第115話: 命の門の代償
その話は、すぐに国王・ニースの耳にも届いた。
城内の空気がわずかにざわめき、重い沈黙を割るように、ニースは椅子から静かに立ち上がる。
「……いいよ。ただし、条件は一つある」
紅の瞳が真っ直ぐに光をとらえた。
「僕も行く」
その一言に、会議の場が息を呑む。
理由は単純だった。
――人間の代表として向かうなら、国の象徴が同行するのは当然のこと。
そして、彼自身の内には、誰よりも強い自負があった。
「この国で、僕以上に魔法を扱える者はいない」
誰も、その言葉を否定できなかった。
シュネでさえ、淡々とした表情を崩さずに頷くしかなかった。
事実だったからだ。
護衛を連れていく話も出たが、ニースは一言で退けた。
「人数が多ければ多いほど、向こうに警戒される。僕らだけで十分だ」
その冷静な判断に、重臣たちは顔を見合わせ、ようやく納得する。
やがて全員が退出し、広い会議室に残ったのはニースとシュネの二人だけとなった。
静まり返った空間に、炎のような瞳がゆらりと揺れる。
「ねえ、君はアンジーから……エルフの里への行き方を聞いているの?」
ニースの声は淡々としているが、どこか探るようでもあった。
「聞いたが、知らないと言っていた」
「やっぱり」
シュネは、これまでアンジーから聞いたことを包み隠さず話した。
「天空から落とされたとき、彼女は“片道の使命”しか与えられていなかった。リリーを封印する――それが唯一の目的だったらしい」
ニースは顎に手を当て、静かに目を細める。
「命を懸ける覚悟で送り出された……ね。なら、帰り道なんて最初から存在しなかったのかもしれないね」
「……どういう意味だ?」
「つまり、“古代の転移門”を使うしかないということ」
その名に、シュネの眉がわずかに動いた。
「古代の……転移門?」
「秘伝の魔法だよ。僕の母様しか知らなかったほどの古い術式。一度くぐれば、どんな場所にでも行ける。ただし――」
「ただし?」
「代償がいる」
ニースは懐から、いつも持ち歩いている古い手帳を取り出した。
表紙は革で、長い年月を経たそれは不思議な魔力を帯びている。
母が遺した“魔法陣の書”――開けば、今の彼に必要な魔法が自動で現れる。
「最近、ずっとこの魔法が浮かび上がるんだ。 “古代の転移門”。……最初は、なぜ今これが必要なのか分からなかった」
ページには幾何学的な紋様が並び、見た瞬間、シュネの頭が痛みで軋んだ。
「これを理解できるのか?」
「2日あれば十分。僕にとっては、それくらいの魔法だ」
さらりと言い切るニースに、シュネは息を呑む。
だが、その口から続いた言葉が、場の空気を変えた。
「ただ…代償はね――命の魔力を使う必要があるんだ」
「……寿命を、代償にするということか」
「そう。門を開くたびに、術者の命が削れる」
部屋に沈黙が落ちた。
シュネは拳を握りしめる。
「我々人間の命を使っても、開けるとは限らない……そういうことか」
ニースは短く頷いた。
「彼女――アンジーは、僕らより長く生きられる。その分だけ、魔力も命も深い。おそらくだけど、彼女でなければ、門は開かないだろう」
「彼女の寿命を使っても開かない可能性はあるのか?」
「ある。そして、寿命を使い切ったアンジーは死ぬ。それだけだ」
その言葉が、刃のように胸に刺さる。
シュネはしばらく何も言わず、低く答えた。
「……少し、考える時間をくれ」
「もちろん。でも二日後には答えを出してほしい」
シュネは無言で頷き、城をあとにした。
* * *
――夜。
シュトゥルム家の屋敷に戻ると、玄関で真剣な表情を浮かべながら何かを呟いているアンジーを見かけた。
必死に抑えているー…そんな顔をしていた。
「アンジー?…こんなところでどうしたんだ?」
シュネが話しかけると彼女はぱっと笑顔になる。
だが…握りしめられた腕には紋章がくっきりと現れていた。
「いえ!!シュネさんをお待ちしておりました!お話の結果が気になってしまって…どうでしたか?」
琥珀の瞳が真っ直ぐに彼を見上げる。
シュネはしばし言葉を失い、その笑顔をただ見つめた。
「……特に問題ない。エルフの里には行けそうだ。ニース付きでな」
「それは心強いですね!」
花が咲くような笑顔。
彼女の金の髪が光を受けて揺れ、その輝きにシュネは息を詰める。
気づけば、彼の腕が自然に動いていた。
背後から、そっとアンジーを抱きしめる。
「アンジー……できれば、ずっとこのままでいたい」
「急にどうかしましたか?」
驚きながらも、アンジーは彼の腕に自分の手を重ねた。
そのままくるりと体を回して、彼の胸に顔を向ける。
「……シュネさん、何かあったんですね」
柔らかく微笑みながら、彼の頬に手を添える。
「私は何度もシュネさんに助けられてきました。だから、今度は私の番です。私にできることがあれば、なんでも言ってください」
その言葉に、シュネの喉がつまる。
(やはり……気づいているのか)
迷いを振り切るように、彼は小さく息を吐いた。
「大事な話がある。……部屋でいいか?」
アンジーがこくりと頷いた瞬間、シュネは彼女の頬にそっと唇を落とした。
黄金の光が、夜のランプの中で静かに揺れる。
それはまるで、彼女の命がこれから照らそうとする――“門の光”のようだった。




