第122話: 炎が動き対等となる
昼下がりの柔らかな陽光が、森の奥深くに差し込んでいた。
エルフの聖地の静けさの中、牢屋の前でひとりのエルフが――イリアが、にこやかに微笑んでいた。
「さあ、どうぞ。たくさん食べてね」
透き通る木板越しに差し入れられた食器には、彩り溢れる野草のサラダと、黄金色に焼かれた果物、香草のスープ。
見ているだけで身体の奥が温まるような、優しい香りが広がる。
「いただきます…!お母様、本当にありがとうございます」
アンジーは両手を合わせ、瞳を細める。琥珀色の光が柔らかく揺れた。
「アンジーはまたハティオスと出会えたのね?」
イリアは嬉しそうに問いかける。
「はい。忘れていたことを怒られてしまいました。それに…魔力の使い方も、まだまだ未熟で…」
「だが、アンジーは学校で一年目にして優勝した三年といい勝負をしたんです。その時は――」
さりげなく自慢を始めるシュネ。氷の瞳がふわりと柔らかむ。
イリアはそんな息子のような青年を見て、ふふ、と優雅に笑う。
「本当にアンジーのことが大好きなのね」
「そ、そんなことは――あります」
最初否定しかけてから即座に肯定するあたり、隠す気がないのだろう。
アンジーは耳まで赤くして俯いた。
ほのぼのとした空気がその場を包む。
しかし、次の瞬間――
「約束を取り付けてきた」
重い声が空気を引き締めた。ルーヴァンが牢前に現れる。
「…お父様」
「悪いが、食事を終えたらすぐに来てもらう」
「ありがとうございます」
アンジーが深く頭を下げると、イリアはそっと娘の頬を撫でた。
「あなたの選んだ道が、どうか幸せでありますように」
その指先は温かく、震えるような祈りが込められていた。
昼の光がやわらかく森を照らす中、三人は拘束魔法を施されて歩き出す。
「ごめんな…」
ルーヴァンはアンジーにだけ小声で囁いた。
その姿は――誇り高きエルフではなく、一人の父親だった。
* * *
三人が連れて来られたのは、古の神殿だった。
巨大な円柱が立ち並び、蔦が石を抱きしめるように絡みつく。
頭上には天井はなく、青い空と白い雲だけが広がり、風が通り抜けるたびに祈りのような音が響いた。
足元に敷かれた乳白色の大理石は陽光を反射し、まるで天上の庭だった。
その中心に――一人の男が立っていた。
豪奢な白衣、威圧的な光。
その存在だけで空気が震える。
エルフの族長、エルディオス。
ルーヴァンは膝をつき、深く頭を垂れる。三人も従った。
「要件とはなんだ」
短い。冷たい。
声に宿るのは支配者の傲慢さだった。
「エルディオス様…こちらは私の娘、アンジーです」
「ん…誰だ?」
ルーヴァンが顔を上げる。
「我が娘を…お忘れですか?!リリーを封印するため地上に降りた娘です!」
「ほう…そんなこともあったか」
わずかに視線が流れる。それは「興味はない」の意思表示だった。
アンジーの胸はきゅっと締め付けられる。
「命をかけて、一人で…立ち向かったのですよ」
ルーヴァンの声は震えていた。
「ルーヴァン。頭が高い」
「――!」
尊敬するはずの族長からの、無慈悲な命令。
だが父は、それでも耐えた。
「して、その命をかけた娘がなぜここにいる?まさか封印に失敗した出来損ないを連れてきたのか?そして、その後ろの下等生物はなんだ?」
静寂。
そして――
「発言を許可して」
無機質な声が空気を裂いた。ニースだった。
「頭が高い」
「はあ……うるさいな」
面倒くさそうに溜息をつくニース。
「なんだと?」
族長の眉がピクリと動いた。
そこで、ニースが口角をわずかに吊り上げる。
「僕と勝負をしようよ。僕が勝ったら――対等に話をしてもらう」
「話にならん」
「数千年前の価値観で止まった脳みそ。人間がどれほど“下等”なのか、確かめてみたら?」
その瞬間、拘束魔法が砕け散った。
「ニースさん!!危険です!!」
アンジーの叫びは、届かない。
「暇つぶしにはちょうどいいでしょ?」
ニースの背に炎の翼が広がる。
白い羽根のようで、しかし内側には赤熱した火が宿る。
「来い、アウロラ」
炎が渦巻き、聖獣フェニックスが姿を現した。
エルディオスの瞳がわずかに揺れる。
「人間如きが聖獣を…?」
「認められちゃったんだもん。仕方ないじゃん」
軽い。あまりにも軽い。
だがそこに宿る魔力は、龍の咆哮に匹敵した。
ニースの杖が空を裂く。
炎が槍のように飛び、続けざまに風、雷、水――多彩な魔法が連続で叩き込まれる。
「っ…!」
エルディオスは結界を張るが――押される。
神殿の柱が震え、床に魔法の痕跡が刻まれる。
「平和ボケしすぎじゃない?」
「舐めるなッ!」
地面が震え、衝撃波が広がる。
ニースの炎が一斉に消え失せた。
「へえ…やるじゃん」
ニースは手帳を開き、古めかしい木で作られた杖を取り出す。
エルディオスもまた白い杖を掲げた。
静寂。
呼吸すら止まるほどの緊張。
次の瞬間――ニースが踏み込んだ。
身体が霞む。加速、跳躍。
空中で回転し、ひと突き。
杖の切っ先がエルディオスの喉元に触れた。
「対等に、話す気になった?」
族長の肩が震えた。
「……ぐ……」
敗北の自覚が、冷たい空気に滲む。
「………話を……聞こう……」
その瞬間、場の魔力が緩む。
アンジーは胸を押さえ、安堵の息を吐く。
ニースが炎を収束させ、静かに地面に降り立った。
「よかった……」
その呟きは、風に溶けた。
シュネは腕を組み、氷の瞳を細める。
「ニース……お前、ほんとめんどくさいやつだな」
「言われ慣れてる」
ニースは淡々と歩く。
アンジーは胸元を押さえ、震える声で言った。
「ありがとうございます…ニースさん…!」
「僕は必要なことをしただけだ」
そして――
エルフと人間の未来を変える交渉が、いま始まろうとしていた。




