第53話: 風が呼ぶ契約の日 ― 桜舞う教室にて
アンジーとシュネは、並んで廊下を歩いていた。
休日の校舎は普段より静かで、足音だけが響いている。
「この教室、ですね」
アンジーが扉を見上げ、小さく息を整える。
シュネは扉に視線をやり、まるで儀式に挑むかのような真剣さで頷いた。
「恐れる必要はない。お前ならば、必ず素晴らしい魔獣と結ばれるだろう」
アンジーは緊張しつつも、勇気をもらったように笑みを浮かべ、扉を押し開けた。
教室の中に足を踏み入れた瞬間、アンジーの目は大きく見開かれた。
淡いピンクの花びらがひらひらと宙を舞い、かすかな甘い香りが鼻をくすぐる。
壁際に植えられた一本の大木が、教室いっぱいに枝を広げ、桜の花を咲き誇らせていた。
「わぁ……きれい……」
アンジーは思わず声を漏らす。
その奥に立っていたのは、二人の先生。
ディーンは腕を組み、いつもの軽い笑みを浮かべており、クラリスは白衣の袖を整えながら静かに佇んでいた。
「来たな。遅かったやないか」
ディーンが関西訛りで声をかける。
「こっちは朝から準備しとったんやで」
「す、すみません!」
アンジーが慌てて頭を下げると、クラリスが手をひらひらと振って制した。
「彼が言っていることは気にしないで。そういう性格なのよ。大丈夫。全然待っていないわ。それに、今日は特別な日だもの。緊張するのも当然よ」
「つまらんなー…。まあえぇわ。新人いじめもこれぐらいにしといてやるわ。なぁ、アンジー」
ディーンが教室の中央に進み出ると、桜の枝を軽く撫でた。
「この花、名前は桜っちゅうんや。東の国から送られてきたもんでな。この教室の先生が気に入って、わざわざこの教室に植えたねん。特別な魔法で育てとるんやと」
「桜……」
アンジーはその名を口にするだけで胸が温かくなるような気がした。
クラリスが補足するように言葉を重ねる。
「桜は風を好む花よ。この場所は、風属性の魔獣が姿を現しやすいように調整されているの。アンジーさん、あなたの魔獣はおそらく風系だと思う。だからこの教室が選ばれたのよ」
「……そうだったんですね」
「特別やで」
アンジーは胸の奥で、何かが確かに呼び起こされるのを感じた。
ディーンが腰のポーチから透明な魔石を取り出し、アンジーへ差し出した。
「ほい、これが契約用の魔石や。これに魔獣の力を流し込むんや」
アンジーは両手で慎重に受け取り、宝物のように胸に抱いた。
クラリスが杖を軽く振ると、アンジーの足元に円形の魔法陣が浮かび上がった。
光の紋様が床一面に広がり、淡い桜色の花びらがふわりと舞い込む。
「今回は失敗しないように、私がきちんと補助するから安心しなさい」
クラリスの声音はいつもより柔らかい。
「そやな。安心せぇ。もし暴走しても、ワイがおる」
ディーンは軽く拳を叩いて見せる。
「ありがとうございます……」
アンジーは深く息を吸い込み、手に持つ魔石を強く握った。
アンジーはシュネへと視線を向ける。
彼は背筋を伸ばし、真剣な眼差しで彼女を見つめている。
「……大丈夫だ」
ただ一言。それだけで十分だった。
アンジーは小さく頷き、心を込めて唱え始めた。
「――我と共にあれ、召喚獣よ!」
魔法陣が強く輝き、光は黄金色に変わる。
同時に風が吹き荒れ、桜の花びらが渦を巻くように舞い上がった。
「おお、これは……」
ディーンが思わず口を開く。
「予想以上の反応ね」
クラリスの表情にも驚きが浮かんでいた。
風はさらに強くなり、教室中に圧力が走る。
アンジーの髪がばさばさと乱れ、スカートの裾がひらめく。
やがて――。
「――ッ!」
一陣の風が教室を吹き抜け、魔法陣の中心に煙が立ち込めた。
全員が息を呑む。
期待と緊張が入り混じった視線が集まる。
もくもくとした白い煙の中で、小さな影が動いた。
「出たか……?」
ディーンがごくりと唾を飲む。
煙がゆっくりと晴れていく――。
そこに現れたのは
真っ白な毛並みを持つ、もふもふの小さな子犬だった。
「……え?」
アンジーは目を瞬かせた。
子犬はきょとんとした顔で尻尾を振り、ぺたりと座り込んだ。
その琥珀色の瞳がアンジーを見上げた瞬間、ふわりと風が吹き、花びらが二人の間を舞った。
「……かわいい……!」
アンジーは両手で口を押さえ、思わず駆け寄って抱きしめた。
「な、なんやこれ……」
ディーンが頭を掻きながら呟く。
「でっかい魔獣が出る思とったら……子犬やないか」
「でも、力は確かに風の気配。純度が高いわ」
クラリスが目を細めて観察する。
シュネはしばし無言のまま、アンジーと子犬を見つめていた。
やがて口を開き、低く、しかし確信に満ちた声で言った。
「……間違いない。この獣は、天使に選ばれし存在だ」
アンジーは顔を上げ、笑顔を見せた。
「シュネさん……私、この子と頑張ります!」
子犬は「わん!」と元気よく鳴き、その小さな身体からふわりと風が吹き抜けた。
こうして、アンジーは――
桜舞う教室で、白き子犬と運命の契約を果たしたのだった。




