第80話: 黒桜は笑う
廊下を早足で進むニースの背中を、アンジーはただ黙って追いかけていた。
金髪が小さく揺れ、琥珀の瞳が不安に揺らぐ。
どちらに向かっているのか――聞きたい気持ちはあった。
けれど、今の彼の雰囲気にその問いを差し挟む勇気はなかった。
ただ、見慣れた廊下を進み、曲がり角を右へと折れるたびに「やっぱり」と思う。
まるで、心を読まれているかのように、ニースは迷いなく進んでいく。
やがて、彼は立派な両開きのドアの前で立ち止まった。
ツルが絡みつき、森の入り口のような不思議な雰囲気を纏った扉。
「準備はいい?」
ニースが静かに尋ねる。
「は、はい……。でも、でも……ここって……」
アンジーは眉をひそめ、目の前の扉を見上げた。
そこは、風専攻クラスの教室――自分たちが普段授業を受ける、何の変哲もない扉だった。
「ここに……敵の本拠地が……?」
戸惑うアンジーの横で、ニースは扉に手をかけ、ゆっくりと開いた。
* * *
中にいたのは、見慣れた人物だった。
教卓の上に腰掛け、穏やかな笑みを浮かべる女性――シルヴィア。
「あら、どうしたの?」
いつものおっとりとした声。いつもの笑顔。
「ニースさん……まさか……」
アンジーは彼を振り返り、声を潜めた。
「シルヴィア先生を……疑っていらっしゃるのですか?そんなこと……」
彼女は優しく、いつだって生徒の味方だった。
ピンチだった時に助けてくれたし、生徒想いで、みんなに好かれている人。
そんなことないですよね?――そう願ってアンジーは微笑みかける。
「協力していただけるんですよね?一緒に敵を倒しに……」
だが、ニースは無表情のまま首を横に振った。
「彼女は僕らの敵だ。――今回の事件の主犯者だ」
「え……え?」
アンジーの顔から血の気が引いた。
「君も感じたはずでしょ?この教室には、おかしな魔力が張り巡らされている」
確証はなかった。
気のせいだと思っていた。
あの感覚は間違いではなかったのかと思い知らされた。
ニースは手帳を取り出し、その一頁に描かれた魔法陣に指をなぞる。
そこから引き抜かれたのは、古びた杖。
先端は欠け、木の皮も剥がれかけている。
だが、不思議な威厳を宿すその杖は、ただの道具ではなかった。
「不死鳥――朝を連れてこい」
ニースの声に応じ、炎が杖の先端から迸る。
現れたアウロラは、いつも肩に乗るほどの小鳥ではなく、翼を広げれば部屋を覆うほど巨大な存在となっていた。
「……あらあら。物騒ね」
シルヴィアは変わらず笑顔を浮かべていた。
けれど、その奥に潜む黒い感情を、アンジーは敏感に感じ取る。
「バレちゃったの?」
背筋がぞわりと冷える。
次の瞬間、足元に魔法陣が広がった。
闇の影から現れるのは、黒と白に染まったノワール。学園中を恐怖に陥れた怪物たち。
「ノワール!?どうしてここに……!」
アンジーは杖を握りしめ、身構える。
「アンジーさん、ニースくん……二人とも邪魔なのよ。わたしの計画には」
シルヴィアは笑みを崩さぬまま、杖を軽く振る。
「アウロラ、僕らを守れ」
ニースの命令に応じ、炎の渦が巻き起こり、アンジーたちを守るように立ち塞がった。
ノワールたちの侵入は炎に阻まれ、近づくことすらできない。
「シルヴィアが敵だってことは……こうして見れば、わかるでしょ?」
ニースの淡々とした声が響く。
「……いつから、気づいていたんですか?」
アンジーは必死に問い詰める。
「クラリスが残してくれたんだ」
ニースは自らの手を見下ろし、そっと握りしめる。
「彼女は僕が記憶を読むと知っていて、すべてを細かく記憶に刻み込んでくれた。僕が読み取れるように」
「まあ……そんな魔法まで使えるのね。やっぱり厄介だわ」
炎越しに、シルヴィアは楽しそうに微笑んだ。
炎の渦を静かに下げながら、ニースは告げる。
「クラリスが調べ上げたんだ。この学園にいる全員の経歴を。その中で、一番怪しかったのが……あんただ」
「ふふ……よく調べ上げたわね。もう消えていたはずの経歴なのに」
シルヴィアはゆっくりと黒緑に輝く髪を揺らす。
「そうよ。わたしは墨黒一族と人間の間に生まれた子。そして――リリエラ・ノクティス様に忠誠を誓う者」
その声は甘美で、しかし狂気を孕んでいた。
「ある日、血が騒いだの。魂が欲しい、身体が欲しい、と。リリエラ様からのお告げだと思ったわ。わたしは選ばれたのよ!幾人もの魔法使いの中で、唯一!」
シルヴィアは光悦に身を震わせ、両手を天へと伸ばす。
「その証がノワール!わたしはリリエラ様に選ばれた器なの!」
アンジーの心臓が跳ねた。
「そんな……先生が……」
「そして、墨黒一族の末裔であるライカに目をつけたんでしょ」
ニースの冷たい声が突き刺さる。
シルヴィアは口元を歪め、肩をすくめる。
「ほんとにつまらない子。全部お見通しなのね」
彼女は桜の木の下に歩み寄り、その幹へ杖をあてがった。
ゆっくりと開いていく亀裂。
「ここに、リリエラ様の身体の一部が眠っているわ。そして――復活のためには、最も適した身体と大量の若い魂が必要なの」
桜の木の中で、つたに巻き付けられた少女がいた。
「……!!」
アンジーの瞳が大きく見開かれる。
黒髪を絡め取られ、必死に呼吸を求めてもがくライカの姿。
「ライカさん!!!」
アンジーの叫びが教室に響く。
「意外と抵抗するのよ、この子。早く一つになれば楽なのに」
シルヴィアは無邪気に、ライカの頬を指で突いた。
「ライカさんに触らないでください!」
アンジーは怒声を放つ。
「本当、うるさい子ね。ここまで語ってあげたのに、感謝してほしいくらいなのよ」
シルヴィアはにんまりと笑みを深めた。
その瞬間。
アンジーとニースの背後に、2匹もノワールの影が現れる。
黒き顎が開き、二人をそれぞれ飲み込もうと迫ってきた――。




