第26話:今までの感謝を伝えに
ライカとアンジーは、ぽけーっと空を見上げていた。
理由は簡単。
従者の仕事が丸ごとなくなり、シュトゥルム家に生活を保証されてしまったからである。
しかも、入学金から受講料、その他もろもろの費用まで、全部お支払い済み。
……さすがシュネの家族、仕事が早い。
おかげで二人は、暇。とにかく暇であった。
「ライカさん、私……少し暇をもらいます。行きたいところがあるんです」
「暇もなにも、今まさに暇だろ。で、どこ行くんだ?」
「以前お世話になったマチルダさんと……それから、スラッジ家に」
ライカは「誰だっけそれ」という顔をしながら空を見上げた。
確か、アンジーが働いていた屋敷のメイド長の名前がマチルダだった気がする。
ふと視線を戻すと、アンジーの手に見覚えのある封筒。マチルダからの手紙らしい。
「なんて書いてあんだ?」
「大したことじゃないんです。元気で働け、とか……メイドの極意とか」
アンジーは小さく笑った。
その笑みは、懐かしさと嬉しさが入り混じっている。
「いい人に会えたじゃん。そいつに会いに行くんだな? じゃ、行くか」
「えっ、一緒に来てくれるんですか?」
「お前ひとりじゃ危なっかしいからな。それとも、墨黒のあたしと一緒は嫌か?」
「そんなことありません! むしろ大光栄です! ライカさんを紹介したいくらいです!」
「ははっ、なんだそれ」
「じゃあ、ぜひスラッジ家にも来てください!ライカさんならいつでもウェルカムです!」
「ああ、そうかい」
ライカがアンジーの頭をぐしゃっと撫でると、アンジーは慌てて髪を手ぐしで直す。
――と、そのとき。
「へぇ、帰省か。じゃあ俺も行こうかな。天使を見守ってくれた感謝を込めて」
ぬっと、シュネが二人の間に割り込んできた。
「うわっ!? お前いたのかよ! いつから!」
「『じゃあ、行くか』のあたりだな。俺の許可なくアンジーを外に連れ出すな」
「お前の許可なんざいらねーんだよ! お前が来ると面倒くさいんだよ!」
「だが足は必要だろう? 歩いて行くつもりか?」
……痛いところを突かれた。馬車があれば楽だし、タダならなお良し。
「シュネ様も一緒ですか? 嬉しいです」
アンジーが喜んだ時点で、ライカに拒否権はなかった。
「だそうだ、ライカ。馬車を手配しろ」
「うっせーな……わかったよ、行くぞ」
ライカがアンジーに手を差し伸べようとした――が、
その手よりも先に、シュネがスマートな動きで彼女を立ち上がらせた。
その紳士っぷりに、ライカはなんとも言えない苛立ちを覚えた。
***
マチルダからの手紙によれば、アンジーがカルディア家を去った後、お嬢様レイナは何もかもが気に入らなくなり、お気に入りの執事もメイド長のマチルダも追い出したらしい。
マチルダは「今まで休まず働いた分、蓄えはあるから大丈夫」と手紙に綴っていた。
アンジーはシュトゥルム家が用意してくれた可愛らしいワンピースに身を包み、耳を隠す白い帽子を深くかぶる。
馬車がゆっくり止まり、マチルダの家の前に着いた。
質素ながらもしっかりした家。
小さな畑や干し物……スラッジ家に似た造りに、懐かしさが胸をくすぐる。
「マチルダさん!」
アンジーが柵越しに呼ぶと、洗濯物を干していたマチルダが振り返った。
しかし――その目には警戒が浮かんでいた。
彼女が知っているアンジーは、茶髪でそばかすだらけの少女。
金髪に琥珀色の瞳の少女など、知るはずもない。
「誰だい?」
だが、後ろに立つライカとシュネを見た瞬間、マチルダは表情を変え、慌てて柵の扉を開いた。
「し、失礼いたしました。シュネ様!」
「俺はただの付き添いだ。天使――アンジーが話をしたいと言ってる」
「アンジー……? どこに……」
「ここです!」
手を上げたアンジーを見ても、マチルダの頭上にはまだ「?」が浮かんでいるようだった。
***
紅茶と菓子を前に、アンジーはこれまでの経緯を説明する。
姿を偽っている理由だけを話し、エルフであることは伏せた。
「魔法学校に入学することになったのかい」
「はい、そうなんです。それで…マチルダさんには本当にお世話になりましたから……ご挨拶したくて」
「わざわざ律儀なもんだね。あんたはあの家で辞めていった何人もいたメイドの一人だよ」
「それでも、私にとっては初めて優しくしてくれた大切な人です。だから、しばらく会えなくなる前に少しだけご挨拶をしたくって…」
魔法学校に通うことになると、完全寮生活になる。
特別な理由がない限り、卒業するまでは魔法学校で生活することになる。
「そうかい…」
マチルダの目尻が少しだけ濡れた、その時――
「そこで提案がある」
シュネが割って入った。
「俺の屋敷から優秀な二人のメイドがいなくなってしまう。とある事情でうちの母に仕えていたメイド二人が雑用係に任命されてしまい、安心して任せられるベテランメイドを探しているんだ。働く場所があるならいいが…ないなら、ぜひあなたに来ていただきたい、と思っている」
「メイド二人って…もしかして…」
ライカは思い出す。
アンジーとライカが必死に勉強していた後ろでいつもこそこそと二人の陰口をしていたメイドのことを…。
あのメイドたちは自分たちの雑用係の仕事をしているのか。
ライカは二人の苦労する顔を想像し、いい気味だと鼻で笑った。
「シュネ様…」
事情を聞いたマチルダは驚きつつも、すぐに深く頷いた。
「役に立てるなら……喜んで」
「天使に優しくしてくれた恩返しだ。気にするな」
「……お前、何様だよ」
「地上に降り立った天使を導く者――『天導師』、どうだ?」
ライカは呆れながら、「そうっすか」と肩をすくめた。




