第128話: 闇の中心で
――かつて、彼女が笑って暮らした街はもうない。
空には黒い靄が渦巻き、建物は闇に呑まれ、地に根を張るような黒い結晶が地表を覆っていた。
それは、リリーが残した“闇の苗床”。
浄化を試みたエルフたちの光でも、完全には消し去れなかった災厄の地だ。
「……着いたな」
ハティオスの背から飛び降りながら、アンジーは息を詰めた。
金の髪が闇風に揺れ、琥珀色の瞳が、荒れ果てた街を映す。
以前、虚無の廃都の面影はない。
黒く闇で覆われた街だった、何か。
「闇の気配が濃いな」
ライカが鼻をつまんで顔をしかめる。
「ちっ……空気まで腐ってやがる」
「前と雰囲気も全然違うな」
シュネが服の袖で鼻を覆いながら低く呟いた。
「そうですね……とても暗くて、前が見えません」
アンジーが頷くと、ニースが炎の瞳で周囲を見渡した。
黒い霞が街を模っていく。
「でも、行くべき場所は分かってる。――彼女の“家”でしょ?」
「……はい」
アンジーの胸の奥に、淡い痛みが広がる。
そこは、リリーがかつて暮らしていた小さな家。
優しい記憶と、呪われた運命が交錯する場所。
かつて訪れた噴水を越え、まっすぐ進む。
しかし――目の前に現れた光景は、記憶のそれではなかった。
「まるで……聖堂じゃん」
ライカが口を開けた。
「邪悪な、だ。忘れるな」
シュネの声には冷たさが宿っている。
黒い結晶に覆われた建物は、歪んだ礼拝堂のようだった。
闇の気配が濃密で、触れただけで皮膚が焼けるように痛い。
「入りますか?」
アンジーの声はかすれていた。
「入るしかないだろう」
シュネが先に一歩、踏み出す。
――ギィィ……。
真っ黒な扉が、不気味な音を立てて開いた。
次の瞬間。
「よく来たな、アンジー……と、そのお供ども。待ってたぜ」
低く、嘲笑うような声が響く。
リリー。
「そんでもって、さようならーーーだ」
その存在は、闇の中心で、黒い翼を広げていた。
同時に、空間全体が揺れる。
闇の魔力が波のように広がり、四人を包み込んだ。
「うわっ……!?」
「全員…離れるな!!」
シュネの叫びも虚しく、四人の身体は弾かれるように別々の方向へ吹き飛ばされた。
――そして、アンジーの前に現れたのは。
リリーの記憶。
「これは……?」
「記憶の具現化だぜぇ」
リリーが笑う。
彼女の周りには、黒い影が蠢いていた。
「救うだのなんだの……うるせぇんだよ。あたしのことを拒絶するくらい嫌ってくれや!!」
闇の鎖がアンジーの腕と足を縛りつける。
視界の中に流れ込んでくる映像――それは、リリーの過去。
人を殺し、光に拒絶された少女の記憶。
暗く、苦しく、誰にも救われない孤独。
「苦しめよ、アンジー。お前も同じ痛みを見ろ」
リリーの瞳には、悲しみとも怒りともつかぬ光があった。
アンジーは震える唇で、かすかに呟く。
「リリー……あなたは、本当に苦しんでほしいのですか?」
「はぁ? 何を――」
「本当のあなたは、知ってほしいんじゃないですか? この痛みを……この恐怖を!」
「ごちゃごちゃうるせぇな! 何も知らねぇくせに!!」
「理解したいんです……!」
涙を堪えながら、アンジーは両手を合わせた。
神聖魔法の詠唱が始まる。
「――神聖魔法・照寂!」
金色の光が空間を貫く。
だが、リリーの口元が歪む。
「虚闇魔法・影寂!」
光と闇がぶつかり合う。
轟音が響き、地面が割れ、空間が歪む。
「私は……一人では何もできませんでした。でも、皆さんが……助けてくれたんです。だから――今度は私が、あなたを救いたい!」
しかし、押される。
リリーの闇は深く、重く、光を呑み込もうとしていた。
「リリー! 私があなたの居場所を作ります! 約束します!」
「……あたしには、似合わねぇよ」
その瞬間――。
ばりぃん! と、雷鳴のような音が響いた。
闇の壁を突き破って現れたのは、黒髪の影。
「アンジー一人に格好つけさせるかっての!」
ライカが拳に雷を宿し、闇を蹴り裂く。
「あたしも、その“場所づくり”に参戦するぜ!」
ひび割れた空間から、赤い光が差し込む。
炎をまとったニースが現れた。
「……あんたのことは許せない。でも、贖罪の場は必要だ」
肩の上には、フェニックス・アウロラの炎が残る。
「選ぶ権利は、まだある。リリー――お前次第だ」
そして、氷の矢が連続して闇を裂く。
吹雪の中から姿を現したのは、シュネ。
「……遅れて悪かったな」
「シュネさん!」
アンジーの声が震える。
四人は、光と共に並び立った。
闇を前にして、決して引かない姿勢で。
「えらっそうに……」
リリーの表情が歪む。
その瞬間、黒い結界が悲鳴を上げるようにひび割れた。
「お前らまとめて全員……あたしの前から消えろ!!」
リリーが闇の核を展開した。
彼女の命そのものを魔法陣に変え、世界を呑み込もうとする。
「虚闇魔法・冥命!」
空が裂ける。
都市が悲鳴を上げる。
アンジーは手を伸ばした。
「その魔法はいけません!だめです!! あなたを……光とともに連れていきます!! 一緒に帰りましょう!」
神聖魔法が再び光を放つ。
闇と光――二つの魔法が衝突し、世界が崩壊を始めた。
激しい轟音と閃光。
アンジーの視界が、徐々に白く霞んでいく。
「……リリー……」
彼女の声が、誰にも届かないまま――。
ふっと、意識が遠のいた。
光が、闇を包み込む。
そして、静寂だけが残った。




