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第1話: 偽りの眼鏡と奉公生活

 森は静かだった。


 枝の先で小鳥がさえずり、葉をすり抜ける風が夏の終わりをそっと告げている。

 人の気配が希薄なその森の奥深く、小さな木造の家がぽつんと建っていた。

 煙突からのぼる細い煙が、そこに確かに誰かが暮らしていることを物語っている。


 その家に住んでいるのは、スラッジと呼ばれる老夫婦だった。

 かつては王都で名の知れた魔導師と癒し手だったが、今は隠居し、森の中で静かに余生を送っている。


 縁側に、一人の少女が座っていた。


「アンジー、紅茶をこぼしてるよ。どうかしたのかい?」


 おばあさんの柔らかな声に、少女ははっとしてカップを持ち直す。


「ご、ごめんなさい……ちょっと、ぼーっとしてて」


 少女――アンジー。

 この森で拾われてから、もうすぐ五年になる。

 金髪に琥珀色の瞳、透き通るような白い肌を持つその姿は、どう見ても人間ではなかった。

 彼女は、純血のエルフの少女だった。


 おばあさんは精神魔法の使い手で、人の心に浮かぶ“さざ波”を感じ取ることができた。

 出会ったその日、アンジーの奥底に沈んだ、光と闇がぶつかり合う激しい記憶の残滓を見て、ただ者ではないと悟った。


 だがそれ以上に――この少女は、あまりにも幼く、無垢だった。

 だからこそ夫婦は、孫のように彼女を受け入れたのだ。


「アンジー、眼鏡はどうした?」


 低く響くおじいさんの声に、アンジーはびくりと肩をすくめた。


「す、すみません! つい、うっかりしてて……!」


「言い訳はいい。常に、かけておけ」


 ぶっきらぼうな声音で言いつつも、おじいさんはアンジーの頭にそっと手を置く。


「これは特別な眼鏡だ。儂の結界魔法を込めた。これをかければ――髪も、瞳も、姿も変わる。誰もお前をエルフだとは気づかん」


 実際にかければ、金色の髪と瞳はくすんだ茶色に変わり、透き通る肌にはそばかすが浮かぶ。

 そこにいるのは、どこにでもいる普通の少女にしか見えなかった。


「……すいませんでした。ちょっとだけ息苦しくて…」


「贅沢を言うでない。これがなければ、お前の身はとうに狩人どもに奪われていたぞ」


 おばあさんが、苦笑しながらフォローを入れる。


「おじいさんは口が悪いけど、本当はアンジーのことを心配してるんだよ」


 アンジーは小さくうなずき、眼鏡をかけ直した。

 偽りの姿、偽りの過去。

 この家で過ごす時間は、確かに温かかった。

 ……しかし、時は残酷だ。


 老いた二人の体は少しずつ確実に弱り、薬を買う金にも困るようになった。

 働きに出るのも難しく、かつて名を馳せた魔導師も、今は杖をついて歩くのが精一杯だった。


「――奉公に出たいの」


 ある夜、アンジーは決意を込めて言った。


「おじいちゃんとおばあちゃんに……恩返しがしたいのです」


 その目は潤んでいたが、笑顔だった。

 夫婦は互いに視線を交わし、何も言えなかった。


 そして今。


 アンジーは王都の名家――カルディア家でメイドとして働いていた。


「アンジー! これ、ちゃんと磨いたの!? その程度で満足しないでくれる?」


 きらびやかなドレスに身を包んだ少女、レイナ・カルディアが、アンジーを叱り飛ばす。


 年は同じくらい。

 だが、彼女の顔立ちは絵画のように整っており、そしてどこまでも冷酷だった。


「申し訳ありません……すぐにやり直します」


「紅茶はぬるいし、お菓子はまずい。カルディア家のメイドとして恥ずかしいわ。どうしてお母さまは、年が同じってだけで、こんな役立たずを私につけたのかしら」


 わざとらしくカップを持ち上げ――紅茶をアンジーの頭に静かに注ぐ。


「申し訳……ありません」


 頭を垂れるアンジーの身体は小さく震えた。

 レイナはその様子に満足そうに鼻を鳴らす。


(……帰りたい)


 心の奥で繰り返すのは、スラッジ家への強い想い。

 だが戻ることはできない。奉公に出ると決めたのは自分自身だから。


 アンジーは狭い部屋に戻り、濡れた制服を脱いだ。

 ベッドと洗面台しかない質素な部屋。


 鏡の前に立ち、そっと眼鏡を外す。


 映ったのは――本来の自分。

 金色の髪が肩を滑り、琥珀色の瞳が暗がりの中で淡く光を放つ。


(私……)


 その姿を見つめながら、アンジーは気づいた。


 肩が、小刻みに震えている。

 疲れではない。涙でもない。


 身体の奥底で、何かが目覚めようとしていた。


 熱。

 それは、ただの熱ではなかった。


 五年前に失ったはずの力。

 光と闇の狭間で封じたはずの“何か”が――


 今、再び蠢き始めていた。

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