杖先に光が集まる。
「〈光よ、真実を照らせ――ルクス・クラリタス!〉」
光の奔流が迸り、影に直撃する。
だが、影は呻きながらも炎のような闇をまとい、光をはじき返した。
「弾かれた…!?」
「…次はそう簡単にいきません!」
アンジーはさらに強い光を練り上げ、魔力を集中させる。
黒い影は頭を抱え、悲鳴をあげる。
「イヤダ……イヤダヨ……ボク、ハ……ボクハ……!」
瞬間、ぶわっと床一面に闇が広がり、黒い海のように揺らめいた。
「アンジー!!」
ライカとシュネの声が背後から響く。
アンジーは振り返り、必死に叫ぶ。
「入らないでください!危険です!」
その言葉を最後に、二人の姿は黒い幕に覆われ、視界から消えた。
シュネの叫びも、ライカの声も、闇に遮られて届かない。
「……っ!」
アンジーはハティルの光を頼りに、ただ一人、闇の中に囚われた。
* * *
場面は変わる。
ニースと校長セリウスは、王の間へと通じる階段を登っていた。
一段踏み出すごとに、鉛のような重圧がのしかかり、呼吸すら苦しくなる。
「……ここまで膨大で邪悪な魔力を秘めていたとは」
校長が額に汗を滲ませながら呟く。
「アンジーたちを置いてきてよかった。……きっと、彼女たちはここから先に進めない」
無機質な声で、ニースが言った。
「だが……君も限界に見えるが、大丈夫か?」
校長が問いかけると、ニースはわずかに肩を震わせる。
「運動不足なだけ」
短く答え、震える足を叩く。
――心はないはずなのに、身体が覚えている。
トラウマの恐怖は、深く肉体に刻まれていた。
やがて二人は巨大な赤い門の前に立つ。
門には炎を思わせる装飾が施され、ゆらめく光を放っている。
そのとき、フェニックスのアウロラがニースの肩に舞い降りた。
「……おかえり」
小さく呟き、ニースはアウロラの頭を撫でた。
「アンジーたちも到着したようだな。では、我々も先に進もう」
校長が低く言い、門に手をかける。
きぃ、と音を立てて門が開くと、赤い絨毯が玉座へと続き、天から降り注ぐ光に照らされていた。
だが、その輝きすら、玉座に座る人物から放たれる禍々しい魔力に掻き消される。
「……久しいな、サイラス」
校長が臆することなく声を投げた。
玉座の人物――国王サイラス・グランツァが、低く響く声で答える。
「ようやく来たか、セリ。国の重罪人を、わざわざ連れてきてくれたことに感謝するぞ」
その指が、フードを深くかぶったニースを指し示す。
「いや、彼は私の護衛だ。今日は情報を提供するために来たのだ」
校長は淡々と告げる。
「冗談はよせ。……時間を割いたんだ。そいつを寄越せ」
王の命令は重く響いた。
校長はちらりとニースに目を向ける。
「……と、言っているが。どうする?」
「どうにもこうにも……話し合う空気じゃない」
ニースはフードを外し、炎の瞳をまっすぐに向ける。
「表向きの言い訳なんてどうでもいい。僕はあんたを許さない。その椅子からどいてもらう。それを言いに来た」
杖を掲げた瞬間、アウロラが口を開き、轟炎を吐き出す。
「小童が!!」
王もまた炎を放ち、両者の炎が激突する。
熱風が爆ぜ、空気が震えた。
互角のぶつかり合いに、校長は驚きを隠せない。
「……若い力が、これほどとは」
だが次第に、ニースの足が後ろへと押し返されていく。
「サイラス! なぜ自身の息子を追い詰める!」
校長が声を張り上げた。
「……君は妻を心底愛していた。そんな君が、自らの炎で妻を葬るはずがない!君らしくない!」
その言葉に、王はしばし沈黙した。
そして、不気味な笑みを浮かべる。
「私らしくない……か。それもそうだな」
「何がそんなにおかしい?」
ニースの声は冷え切っている。
「……そろそろか?」
王の唇が不敵に歪む。
「……は?何が――」
その瞬間、ニースの心臓が強く波打った。
「――――!!!」
膝から崩れ落ち、地面に叩きつけられる。
「……あ、ぐ……」
口から息が漏れ、身体が痙攣する。
「ニース!どうしたんだ!?しっかりしろ!」
校長が駆け寄ろうとする。
だが次の瞬間、王が腕を振り下ろした。
闇と炎の入り混じる攻撃が、凄まじい勢いで校長に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
必死に防御結界を展開するも、威力に押し負け、杖ごと吹き飛ばされた。
床に転がり、腕に黒い闇が染み込む。
「……腕が……上がらん……」
「邪魔だ、セリウス・ミレント」
王が吐き捨てるように言い放ち、ゆっくりとニースへ歩み寄る。
「ようやく……ようやく、この時が来た」
その口から、黒い吐息が流れ出た。




