第52話: 図書館の彼と、天使の笑顔
休日の校舎は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
窓から差し込む光が石造りの廊下を淡く照らし、外の庭では鳥の声さえまばらだ。
普段は人で賑わう魔法学校も、今日はどこか異世界に切り離されたように穏やかだった。
だが――図書館の奥だけは違う。
紙が擦れる音、本棚の間を魔法で浮遊する書物のざわめき。
そこだけが絶えず呼吸をしているかのように、生の気配に満ちていた。
ニースは、机に腰をかけながら片手で魔法陣を走らせ、もう片手で分厚い魔導書をめくっていた。
ページを閉じると同時に本は宙に浮かび、きちんと棚の隙間へ収まっていく。
目線は一切逸らさない。
彼にとっては呼吸のように当たり前の作業なのだろう。
(すごいです……全部、ノールックで……)
戸口からそっと覗き込んでいたアンジーは、思わず小さく息を呑んだ。
まるで彼の周りだけ別の法則で動いているようで、目を離せなかった。
「……おはようございます、ニースさん」
勇気を振り絞って声をかける。
図書館は私語厳禁。
だから声は小さく、ひどく遠慮がちに。
けれど返事はない。
代わりに、ふわりと一冊の本が彼女の顔の前に差し出された。
表紙には大きく「図書館ルールブック」。
開かれたページには、太字でこう記されていた。
【私語厳禁】
「えへへ……」
アンジーは困ったように笑い、そっと本を横にどけた。
その隙間から、まるで日差しのような笑顔を覗かせる。
「ニースさん。私、魔獣大会に出ることにしたんです」
その一言に、ぴたりとニースの指先が止まった。
だが返事の代わりに、また別の本が浮かんできて、彼女の視界を塞ぐ。
「魔獣大会って知ってますか? 優勝すると王宮で働けるそうなんですよ。すごい大会で、学校中でも話題になってて……」
次の瞬間、またも本で遮られる。
まるで「余計なことを話すな」とでも言いたげに。
けれどアンジーはめげなかった。
彼女の胸には確かな思いがある。
「……あの時は、ニースさんのフェニックス…アウロラさんを間違って呼んでしまいました。でも、今日は自分の魔獣と契約するんです。それだけ伝えに来ました」
にこりと笑い、手を振る。
やっぱり返事はない。
けれど、去っていくアンジーの背を、ニースは視線だけで追い続けていた。
***
図書館を出た瞬間、アンジーは息を吸い込んだ。
中の張り詰めた空気から解放され、ようやく心臓の鼓動が落ち着いていく。
だが――そこには腕を組んで待ち構える青年の姿があった。
「……やっと出てきたか」
「シュネさん! ここで何を?」
振り返ったアンジーは目を丸くする。
思いがけず、彼がそこにいたからだ。
「当然だろう。天使がどこにいるか把握できない男など、隣にいてはならん」
「…………?」
意味が分からず首を傾げるアンジー。
要するに、ただのストーカーである。
だが彼女は純真そのものの表情で大きくうなずいた。
「そうですか!」
「……はぁ」
額を押さえたシュネは、深く息をついたあと、表情を引き締める。
「アンジー。お前は……あの男のことが、そんなに気になるのか」
鋭い眼差しが突き刺さる。
アンジーは即座に答えた。
「もちろんです! せっかく出来たお友達ですから。お友達が元気なかったら、話しかけに行くのは当然です」
胸を張り、真っ直ぐな瞳で。
その言葉に、シュネは一瞬で言葉を失った。
(……まただ。俺は……なんと浅ましい嫉妬をしているのだ)
彼の心はぐらりと揺れる。
アンジーの中では「友情」でしかないのに、自分は「独占欲」でしか見られない。
その事実に胸を締め付けられながらも、彼女を見つめずにはいられなかった。
やがて自嘲と共に、敬意が口から溢れる。
「アンジー、お前は……まさに天使だ。広い懐を持ち、誰にでも惜しみなく光を注ぐ。その優しさは計り知れない。人の心を救う光明……世界が待ち望んだ福音だ」
「お、おおげさですよ……」
頬を赤く染め、視線を逸らすアンジー。
彼女にとっては照れくさい褒め言葉でも、シュネにとっては本心だった。
「だが事実だ。だからこそ自信を持て。お前なら必ず、素晴らしい魔獣と契約できる」
真剣な声でそう告げる。
「そして俺は……その記念すべき瞬間に立ち会える。なんという幸運な男だろうな」
「ふふっ、そうだといいですね」
アンジーは明るく笑い、歩き出す。
今日は特別な日――ディーンとクラリスが、彼女の契約を補助してくれることになっている。
そんな二人に見守られながら、アンジーは契約に臨む。
期待と不安が入り混じった胸を押さえつつ、彼女は教室へと足を踏み出した。
(私にできるのでしょうか…?でも、やってみたいです……!)
小さな決意が、心の奥で静かに燃え始めていた。




