第6話:まさかの豪華待遇。…え、これって普通じゃないんですか?
あの夜会のドタバタ劇から一晩が過ぎた。
アンジーの少ない持ち物は、なぜかもうシュネの屋敷に届いていた。しかも、彼女の“新しい部屋”まで用意されていた…。
「……本当に、ここが私の部屋なんでしょうか……?」
落ち着かない。思わずそう呟いてしまうほど、部屋は広く、きらびやかで、そして静かだった。
今まで暮らしていた小さな部屋では、ベッドは板のように硬く、洗面台も手を洗うだけで精一杯だった。けれど、ここは違う。柔らかそうなベッド、ふわふわの絨毯、磨き上げられた家具に大きな窓。
まるでお姫様の部屋のようだった。
働けと言われても何をしたらいいか分からない。おろおろとしつつも、制服のメイド服に着替え、いつものように眼鏡をかけたとき――
「コンコン」と、軽いノックの音が響く。
「失礼するよ」
現れたのは、穏やかな笑みを浮かべたシュネだった。あの“冷酷貴族”とは思えないほど柔らかい雰囲気で、彼は部屋を一通り見渡すとアンジーに問いかけた。
「なにか足りないものは? 必要なものがあれば、なんでも言ってくれ」
「……いえっ、十分すぎます! むしろ、もったいないくらいです……。た、ただ…心残りがあるとすると、今までお世話になったメイド長にご挨拶を出来なかったくらいで…」
「ああ、そういえば、君の荷物を持ってくるよう手配した時に手紙を預かった。あとで読むといい」
シュネは胸ポケットにしまった手紙をアンジーに手渡す。文字の筆跡から確かにメイド長のものだと分かった。
アンジーは手紙をぎゅっと握りしめ、メイド長の顔を思い出す。
「ありがとうございます。シュネ様は、お優しいのですね」
「君は天使だ。当然だろう」
「て、天使……?」
突然の呼び方に、アンジーは頬を赤らめる。けれどシュネは、意に介す様子もなく、自然な口調で続けた。
シュネはソファに腰を下ろすよう促し、自らも向かいに座る。どうやら、少し話をしたいようだった。
「私、そういう……あの、天使とか……慣れてないので……。私は、ただの――」
「“ただの”エルフなんて、聞いたことがない」
その言葉に、アンジーはふっと表情を曇らせた。
「……エルフだから、ですか?」
その問いには、わずかな疑念と、かすかな怒りがにじんでいた。
「助けていただいたことには、本当に感謝しています。でも、あの時……私を助けたのは、“エルフ”だからですか? 研究や調査のために利用するつもりで、助けてくださったのでは……?」
まっすぐな瞳で見つめるアンジーに、シュネはしばし黙り、そっと視線を外した。
「……そんなつもりじゃない。怖がらせたのなら、本当にすまない。俺は――君を守りたいだけなんだ」
彼の声は、真剣だった。
まるで、自分自身でもどうしてそう思うのか分からないかのように。
「君には、この世界のどこにもない光がある。だからこそ、それを守れる場所を作りたい。できることがあるなら……俺に、手伝わせてほしい」
アンジーは言葉に詰まり、けれど、胸の奥がほんの少しだけあたたかくなった。
「……私、記憶がないんです。自分がなぜここにいるのかも、どうして地上にいるのかも、分からない。ただ、気づいたら森の中で倒れていて……優しいおじいさんとおばあさんに育てていただきました」
目に、ぽろぽろと涙が浮かぶ。
「二人には、本当に感謝しているんです。でも……人間とエルフでは、生きる時間が違うって聞きました。だから、せめて……あの人たちが生きている時間を、できるだけ長くしてあげたいんです。……私にできることがあるなら、全部やりたいんです」
それは、誰にも語ってこなかったアンジーの、本当の願いだった。
少しの沈黙の後、シュネがぽつりと口を開く。
「……なんだ。そんなことか。それならもう手配済みだ」
「……へ?」
「君の義両親のことは何も心配しなくていい。薬も準備させてあるし、医者も手配済みだ。そもそも君の義両親の今までの功績が隠れていたことが問題だ。なにも大変なことじゃない」
