第55話: 暴走した魔力は子犬が食べてくれました
アンジーは今日も図書館へ足を運んでいた。
目の前の机にはニース。
だが彼は相変わらず心を閉ざしたまま、本のページをめくる音だけが静かに響く。
「ニースさん! 召喚魔法、できました! 紹介します――ハティルです!」
「わんっ!」
白い子犬が元気よく鳴いた。
――直後。
「シッ」
司書が鋭い視線を投げてくる。
「ひゃっ……」
ハティルはしゅんと耳を垂らし、アンジーの足元に隠れた。
だがニースは視線を上げることなく、本をめくる手を止めない。
「えっと、それで……あのですね……」
アンジーは日々の出来事を一生懸命話し続けた。
けれど、返事は一度もない。
「わん……?」
ハティルが不思議そうに、何度も二度見する。
そんなハティルを抱き上げながら、アンジーは笑顔を作った。
「ディーン先生が、私とハティルに特訓してくれるんです! ハティルは絶対すごい魔獣なんですよ!」
「……」
返事はない。
「だから――大会で優勝します! 絶対に、見に来てくださいね!友達との約束、です!ニースさんが来てくれたら、100万力です」
そう言い残し、アンジーは図書館をあとにした。
* * *
廊下に出ると、シュネとライカが待っていた。
「お前……よくやるなぁ。あんなカカシみたいなやつに話しかけて、疲れねぇの?」
ライカが呆れた声を出す。
シュネは無言のまま、しかしほんのわずかに肩を竦めた。
本心ではアンジーと共にいたい――けれど、自分がアンジーにとって自分は何者なのかを考えてしまい、答えを出せずにいたのだ。
ディーンの言葉が心に残る。
そんな心情など知らないアンジーは、にこっと笑って言った。
「シュネさん!大会ではお隣の席、空けておいてくださいね」
「……なぜだ」
「だって、絶対にニースさんは見に来てくれるから!」
「わんっ!」
アンジーとハティルの無邪気な声に、シュネはほんの少し言葉を詰まらせた。
* * *
特訓初日。
アンジーとハティルは、薄暗い訓練場へ呼び出された。
「えっ……ここ、ディーン先生の研究室なんですか?」
壁の電気はちらちらと点いたり消えたりし、空気は埃っぽい。
「せや。校長に無理言うてな、自分専用の場所をもろたんや」
ディーンはにやりと笑った。
「ほな、まずは魔力を分けてみぃ」
「魔力を……分ける?」
そんなことやったことない。
アンジーは戸惑い、腕の中のハティルを見下ろす。
「わんっ!」
ハティルは当然だろ、という顔で吠えた。
「わいな、生徒ひとりに時間かけるん苦手やねん。……せやけど、今回は気まぐれや。めちゃくちゃ名誉あることなんやで?なんだったら、わいのことを崇める生徒に嫉妬されるレベルやで?」
「そ、そうなんですか!?」
「ツッコミがおらんと、活力湧かんわ~。そない緊張せんで。かるーーくやってみ?」
「…は、はあ…」
アンジーは恐る恐るハティルに手を伸ばした。
だが次の瞬間、急にハティルが大きく口を開き、風を吸い込むように――アンジーの魔力を飲み込んでいく。
「っ……!?」
アンジーは思わず身を強ばらせた。怖い、と感じたのだ。
そして、魔力が不安定に揺らぎ、爆発した。
訓練場に煙が立ちこめる。
「ご、ごめんなさい、ハティル!」
「くぅん……」
ハティルは少し毛を逆立てながらも、ケロッとした顔で立ち上がった。
ディーンはアンジーから少し距離を取り、声を張り上げる。
「……びびったらあかんでー。犬に預けるんや。自分の魔力を。見てみぃー」
そう言って、ディーンは手のひらに魔力の塊を作り出した。
「こんな感じや」
――ぱしゅん、と一瞬で消してみせる。
アンジーはごくりと息を呑み、もう一度挑んだ。
「……魔力塊を作って、固めるイメージ……それを、ハティルに預ける」
「わんっ!」
「もう一回いいですか?」
「わん!」
アンジーは深呼吸して、両手を胸の前に組み合わせる。
「……魔力を、固める……」
意識を集中すると、空気がピリッと震え、光の粒子がアンジーの手のひらに集まってきた。
淡い光はみるみる膨れ上がり、やがて――拳大の魔力塊へと変わる。
「……よし。これを、ハティルに……!」
アンジーが差し出した瞬間だった。
バチィッ! と鋭い音を立て、魔力が弾ける。
「きゃっ――!」
(だめ……止まらない! 怖い……! ハティルまで巻き込んじゃう!)
アンジーの髪が逆立ち、訓練場の埃が一斉に宙に舞い上がった。
抑え込もうと必死に集中するが、魔力は意志に逆らうように暴れ、光球はどんどん膨張していく。
まるで堰を失った川の濁流のように、アンジーの体から魔力が流れ出し、空間を支配し始めた。
「なっ……!? 1年坊のレベルちゃうで!!量が多すぎや!」
ディーンが叫ぶ。
アンジーの瞳が恐怖に揺らいだ瞬間、
「わんっ!」
ハティルが鋭く吠えた。
(ハティル……!? だめ、危ない……!)
子犬のくせに、迷いのない動き。
次の瞬間、暴走する魔力の奔流に飛び込み、まるで飲み込むように
――その全てを引き受けた。
嵐のような魔力が、あっという間に静まる。
訓練場には再び、埃っぽい沈黙だけが戻った。
「はぁ……はぁっ……」
膝をつくアンジー。
ハティルはケロッとした顔で、尻尾を振っていた。
だが、逆立った毛並みと瞳の奥に、ほんの少し怒ったような色が覗いている。
なんでもっとちゃんと出来ないのか、アンジーに対して不満を抱いているようだった。
「わんっ!」
もう一度!と声をあげているようだった。
「……おいおい」
ディーンは薄ら笑いを浮かべながらも、冷や汗を垂らす。
「フツーやったら今ので、魔力の奔流に巻き込まれて消し飛んどるはずや。……なんやこのいぬっころ。もう熟練コンビみたいになっとるやないか」
気まぐれで教えたはずなのに。
言葉とは裏腹に、その瞳の奥には――見てはいけないものを覗き込んだ時のような、ぞくりとする戦慄があった。




