第3話: メイドは、秘密を抱えて街へ戻る
ひんやりとした風が、石畳の隙間を這うように吹き抜けていく。
夕暮れの赤が街を染め、広場の喧騒もどこか遠く感じられた。
アンジーは裏通りの片隅で壁に手をつき、肩を上下させながらしゃがみ込んでいた。
息が乱れ、胸の奥にはまだ何かがうごめいている気がする。
「……さっきの、あれは……」
震える指先が自分の胸元をなぞる。
心臓のさらに奥――さっきまで暴れていた“熱”が、まだわずかに残っていた。
(あれが、魔力……? 私の……?)
信じられない。けれど否定できなかった。
たしかに感じた。体の奥で、何かが“目覚めた”瞬間を。
それはただ熱いだけじゃない。荒々しく、制御不能な力。
けれど今は不思議と体が軽く、まるで全身の重りが取れたみたいだった。
(幻じゃありません……。本当に、私の中に“力”があるのですね…)
初めて知る自分。初めて知る、自分の中の危険なもの。
「…………っ」
脳裏に浮かぶのは、あの白髪の青年――シュネ。
冷たい風のような声で、彼は言った。
ーー『魔力の制御もできないエルフが、貴族の街を出歩くな。魔法律に則り……次は罰を与える』
淡々としたその言葉が、心に突き刺さる。
怒りではなかった。ただ規則を読み上げるような冷酷さ。
(罰……。私はそんなに危ない存在なのでしょうか……?)
アンジーは思わず足を抱え込む。手が小さく震えていた。
(もし私が……誰かを傷つけていたら…)
思い出す。魔力が暴れ出した瞬間を。
もしシュネが止めてくれなかったら、街の人たちは――レイナお嬢様は――
「っ……」
胸の奥がキュッと締めつけられる。
ふと地面に落ちていた眼鏡に気づき、震える手で拾い上げた。
額にかければ、金の髪は茶色に、琥珀の瞳は落ち着いたこげ茶に変わる。
エルフの特徴を消し去り、ただの“どこにでもいるメイド”の姿に戻る。
(……本当の私じゃありません…けど)
ほんの少しだけ胸が痛む。
この変装がなければ、受け入れてもらえないのかもしれない。
そんな予感に、心がざわついた。
(……今は、この姿でいるしかないですから)
そう自分に言い聞かせ、壁に手をついて立ち上がる。
ぐっと膝に力を込め、背筋を伸ばした。
「……よし、大丈夫です!」
声に出せば、不思議と力が湧いてくる。
手の震えも収まり、足も前へ進めそうだった。
深く息を吸い込み、アンジーは街の喧騒へ歩き出す。
――まだ知らない。
この力の正体も、シュネという人も、“魔法律”というものの意味も。
けれど、何かが動き出したのは確かだった。
もう元には戻れない。
アンジーは静かに大通りへ戻っていった。
ちょっぴり秘密を抱えたまま――
メイドの仮面の奥に、初めて芽生えた“問い”を隠して。
――そして、あの冷たい瞳を持つ青年の姿が、なぜか胸から離れなかった。