「な、なな、なんでそこまで……!?!?」
「言っただろう? 君のためなら、なんでも用意させる。法律だって、俺の裁量で変えられる」
そう言って、微笑んだ。
“氷の貴族”と呼ばれた男が、まるで子どものように無邪気に、楽しそうに笑っていた。
その断言に、アンジーは返す言葉を見つけられなかった。
「……っ、そんな……」
突拍子もない言葉なのに、彼の瞳には一切の冗談も誇張もなかった。ただ、まっすぐな“本気”だけが込められていた。
「……シュネ様は、本当に……不思議な方でいらっしゃいますね……」
ぽつりと呟いたアンジーは、袖でそっと涙を拭った。
「不思議? よく言われるよ。――で、そろそろ来る頃だな。面倒なやつが」
「面倒……?」
その瞬間、タイミングを計ったかのように扉が乱暴に開いた。
ギィィ……という軋んだ音と共に、黒衣の人物がずかずかと入ってくる。
「仕事初日にぐだぐだ話してんじゃねーぞ」
入ってきたのは、昨日エレナが怯えていた黒髪の人物――ライカだった。
アンジーは思わず身を引く。昨日と変わらず、彼女の放つ空気は重く、冷たかった。
「紹介する。これはライカ・カミツケ。君の先輩になる。ここでの暮らしや仕事は“彼女”から教わってくれ」
「“彼女”…ですか?」
アンジーは思わず、もう一度まじまじとライカを見た。黒いスーツに身を包み、長い足のスラックスが妙に似合う。失礼ながら、女性らしさは感じられなかった。
「あんだよ?」
ライカがじろりと睨んできて、アンジーは慌てて首を振る。
「も、申し訳ありません! その……」
「こいつは男の格好の方が似合うんだ。君のような美しいメイド服なんて、壊滅的に似合わない。笑ってしまうくらいにな」
「悪かったな! あたしは生まれてこのかた、女物の服なんざ一着も着たことねぇし、似合わねーんだよ。だが、これでも正真正銘の女だ。そこんとこ、よろしくな」
そう言って、ライカはぼりぼりと頭をかきながら、アンジーに手を差し出す。
アンジーもその手を握り返し、にこりと笑って「よろしくお願いいたします」と答えた。
「んで、シュネ。今日の仕事の準備はできてんだろうな? ……ったく、人さらいみたいな真似しやがって」
「もちろん、俺は準備を怠ったことは一度もない」
「で、こいつは今日からうちのメイドでいいんだな?」
「そうだ。お前に任せる。初日くらい、やさしく教えてやってくれ」
「は? なに寝ぼけたこと言ってんだ、お前」
ライカはアンジーを鋭い目つきで見下ろす。
「いいか、天使だかエルフだか知らねぇが、ここでのメイドの仕事をなめるんじゃねぇぞ。夜会の時みたいにご主人様に恥をさらさねぇように気を付けろ!いいな!」
「は、はいっ。……ご指導のほど、よろしくお願いいたします!」
アンジーは背筋を伸ばし、深く一礼する。その姿を見て、ライカは鼻で笑った。
「ふん……じゃ、さっそく厨房に行くぞ。お前の後ろにいるご主人様は腹ペコでお待ちだ…。ちなみに、ひとつでもヘマしたら、その場で追い出すからな」
ライカが乱暴に扉を開け放つ。
「メイドと雇えと言ったわりに、乱暴だな」
「うるせーな!おい、アンジーと言うんだっけ?さっさと来い、厨房は遠いんだよ」
「は、はいっ!」
アンジーは慌てて立ち上がり、部屋を飛び出しかけたところで、もう一度だけ振り返った。
「シュネ様、この度は本当にありがとうございました。私、全力で務めさせていただきます!」
「……ああ。期待してる」
そう短く返した彼に、アンジーは深く頭を下げると、ライカの後を追って小走りで部屋を出ていった。
バタン、と扉が閉まり、再び静けさが訪れる。
シュネは一人取り残された部屋で、しばらくソファに身を沈めたまま天井を見上げていたが――
「……天使にメイド修行か。なんて無茶な配役だ」
そうぽつりと呟いて、くすりと小さく笑った。