第78話: 揺れる心、告げられた絶望
廊下を並んで歩くアンジーとニース。
足音だけが規則正しく響き、外の風景はやけに静かに流れていく。
アンジーは少ししょぼんとしていた。
――さっきのシュネとの会話。優しい眼差し。
思わず胸が甘く満たされかけて、心臓が熱を持った。
(……あの瞳が忘れられません…)
彼が自分を想ってくれていることは分かる。
その気持ちに感謝していた。
けれど――いつからだっただろう。感謝の奥に「欲」が芽生え始めたのは。
もっと自分だけを見てほしい。
もっと自分と一緒にいてほしい。
あわよくば――彼も自分と同じ想いを抱いていてほしい。
そんな淡い期待が、胸の奥で膨らみ始めていた。
だからこそ、彼が優しく笑うたびに不安が差す。
――その瞳は自分を見ているようでいて、実際には違う場所を映しているのではないか。
まるで諦めに近い感情を抱いているのではないか。
アンジーは小さく息を吐き、首を横に振った。
(……こんな緊急事態に、考えることじゃありません)
その間、隣を歩くニースはずっと無表情だった。
感情の色が読み取れない無機質な横顔。
「ねえ、アンジー」
不意に声が落ちる。
「この騒動が終わったらさ……手伝って欲しいことがあるんだ」
アンジーは驚いたように顔を上げ、慌てて明るい笑顔を作った。
「はい! なんでしょうか?」
「……僕にはどうしても助けなきゃいけない子がいる。その子を――アンジー、君に救い出してほしい」
瞳に宿る冷たい炎が、真っ直ぐにアンジーを射抜いた。
「助けたい方……学園にいらっしゃる方でしょうか?」
「ううん。その子は学園にはいない。暗くて、狭い場所に囚われてるんだ。僕はその子を救うために、この学園に入った」
低く淡々とした声。
けれどその中に揺るぎない決意があった。
「……でも方法が分からなかった。だから必死に本を読み漁ったんだ」
アンジーの脳裏に、図書館にこもり続けるニースの姿が浮かぶ。
――「図書館の亡霊」と呼ばれる所以。
それはただの奇行ではなく、彼の目的のためだったのだ。
「私で……いいのでしょうか?」
「君にしかできない。君の光魔法なら、きっとあの子を救える」
無表情。
何を考えているのか、本当に分からない。
だがその瞳だけは、氷のように冷たい炎を灯しながらアンジーを捉えていた。
「……僕にはやらなきゃいけないことがある。きっと君にも使命がある。その使命を果たした時、自分が自分でいられるかは分からない」
淡々と告げた後、彼はふと視線を外す。
「だからさ、アンジー。君もわがままに生きていいと思う」
「……え?」
一瞬、意味が分からなかった。
だが次の言葉が胸を撃ち抜く。
「ごちゃごちゃ考えても仕方ない。君は君の感情を――そのままシュネにぶつければいい」
「……えっ……え?」
不意を突かれて、顔が真っ赤に染まる。
自分しか知らないはずの感情を、まるで見透かされたように言い当てられて。
寮の玄関をくぐると、ニースはあっさりと背を向けた。
「じゃあ……約束だからね」
その一言だけ残し、自室へと消えていった。
「……そ、そんな……」
アンジーはその場にへなへなと座り込んでしまう。
鼓動が早鐘を打つ。
頬は熱く、手のひらまでじんじんしていた。
だが、やがて彼の言葉を反芻する。
――シュネを想う自分の気持ち。
――伝えずにいる言葉。
それらは間違いではない。
むしろ大切な、大切な想い。
(……私は…この感情は。絶対に伝えたいです)
シュネに、気持ちを伝えよう。
そう心に決めた瞬間――
ばあん!
勢いよく扉が開いた。
「――っ!」
Sクラスの同級生が飛び込んできた。
息は荒く、顔は真っ青。
背後を気にするようにドアを閉め、力なく床に倒れ込む。
「だ、大丈夫ですか!?」
アンジーは慌てて立ち上がり、駆け寄る。
肩を掴むと、震えながら青年は叫んだ。
「ぼ、僕は……僕のせいで――ッ!!」
「……!」
意味を理解するよりも早く、アンジーの身体は動いていた。
胸の奥で嫌な予感が警鐘を鳴らす。
「……嘘……」
脳が否定する。
だが、全身を突き動かす衝動に逆らえない。
「そんな……そんな……どうか……どうか……嘘であってください……!」
アンジーは闇雲に走った。
地面がぐらぐらと揺れている気がした。
胸の奥が冷たく、視界からは色が失われていく。
――医務室。
扉を押し開けた瞬間、漂ってきたのは異様な静けさだった。
人がいるはずなのに、息遣いも気配も感じられない。
耳鳴りがするほどの沈黙の中、アンジーの鼓動だけがやけに大きく響いた。
「……っ」
ベッドに横たわる姿を見た瞬間、肺の奥から空気が抜け落ちた。
肌は青白く、微かに胸が上下しているものの――その瞳は閉ざされたまま。
呼びかけても答えは返らず、まるで深い闇に囚われてしまったようだった。
並んで横たわる二人の姿。
蒼白なシュネと、その隣に眠るクラリス。
呼吸はかすかにある。けれど、それだけだった。
「……そんな……お二人まで……」
膝が勝手に折れ、床に崩れ落ちる。
伸ばした指先に触れても、ぬくもりは遠く、声をかけても返事はない。
つい先ほどまで確かに傍にいてくれた存在が、まるで別の世界に閉じ込められてしまったかのように。
アンジーの琥珀の瞳から、涙がぽたりと落ちる。
頼れる人が、一度に二人もいなくなる――それは心の支えを根こそぎ奪われるに等しかった。
「どうして………」
呟きは震えていた。
誰も答えてくれない静寂が、残酷に広がっていく。
孤独。
その言葉が、胸の奥で鋭い刃のように突き立った。




