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第87話: 炎に呑まれた少年

ひとつの声が落ちる。

それは告白のようでもあり、語りではなく、ただ記憶をなぞるだけの独白のようでもあった。


ニースは淡々と過去を映し出す。

その声音に感情はなく、抑揚もない。

だが、彼の眼差しの奥には、決して癒えぬ傷痕が確かに刻まれていた。


――すべては、母が倒れた日から始まった。


彼の母、セラフィナ・グランツァは美しく、聡明で、そして魔力に満ちた女性だった。

その微笑みは、幼いニースにとって世界の光そのものだった。

膝の上で聞かされた魔法の詠唱。

柔らかい声で繰り返される言葉。

炎はあたたかいもの、命を照らすもの――そう教えてくれたのも母だった。


だが、その光はあまりにも唐突に失われた。

墨黒一族――漆黒の魔物〈ノワール〉が宮殿に入り込み、母を襲ったのだ。

どれほど叫んでも、どれほど腕を揺さぶっても、母はもう目を開けることはなかった。


葬儀が営まれ、王族や高位の貴族たちが弔辞を述べ、白い花で覆われた棺が祭壇に安置された。

人々は「悲劇」と言った。

校長セリウスも「痛ましい出来事だった」と語った。

けれど幼いニースにとって、それはただ「母がもう帰ってこない」という冷酷な事実でしかなかった。


――最後に一度だけ、母の顔を見ておきたい。


その思いに駆られて、彼は人目を盗み、誰もいないはずの聖堂へ忍び込んだ。

重い扉を押し開けた瞬間、目に映った光景に息が詰まる。


そこには父がいた。


荘厳な祭壇の前で、王は静かに立ち尽くし、その手には紅蓮の炎が宿っていた。

次の瞬間、燃え上がる火柱が棺を呑み込み――母の最期の姿を容赦なく焼き尽くした。


「なにを……してるの!」


叫びながら駆け寄り、父の腕にすがりつく。

だがその腕は冷たく、容赦なく振り払われた。

ニースの小さな体は後方に弾かれ、背後の椅子に頭を打ちつける。

視界が滲み、世界が赤く染まった。

口の中に広がる鉄の味。

それでも彼は必死に声を絞り出す。


「やめてよ……やめて! そんな……母様を奪わないで!」


けれど王は何も答えなかった。

ただ、燃え盛る炎の向こうで、背中を向けたまま立ち尽くしていた。


――その日を境に、炎は忌むべきものとなった。


母を奪った炎。

父の手に宿る、憎むべき紅蓮。

そして、己の内に潜む同じ炎すらも。


父とは目を合わせなくなった。

言葉も。存在も無きものとした。

自室にこもり、ひたすら本を読む日々。

笑うことも忘れ、世界が灰色に見えた。


だが、距離を取れば取るほど、噂話が耳に入ってくる。


最近の王はおかしいーーー。


怖いーーー。


王を恐ろしいという声が強くなったのだ。

使用人の数も減り、昔からなじみのあった執事も消えた。

そして、感情もなく、ニースが一人では広すぎる食堂で、一人で静かに夕食を口にしていた時だ。

王と…その配下たちが槍と剣を手にして、一斉にニースの周りを囲んだ。


「なに?」


――気がつけば、ニースは冷たい闇の中にいた。

じめじめと湿った空気。土と石の匂い。

そこは地下牢のような場所で、光ひとつ差し込まない。

幼い彼はゆっくりと立ち上がり、手探りで壁を伝い歩いた。

やがて木製の扉に辿り着く。

母から教わった呪文を思い出し、小石を拾って床に魔法陣を描いた。


「……炎よ」


囁くように唱えると、小さな火がぼうっと灯った。

暗闇を照らすはずの光。

しかしその瞬間、胸の奥からふつふつと怒りがこみ上げてきた。

この牢屋に押し込んだ時の顔ー…冷酷で、ゴミを見るような目だった。

その憎悪をぶつけるように、扉へ火球を投げつけた。

轟音とともに扉が吹き飛び、眩しい光が差し込む。

ふぅ…と安心したのもつかの間。その先に広がっていたのは解放ではなかった。

数えきれぬほどのノワールが蠢いていたのだ。


「……っ」


声を上げる暇もなく、黒い影が雪崩れ込む。

身体に噛みつき、爪で裂き、口の中に流れ込む。

苦痛と絶望が怒涛のように押し寄せ、意識は引き裂かれるように曖昧になっていった。


それからの日々を、ニースはよく覚えていない。

ただ、絶え間なく黒に蝕まれ、魂が浸食されていく感覚だけが続いた。

体は凍えるほど冷たく、喉は渇き、痛みだけが存在を確かめていた。


――なぜ自分は生きているのか。


――生きる意味など、どこにあるのか。


考えることすら億劫になり、希望はひと欠片も残らなかった。

終わりを望んだ瞬間、ふいに声が響いた。


「……君だけは、逃げて」


誰かの囁き。

いや――確かに自分の声だった。

はっとして振り返る。

そこにいたのは、淡く光を纏う“もう一人の自分”。

同じ顔で、同じ炎の瞳を持ち、けれど柔らかく微笑んでいた。

それはまるで、魂そのものが形をとったかのようだった。


ふわりと体が軽くなる。

背中を押されるような感覚。

ずっと閉ざされていた闇が、裂けていく。


「……え」


思わず声が漏れた。

光の中で、自分自身が確かにこちらを見ていた。


――その瞬間、すべてが変わり始めた。

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