第72話: 魂を喰らうもの
クラリスは、はぁーっと深いため息をつきながら、自身の仕事部屋のソファへと沈み込んだ。
部屋は書類や本が山のように積み重なり、秩序などどこにもない。
机の上には資料と筆記具、飲みかけの紅茶のカップまで散乱していた。
「……散らかりすぎよね」
独り言のように呟きながら、クラリスはこめかみを押さえる。
今日も一日、問題続きだ。
そんな彼女を待っていたのは、まるで自室のようにくつろいでいる少年だった。
「なんでそんな深いため息ついてんの?」
段差に腰をかけ、本を読み耽っていたニースが顔を上げる。
彼はクラリスの姿を見てから、ぱたりと本を閉じた。
次の瞬間、ポットからお湯が勝手に立ち上がり、香りの良い紅茶が用意される。
「大人には色々あるのよ。…あら…気が利くじゃない」
クラリスは苦笑しつつも受け取り、香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
ひと口飲んで、ようやく表情が緩む。
「あー……リラックスするわー」
「よかったね」
「うんうん。いつもありがとうね。………ところで」
しかし次の瞬間、鋭い視線をニースに突き刺す。
「あんた、またサボったでしょ?」
「僕だって好きで休んでいるわけじゃないんだ。だって今、クラスじゃ杖についての授業だし、僕は……いらないし」
口を尖らせるニースに、クラリスは深いため息を重ねた。
「そもそも、あんたじゃ桜の木が選ぶわけないわよね。自称・風魔法専攻のニース」
「……」
「無理やりねじ込んでくるから、こっちがどれだけ説得に苦労したと思ってるの。変な言い訳でっちあげて、やっと校長先生お墨付きでギリギリオッケーしてくれたんだから。その代わり、めちゃくちゃ怪しまれたけど」
ぶつぶつと文句をこぼすクラリスに、ニースは涼しい顔で返す。
「僕はアンジーと一緒じゃないと嫌なんだ」
「あら、そう。じゃあ大好きなアンジーちゃんと一緒に勉強してきなさい」
皮肉混じりに言い放つクラリス。
だが、ニースの返答は静かだった。
「……僕に“好き”とか感情はないから」
一瞬、クラリスの表情が固まる。
その目に、普段の軽口とは違う真剣さが浮かんでいた。
「……そうだったわね」
紅茶を口に運びながら、クラリスは別の話題に切り替える。
「で、闇魔法の件、調べてくれた?」
「ライカでしょ?調べたよ。彼女はシロだ」
きっぱりと断言するニース。
クラリスは小さく頷き、眼鏡を外した。
「あんたが言うなら間違いないわね。まあ、わたしだって、バカじゃないわ。ライカさんを疑う理由なんてない。彼女がどれだけ闇魔法を嫌っているか、わたしは知ってるもの」
「墨黒一族……か」
「生き残りってだけで、どれだけ苦労してきたか。……でも、十中八九、あのレイナさんの嘘でしょうね」
クラリスは伸びをしながら、肩を鳴らした。
「調べてくれてありがとうね。大丈夫よ。大した問題にはならないわ」
「……そうだといいけど」
窓から差し込む光を眺めながら、ニースは目を細める。
* * *
クラリスの言葉どおり、事態は大事にはならなかった。
証拠不十分とされ、ライカとレイナはそろって厳重注意を受けただけだったのだ。
説教部屋から出てきたライカは、明らかに不満げな顔をしていた。
「ライカさん、大丈夫ですか?」
「気分は超最悪。なんで関係ないあたしが怒られなきゃなんねーんだ」
廊下で待っていたアンジーが心配そうに声をかける。
ライカは肩をすくめ、大きなため息をついた。
「納得いかねーよ」
「自作自演だろう」
横から割り込むように、シュネが冷たく言う。
「それしかねーだろ」
ライカも同意するが、その直後――同じ部屋からレイナが出てきた。
彼女はライカとアンジーを見て、鼻で笑う。
「ふん!」
だが次の瞬間、シュネの低い声が響いた。
「……なんだ?」
レイナの背筋が凍りつく。
慌てて笑顔を取り繕い、「なんでもありませんわぁ」と言い残して、そそくさと去っていった。
「あー、まじムカつく。あたしの大切な一時間返せってんだ」
ライカは吐き捨てるように言い、さらにぶつくさ文句を続ける。
「尋問は受けるわ、身に覚えのねぇことなのに反省文は書かされるわ……」
「反省文になんて書いたんだ?」
シュネが淡々と問う。
「“無意識でも発動しないよう気をつけまーす”だよ」
「……闇魔法を発動させたのか?」
「いや、やってねーよ。けどそう書いとかねーと納得してくれそうになかったし。下手すりゃ尋問が長引くしな。ったく……」
