第8話:静かすぎる朝、温かすぎる心
「ちょっと、トレイ傾いてんぞ。スープこぼす気かよ」
「ひゃっ、ご、ごめんなさいっ!」
朝の屋敷に、ライカの低い声が響いた。
アンジーは両手で持った銀のトレイを慌てて立て直す。トレイの上には熱々のスープと焼き立てのパン、整然と並んだ朝食セット。
「坊ちゃんの部屋はこの先だ。ほら、突っ立ってねぇで行くぞ」
ライカは軽く舌打ちをしながらも、先導してくれる。
廊下の突き当たり、装飾の少ない扉の前で立ち止まり、トントンとノックを打つ。
「……入れ」
その声に合わせて、二人は静かに扉を開けた。
部屋の中は、異様なほど冷たかった。
書物に囲まれた勉強机。整然とした書棚。窓は分厚いカーテンで覆われ、光は魔法灯の冷たい青白い光のみ。
部屋の中心には、真剣な表情で魔法律の文献に目を通すシュネの姿があった。
(空気が……ぴりっとしてる……)
アンジーは無意識に息をひそめた。ライカも言葉を選ぶように、手早く食事をサイドテーブルに並べる。
「おら、だーいすきな朝食の時間だ。さっさと大事な文献はしまえよ……っても、ほとんど無言で食べんだよな」
「言葉が必要なほど会話がないからな」
「ほんっと、つまんねぇ坊ちゃんだよ」
ライカはため息をつきつつも、慣れた手つきでナプキンを整えた。
アンジーはその様子を見ながら、おそるおそる声をかけた。
「あの……お食事、誰かとご一緒されてみるのはいかがですか?」
その一言に、ライカも「は?」と眉を上げた。
「……誰かと?」
「はい。えっと、誰かと話しながらの方が……楽しいですし。私の家では、みんなで食卓を囲んでいたので、ちょっと、違和感があって……」
シュネはじっとアンジーを見る。
「そうか。では、君と食べてみよう」
「「ええええっ!?!?」」
アンジーも、そしてライカも素っ頓狂な声を上げた。
「冗談……じゃ、ねーのか?」
「俺は合理性に欠ける行為は好まないが……“楽しい”というのは、試すに値する価値かもしれない。それに天使と食事ができるなんて光栄なことだ」
「めんどくせーーー」
苦笑しつつも、ライカは部屋の端に腰を下ろした。
「……まあ、つきあってやるよ」
こうして、ありえない三人での朝食が始まった。
シュネの部屋での食事は、最初こそ静まり返ったものだったが、回を重ねるごとにほんの少しずつ変化していた。
「……あの、坊っちゃま。口元……クリームついてます」
「……っ、どこだ」
シュネは不意を突かれたように眉をひそめ、ナプキンを手探りで取ろうとしたが――
「動かないでください。拭きますね」
アンジーが席からそっと立ち、手に持った布で彼の口元をぬぐう。至近距離に、シュネの目が見開かれた。
「……っ」
彼の頬がほんのりと赤く染まっていくのを、アンジーは特に気にする様子もなく、いつものように微笑む。
「綺麗になりました」
「………………」
「ぷっ……何その顔」
ライカはスープを運びながら、一部始終を見て思わず吹き出した。
「なんでそっちが顔赤くしてんのよ。メイドに口拭かれて照れる坊ちゃんって、なにその少女小説展開?」
「うるさい。お前は黙ってろ」
「はいはい、坊ちゃん。次は口にごはん運んでもらえば?」
「……っ!」
アンジーが慌てて手を引っ込めると、ライカはまた鼻で笑った。
*
食事を終えた帰り道、アンジーとライカは並んで廊下を歩いていた。
屋敷の廊下はどこまでも静かで、冷たい空気が足元を撫でていく。外は春の陽気だというのに、ここだけ季節が違うようだった。
やがて、廊下の突き当たり。
古ぼけた扉の前に差しかかったとき、ライカの足がふと止まる。
「……アンジー。そこ、あんま近づくな」
「え……? あ、はい。ここ、倉庫ですか?」
「まあな。ただの倉庫だけど……昔の主が使ってた部屋でもあってな。古い魔法が残ってるんだよ。物によっちゃ反応するやつもいる。危ねぇから、絶対勝手に入るな」
ライカは扉をちらりと睨みつけたあと、また無言で歩き出した。
すると、角を曲がった先から、制服姿の二人のメイドが歩いてきた。
アンジーが軽く会釈をすると、二人は無言でぴたりと足を止め、じろりと彼女たちを見た。
視線は冷たく、唇をわずかに歪ませて、まるで異物を見るように目を細める。
すれ違う瞬間、彼女たちはわざと距離を取り、小声でひそひそと何かを言い合った。
「……なにか、私たち……悪いこと、しました?」
アンジーはきょとんとした顔でライカを見た。だが、ライカは目を細めたまま、吐き捨てるように言う。
「放っとけ。ああいうのは”普通”じゃない人間が嫌いなだけだ」
「普通……?」
「そう。髪の色が違うとか、瞳の色が違うとか、魔力がないとか、顔がいいとか……なんでもいいんだよ。自分たちと違うもんが怖いだけ」
アンジーはこの屋敷の冷え切った空気の原因が少しだけ理解できた気がした。