第121話:天使の帰郷と三つの誓い
月光が霧を柔らかく照らし、エルフの家々が静かに光を受けていた。
その中のひとつ、特別な家――アンジーが育った家の前で、ルーヴァンは立ち止まる。
彼は振り返り、後ろに並ぶ三人を見た。
しぶしぶ、という顔は誤魔化す気すらない。
「族長に気づかれる前には牢屋に戻ってもらうからな。特に男二人」
「私はいいのですか?」
「アンジーはエルフだ。それに俺たちの娘だ。どうとでも言い訳がつく」
「ですが…」
「案ずるな。二人のことは、必ず生きて地上に戻すことを約束しよう」
その言葉に、わずかな距離があった。
敬語でも、凍るような拒絶でもない。
けれど、はっきりと線が引かれた声音。
アンジーの胸が痛む。両親と自分の間に、知らぬうちに積もっていた年月の壁がそこにあった。
「さあ、我が家だ。何も変わっていないが、入るといい」
一歩、そして――少し間を置き、
「後ろの2人も…だ」
と言った。
シュネは仮面のような笑顔を崩さず、軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
三人は足を踏み入れた。
* * *
ほのかに匂う甘い香り。
そこに広がっていたのは、天然の調和と芸術の融合。
天井から降り注ぐ蔦の緑、先端に揺れる花の雫。
床は光る大理石で、甘い花の香りが漂う。
「ここが天使が育った家か…」
シュネの胸に、まるで聖地巡礼のような敬虔な熱が湧き上がる。
アンジーが笑った部屋に、自分は今立っている――その事実が嬉しくて仕方ない。
中央の白いテーブルへと案内され、四人が腰を下ろす。
「で、地上の男よ」
「シュネです」
「………シュネ…くん。君とは色々と話さないといけないことがあるな」
怪訝な視線を向けるルーヴァンに、シュネは穏やかに微笑む。
「光栄です。しかし、まずは話すべきことがあるでしょう」
シュネが目線で促すと、ニースが小さく咳払いをした。
「僕は地上の王だ。アンジーから話は聞いていると思うが、国の代表としてあなたたちと真摯に話したい」
「ずいぶんと可愛らしい王様ね」
イリアが微笑む。柔らかい笑みなのに、どこか棘がある。
「あなたたちから見れば、地上の者など赤子同然か」
「そうよ。それと勘違いしないでね。私はアンジーのお友達だから、あなたとこうして話せているだけ。本来なら、人間と視線を合わせることすらないわ」
「お母様…!!」
アンジーの声が震える。しかしニースは、炎の瞳をわずかに伏せ、淡々と答える。
「構わない。事実だし、僕もあなたたちが高貴な存在だと理解している。だからこそ――この場に僕がいることを光栄に思う」
「……ニースさん、そんな卑下なさらなくても」
「事実を言ったまでだ。アンジーが地上でどんな扱いを受けてきたかを思えば、怒りよりも先に吐き気がする」
アンジーの心で、何かが弾けた。
リリーも抱いた違和感。人間を下に見る価値観。それが今、自分を苦しめている。
「お父様」
「なんだ?」
「お父様、お母様に育てていただいた恩は決して忘れません。ですが――私の大切な人たちを侮辱するのであれば、私は……許しません」
小刻みに震える肩。琥珀色の瞳に怒りが宿る。
ルーヴァンが言葉を失った。
「怒って……いるのか?」
「はい。……非常に、不快です」
天使の娘が、初めて親に向ける怒り。
その光景に、空気が痛いほど張り詰めた。
やがて――父はぎこちなく笑う。
「……冗談だ」
それしか言えなかった。愛しい娘を、再び失うわけにはいかない。
「実は……ずっと思っていた。人間をいつまでも下に見る必要はない、と。なあ、イリア?」
「そ、そうよ! アンジーのことを思い続けたのに、みんな“誉れだ”なんて言って――近所では変わり者扱いだもの!」
二人は不器用に笑い、アンジーの肩に手を置く。
「俺たちはずっとお前の味方だ」
「あなたが望むなら、なんでもするわ」
堰を切ったように、両親の本音があふれた。
二人の言葉は止まることはなかった。ずっと思っていた不信感をようやく共有することが出来るのか、と堰を切るようにあふれ出す。
「もう数千年会っていない人間とまた交流を始めても良いと思っていたんだ。連中もいつまでも過去を生きているわけじゃないだろう?」
「ニースさんとシュネさんは過去のことは知っているかしら?」
「はい、全て認知しております。それに、今は法も設備も整っております。同じ過ちを繰り返さないように…我々も尽力を注ぎます」
氷の瞳が静かに光る。
「俺は魔法律という機関で、地上の秩序を守り、裁きを司る立場にあります。エルフの方々が地上で安心して暮らせるよう、法を作ることも可能です」
「まあ……頼もしいのね」
「当然です。そして――そのためには…俺たちは族長と会う必要があります。リリーの父、ですよね」
空気が再び重くなる。
「それが…今回、命を削ってまできた目的なのか?」
アンジーは頷く。
「地上ではリリーが闇魔法を使い人々を傷つけています。多くが犠牲になりました。ニースさんのご両親も、その一人です」
「まあ…」「なんと…」
「とある場所で、過去のリリーと出会い、私は知りました。彼女の痛みも、願いも。だから、私は彼女を救いたいのです。そのためには――エルフ全員の力が必要です」
アンジーは腕の紋章を見せる。
闇と光が絡む、いびつな紋章。
「これは…!!なんて恐ろしい…」
「アンジーは…こんなものを背負っているの?」
「はい。でも――背負ったからには、逃げません」
ルーヴァンは深く息を吐き、目を閉じる。そして、
「理解した。族長との謁見を許そう」
「お父様……!」
「明日、迎えに来る。それまで牢で待ってくれ」
「はい。ありがとうございます」
アンジーが頭を下げる。
ルーヴァンはそっと拳を握りしめた。誇らしさに胸が熱くなる。
「食事は私が持っていくわ。アンジーの暮らしも聞きたいし……未来の旦那さん、でいいのよね?」
「は、はい……ぜひ」
「俺はまだ認めていない!」
ルーヴァンが赤面する。
「だが……アンジーが選んだ男なら、話だけは聞く」
「ありがとうございます」
その瞬間のシュネの笑顔は、仮面ではなかった。
静かで、温かく、救われたような――そんな笑み。
こうして、三人は短い安堵の夜を得た。
明日は――族長との対峙。
そして、真実と戦う時が来る。




