第129話: 共鳴の果てに
――風が吹いていた。
やわらかく、あたたかく、どこまでも優しい風だった。
気づくと、アンジーは花畑に立っていた。
魔法学校の頃、放課後にいつも世話をしていた、あの場所だ。
色とりどりの花が咲き乱れ、甘い香りが風に乗って広がる。
けれど、どこかが違う。
空も、花も、どこか淡く滲んで見える。
「……これは、夢……?」
つぶやいたその瞬間、背後から声がした。
「夢ってわけでもねぇさ」
振り返ると、そこに立っていたのは――リリー。
けれど、その姿はアンジーの知っている彼女とは違っていた。
長い白髪を揺らす、幼い少女。
年齢にして十にも満たないような、あどけない顔。
「リリー……?」
「お前の方が強かった。それだけだよ」
リリーは軽く笑った。
だがその笑みは、どこか寂しげだった。
「ここでのあたしは、見た目どおり。ただのガキだ。力も、プライドもねぇ」
アンジーは胸に手を当てた。
ここは――魂の境界。光と闇の狭間。
ふたりの魂が、完全に“共鳴”した場所。
「あたしは負けた。あとは、消えるだけだ」
リリーは空を仰いだ。小さな肩が、かすかに震えていた。
その背中を、アンジーはただ見つめていた。
「……泣いているのですか?」
「うるせぇよ」
リリーは背を向けたまま、花の中にしゃがみこんだ。
白い花びらが彼女を包み込み、風が頬を撫でる。
「どうして……あたしだけが拒まれるの?」
その声は、痛いほど幼かった。
闇を抱く前の、純粋な少女の声。
アンジーは、そっと彼女の隣に膝をついた。
「あなたは、拒まれてなんていません」
「……嘘つけよ」
「本当です。誰もあなたを拒んでなどいません。あなた自身が、光を閉ざしてしまっただけです」
リリーが顔を上げる。
アンジーの掌から、やわらかな光があふれていた。
花々がその光を受けて、さらに色鮮やかに咲き誇る。
「……眩しすぎて、見えねぇよ」
リリーは視線を逸らした。
「なら、ゆっくり慣れてください。光は、優しいものですよ」
アンジーは立ち上がり、微笑んだ。
「リリー。私と――お友達になりませんか?」
「……は?」
「エルフのお友達って、いらっしゃいます?」
「……」
しばらくの沈黙。リリーは鼻を鳴らす。
「わりーかよ。あたしの周りには低能なエルフしかいなかった」
アンジーはくすりと笑った。
「実は私も、いませんでした」
「……そーかよ」
「はい。だから、きっと気が合うと思うんです」
「……真面目に言ってんのか?」
「大真面目です!」
アンジーの勢いに、リリーは思わず吹き出した。
「ぷっ……あははははっ!なんだよその顔!」
「ふふ。笑ってくださってよかったです」
リリーの笑い声は、風に溶けて花を揺らした。
その音は、まるでかつて失った少女時代の残響のようだった。
しばらく笑ってから、リリーは小さく息を吐く。
「……あー、笑ったわ。最後にいい思い出できてよかったわ」
そして、立ち上がる。
「じゃあな、アンジー。最後に……友達になろうとしてくれて、ありがとな」
アンジーはその手を取った。
「まだ“最後”なんて言わせません」
手のひらが重なった瞬間、リリーの髪がさらりと流れた。
黒が抜け落ち、白に変わっていく。
その様子は、まるで光に染め上げられていくようだった。
「……あったけぇな。お前の光」
リリーが微笑む。
その笑顔は、どこまでも優しかった。
「希望を……捨てないでください」
アンジーは強く抱きしめた。
「一緒に帰りましょう。……一緒に」
リリーの身体が光に溶けていく。
その腕を掴んで離さぬよう、アンジーは力を込めた。
――空が明るくなる。
朝のような光が、花畑全体を包み込む。
それは、絶望の夜を越えた“希望の朝”。
ふたりの輪郭が、光の中で融け合う。
やがて、世界がまぶしい白に包まれた。
* * *
光が消えたとき――アンジーは瓦礫の上で目を覚ました。
黒の聖堂は消え失せ、空は青く澄んでいた。
遠くでライカが叫ぶ。
「おーい! アンジー! 生きてっかー!?」
「……はい……」
声を返すと、ライカが肩で息をしながら駆け寄ってくる。
「まったく……死んでたら張り倒すとこだったわ」
少し離れた場所で、ニースが空を見上げていた。
「……終わった?」
その声は静かだった。
そして、アンジーの傍らに、シュネが歩み寄る。
氷の瞳が、いつになく柔らかい。
「……おかえり、アンジー」
「ただいま帰りました、シュネさん」
アンジーが微笑む。
「リリーは……」
風が吹く。
アンジーの髪が揺れ、その先に――
一人の少女が、花びらの上に立っていた。
白と黒の混じる髪。
闇でも光でもない、どこか中間の存在。
その瞳は、穏やかで澄んでいた。
「……アンジー」
リリーがつぶやく。
「今、ダークエルフのリリーは死んだ。……あたしは、エルフとして生まれ変わったんだとよ」
「ええ。おめでとうございます」
アンジーは涙をこぼした。
リリーも、同じように笑って泣いた。
「なんだよ……泣くなっての」
「泣いてなど……いません」
「嘘つけ」
二人は顔を見合わせて笑った。
太陽が昇り、夜の名残を消していく。
闇を抱えた者と、光を信じた者――
その魂がようやくひとつに溶け合った、奇跡の朝だった。