「後々響いたりしないだろうな?」
「あんなこと二度とないだろうし、問題なしなし」
ライカは肩を落とし、深い溜息をついた。
その直後――。
黒いモヤが三人の横をすり抜けた。
「っ!」
三人は一斉に振り返る。
「あれは……!」
シュネの目が鋭く光る。
「晩餐会のとき、王を襲った魔物!」
ライカの声が震える。
それは、蛇のような形をした“目のない”怪物だった。
闇の中で、ただ大きな口と牙だけが、禍々しい光を放っている。
だが――何かがおかしい。
その体表を覆う白と黒が、ゆっくりと渦を巻くように混ざり合っていた。
色ではない。存在そのものがねじれて、見る者の心を逆撫でする。
吐き気を覚えるほどの“異質”が、そこにあった。
「今の……白と黒が、混ざってたか?」
ライカが低くつぶやく。
シュネは息をのんだまま、小さくうなずく。
「ああ。――漆黒では、なかったな」
ふたりの間に、冷たい空気が張りつめる。
けれどアンジーはすぐに、表情を引き締めて叫んだ。
「そんなことより……! 追いかけましょう!」
その声が響いた瞬間、彼女は駆けだした。
足音が廊下に反響する。
そして――。
甲高い悲鳴が、石造りの回廊を裂いた。
闇が、こちらを振り向いたような気がした。
「きゃあああああっ!」
三人が角を曲がると――魔物がレイナに頭から食らいついていた。
「まずい!」
シュネが即座に杖を振る。
「氷よ、凍てつけ――氷槍!」
鋭い氷の槍が、唸りを上げて魔物の体を貫いた。
鈍い音とともに、黒い粘液が飛び散る。
その直後――レイナの身体が、吐き出されるように放り出された。
少女の体は、石畳の上を転がり、ぐしゃりと鈍い音を立てて止まった。
髪も服も、べっとりと何かに濡れている。
だが、目立った外傷はどこにも見えなかった。
――にもかかわらず、どこかがおかしい。
「しっかりしろ!」
シュネが素早く彼女を抱き上げる。
その肌の白さは、まるで氷のように冷たく見えた。
アンジーとライカは、同時に杖を構える。
空気が震える。魔力が絡み合い、二人の詠唱が重なる。
「風よ――切り裂け!」
「雷よ――轟け!」
風の刃が奔り、雷の閃光が重なる。
眩い光が空間を裂き、轟音が大地を揺らした。
渦巻く衝撃波が魔物を包み込み、爆ぜる光が視界を白く染める。
しかし――。
「ぐぉ……」
低く唸る声が、煙の中から響いた。
やがて影が揺れ、魔物の体がもぞりと動く。
その巨体はびくともしない。むしろ腹が、ぐるりと膨らみ始めていた。
「……げぷっ」
まるで吐息のように、どこか人間めいた音が漏れる。
焦げた空気の中に、湿った生臭さが混じった。
「おいおい……それも飲み込むのかよ」
ライカの声が震える。
その目に映るのは、光を吸い込むように蠢く魔物――
まるで世界そのものを喰らおうとする、底知れぬ闇だった。
アンジーは両手を胸の前で強く握りしめた。
(……あの時みたいに……光魔法で…)
脳裏に浮かぶのは、かつて自分を包み込んだ金色の光。
あの力があれば、魔物を退けられるはず。
けれど――
(発動条件が…分かりません…)
必死に思い出そうとしても、記憶はもやの中で掴めない。
胸の奥がじんじんと熱を帯びるのに、形にできない。
「……っ!」
額に汗がにじむ。
その迷いの一瞬を突くように、魔物が低く唸り声をあげ、飛びかかってきた。
その瞬間――。
「――桜風斬!」
鮮やかな桜色の光とともに、突風が渦を巻く。
花びらが舞い、周囲の空気まで震えるように裂けていった。
魔物の身体はその風に押され、宙を蹴るように飛ばされる。
鋭い爪も牙も、もはや届かない。
飛ばされた魔物は魔法学校の建物を越え、丘を越え、やがて形が識別できないほど遠くへと消えていった。
残されたのは、舞い散る花びらと、微かに残る風の余韻だけ。
「大丈夫!?」
そこに立っていたのは、シルヴィアだった。
普段のおっとりした笑顔はなく、険しい表情で杖を構えている。
「は、はい! ありがとうございます、先生」
アンジーがぺこりと頭を下げる。
「よかった……」
シルヴィアの顔はすぐに、いつもの穏やかな雰囲気へ戻った。
だが、レイナを抱き上げながら、シュネが低く告げる。
「……大丈夫ではない」
ちょうどその場にクラリスと教師が駆け込んでくる。
「どうしたの!?」
クラリスの声が震えた。
「……魔力が、全く感じられません」
「え……?」
全員が息を呑む。
レイナの腕が、ひんやりとした重みを持って、だらりと落ちた。
その音もない落下が、奇妙に耳に残った。




