第116話: 氷の誓い、月下の約束
アンジーは、部屋に入る前から感じ取っていた。
――いつものシュネさんとは違う。
背筋を貫くような冷たい気配。
それは怒りでも悲しみでもなく、決意の匂いだった。
彼はいつだって自分を犠牲にすることを恐れない。
だが、自分以外が代償を払うことだけは――何よりも嫌う。
だからこそ、アンジーには分かった。
この静けさの奥に、何か重大な「選択」が隠されていると。
「アンジー。俺はこれから君に――残酷な選択を伝えることになる」
「……残酷な?」
部屋の中は静まり返っていた。
整然と並べられた本棚、きっちりと磨かれた机、落ち着いた香木の匂い。
そのすべてが、シュネという男の性格を映しているようだった。
「でも、誤解しないでくれ。俺はいつだって君の味方だ。だから、その証拠を――今、形にしておきたい」
シュネはゆっくりと手を差し出す。
その手のひらは大きく、少し冷たい。
アンジーは迷わなかった。
ただ、その手を取った。
バルコニーへと続く窓が開かれる。
夜風がふわりと吹き込み、金の髪を揺らした。
月の光に照らされ、二人の影が重なる。
「ここに座って」
促されるまま、アンジーは並んで腰を下ろした。
隣にいるだけで、心が落ち着く。
そんな静かな夜だった。
「……いい風ですね」
「そうだな」
短い会話の後、再び沈黙。
やがて、シュネがゆっくりと彼女の肩に頭を預けた。
アンジーは驚きつつも、何も言わずそのまま受け入れる。
――言葉なんて、いらなかった。
その沈黙は、優しさに満ちていた。
それが逆に、胸を締めつける。
ふいに、温かい手が頬に触れた。
アンジーが目を開くよりも早く、唇に柔らかなものが触れた。
「……っ、シュネ、さん……!」
驚いて押しのけたアンジーの頬は、真っ赤だった。
息が乱れ、肩が小刻みに震える。
「ふっ……息継ぎしてなかったのか」
「す、するものなんですか……!?」
その素直な反応に、シュネは小さく笑う。
まるで氷が溶けるような微笑だった。
「じゃあ、練習するか?」
「し、しません! 心の準備を……!」
「……どうだろう。俺は、待てない」
腰に回された手が、逃げ道をふさぐ。
指先が絡み、鼻先が触れ合う。
「シュネさ――」
その言葉は、唇で塞がれた。
深く、長い口づけ。
胸の奥が熱くなり、何も考えられなくなる。
「最初から離す気なんてない」
低い声が耳に落ちる。
吐息が肌を撫で、背筋がぞくりとした。
アンジーは顔を真っ赤にして呟く。
「……シュネさん、意地悪です」
「悪かった」
言葉とは裏腹に、腕の力は緩まない。
彼はまっすぐにアンジーを見つめ、静かに語り出した。
「お前がいなくなってから、よく考えた。もしアンジーが記憶を取り戻さなければ、俺たちはどうなっていたか、とな」
その声には、いつもの冷静さと違う温もりがあった。
「ニースは王として、リリーと戦う道を選んだだろう。セリウス校長も、それに賛同したはずだ。俺とライカは、命令に従って動いた」
アンジーは息を呑む。
「私は……?」
「お前は、俺の妻になっていたかもしれない。俺の家族を守り、穏やかに暮らしている、なんてな」
「そ、それは――」
「まあ、時期が少し遅れただけだ」
シュネは、ふっと優しく笑った。
「俺はアンジーと、一生を過ごしていきたい」
その言葉は、まるで誓いのように静かで、揺るぎなかった。
アンジーの視界が滲む。
こぼれ落ちた涙が、月光に照らされてきらりと輝く。
「……シュネさん……」
「もう離す気はない。だから――俺と共に歩んでくれるか?」
アンジーは涙を拭い、まっすぐに彼を見た。
「わたしも……シュネさんと一緒にいたいです!」
その瞬間、彼の瞳が柔らかく緩む。
氷のようだった視線が、春の雪解けのように穏やかに変わっていく。
「……覚悟できるか?これから何が起きても、俺は君を手放さない」
「もち、ろんです!」
その言葉に、シュネはアンジーの左手を取った。
薬指に唇を落とすと、氷の粒のような光がふわりと散る。
やがて、そこには――透き通るような氷の指輪が、静かに輝いていた。
「……綺麗……」
アンジーは目を丸くする。
「意味は知っているか?」
「……?」
小首をかしげる彼女に、シュネは小さく笑った。
「永遠の愛の誓いだ。人間の間では、これが証明となる」
「わたしと……シュネさんの?」
「ああ、そうだ」
「……嬉しいです」
アンジーは小さな声で呟き、光る指輪を見つめる。
それは氷のように冷たく、けれどどこか温かかった。
「これが俺の覚悟だ。どんな代償を払うことになっても――俺は君の味方でいる」
その声は、静かに夜へと溶けていった。
そして、シュネはゆっくりと口を開いた。
「……アンジー。エルフの里に行くには、“古代の転移門”を開く必要がある。だが、その門をこじ開けるには——命の魔力が必要なんだ」
アンジーはその言葉を受け止め、シュネが伝えようとしていることを瞬時に理解した。
「私の……寿命を使う、ということですか?」
答えを待たず、彼女の声は震えずに出てきた。
シュネは頷きたくはなかった。
「君一人を取るか…わずかな希望のために人類の未来を願うか…その二択だ」
彼女の誤りのない理解に、ゆっくりと首を垂れるしかなかった。
「正直に言うと、俺は最初、この話に意味があるとは思えなかった。ここまでして高慢なエルフたちの尻拭いをする必要があるのか、と。君を犠牲にするくらいなら、あいつらは――いつも通り高みの見物をしていればいい。それが合理的だ」
「でも、彼らだって当事者です」
アンジーは静かに返すが、その返答にシュネの目が鋭くなり、声が切迫する。
「君の寿命を何年削れば扉が開くか、それすら分からない。最悪――扉が開かず、君の命だけがそこで消えるかもしれないんだ。そんな代償を払ってまで、誰が得をする?誰が責められる?それは――不要だろう?」
その言葉は激しくもあったが、胸の奥では彼女を守りたいという思いが鳴っていた。
アンジーは一拍置いて、ゆっくりと答える。声は静かだが、揺るぎはなかった。
「シュネさん」
「……なんだ?」
「エルフの里に行きましょう」
簡潔だった。だが、その一言に込められた覚悟は重かった。
月光がふたりの間を淡く満たす。アンジーの薬指の指輪がその光を受けてきらりと光った。
「これは、私だけのためではありません。全人類の未来のために、必要な犠牲なのです」
彼女の目は真っ直ぐで、言葉は言い訳の余地を与えなかった。
シュネは言葉を失い、ただその決意を見つめるだけだった。
たとえどれほど冷たく、どれほど痛みを伴うとしても──それは、決して溶けることのない決意だった。




