第113話: 王立魔法研究室にようこそ
王立魔法研究室の一角。
分厚い本と資料の山が床にまで積み上がり、まるで紙の迷宮のようになっていた。
そこが、クラリスの研究室だった。
「もう約束の時間になるから、離れてくれない?」
「嫌だ」
クラリスは眉間にしわを寄せた。
目の前には、自分より頭ひとつ分は高い青年――ニース。
だが今や“国王”の肩書きを持つ男が、研究室の壁に手をついて、彼女を逃がさぬようにしていた。
「だって最近、避けてるでしょ?」
「違うわよ!忙しいの!!」
「じゃあ、国王命令出していい?」
「嫌な予感しかしないわ。その言葉、嫌いよ」
ニースは小さく息を吸い、さらりと言い放った。
「――抱きしめて」
「はぁっ!?何を言ってるの、あんた!」
「国王命令。三秒以内に。3――」
「ちょっ、やめなさい!そんなの特権乱用じゃない!」
「2……ほら、もう時間がないよ。一――」
「う~~~!」
そのとき、タイミングを計ったかのように、扉を叩く音が響いた。
「助かった……!」
クラリスはニースを思い切り押しのける。
彼は足元に散らばった資料に滑り、情けない音を立てて倒れ込んだ。
「いらっしゃーい!」
満面の笑みで扉を開けると、そこには三人の姿。
アンジー、シュネ、そしてライカが並んで立っていた。
「派手な音が聞こえましたけど……大丈夫ですか?」
アンジーが心配そうに覗き込む。
「大丈夫よ~。ね、国王様~?」
クラリスが軽く笑うと、紙を払いのけたニースが、どこか不機嫌そうに立ち上がった。
その炎のような瞳に、かつての幼さはない。
「先生!お久しぶりです!」
アンジーが明るく笑う。
「アンジーさん。変わってないわね~。さすがエルフ!」
クラリスは目を細め、懐かしそうに抱きしめた。
「なんで……アンジーには出来るの?僕にはしないくせに」
ニースのぼやきは聞こえなかったことにされた。
* * *
研究室の中は、以前と変わらずカオスだった。
床には研究資料、机には試験管や魔石のかけら。
それでも、アンジーは懐かしいような安心感を覚えていた。
「気にせず座ってね。そこ、本じゃないわ、ソファよ」
クラリスの言葉に、三人は散らかった資料を慎重に避けながら腰を下ろす。
「王様がこんなとこで茶ぁしてていいのかよ。暇なんか?」
ライカが片眉を上げる。
「暇じゃないよ。一応、仕事で来てるんだ」
ニースは澄ました声で答えるが、視線を逸らした。
「護衛の姿が見えねぇけど……まさかサボりじゃねーだろ」
「……」
「おい、答えろや!」
ライカが胸倉を掴み、椅子を軋ませる。
周囲の空気が一瞬ぴりついた。
「やめておけ」
シュネが低く言う。
「一応、国王だ。敬意を払え」
「一応ってなに、一応って」
「へーへー。分かりましたよ」
「ニースさんもお元気そうでよかったです」
ライカは舌打ちして手を離すと、再び脚を組み直した。
クラリスが咳払いをして場を戻す。
「はい、みんなお茶でも飲んで落ち着きなさい。報告はそのあとでね」
ティーカップに金色の紅茶が注がれると、甘い香りが部屋を満たした。
やがて、ライカとシュネが森の奥で起きた出来事を語り始める。
虚無の荒都、リリー、そしてアンジーの覚醒。
「天使が天使になった瞬間を見たんだ」
「そういう誇大評価はおいといて…なにがあったのかをちゃんと教えてほしいんだけど」
「む…しょうがない…。アンジー、天使になった証を堂々と見せるといい」
「えっと…天使ではないのですが…。…はい、こちらです」
シュネの声には、わずかな震えと誇らしさが混じっていた。
アンジーは静かに袖をめくる。
その腕には、漆黒の紋章が刻まれていた。
まるで生きているかのように、微かに脈打っている。
「これが……その時に残ったんです」
クラリスは目を細め、眼鏡を押し上げた。
「……闇と光。両方の属性が混在してるわね。とても珍しいわ」
「シュネさんのお母様も、同じことを仰っていました。」
アンジーは不安げに自分の腕を押さえた。
「先生、これ……危険なものなんでしょうか?」
シュネが尋ねる。
冷たい瞳の奥に、心配の色が宿っていた。
「ちょっと待ってね」
クラリスは頷き、机の上に広がる書類の中から、丸い形をした魔道具を引っ張り出す。
クラリスがその球体に魔力をこめると、それは浮遊して淡く光り始めた。
「『アーキスフィア』って言うの。高次の知識を宿している解析球。分析力に長けた魔道具なの。覚えてるかしら?あなたの2つ上のリオン君に頼んで作ってもらったのよ」
「リオン先輩…。はい、覚えてます!」
リオンはアンジーの2個上の先輩だ。
アンジーが1年生の時に開催された魔獣大会で、ライカと戦い、ライカに敗れた先輩。
言動は荒いが、後輩想いでとても頼りになる先輩だ。
たしか、卒業後は家業を継ぐと言っていた…。
「魔法研究の研究結果を形にしてもらったの。この魔道具のおかげで魔法研究が一段と早くなったわ」
「すごいです!」
アーキスフィアはぶぅんと音を立てて。ゆっくりと回転を始めていた。
「ここにその手を乗せてみて。アンジーさん自身の分析が始まるわ」
「……どきどきします…」
アンジーはそっとアーキスフィアに手を置き、ゆっくりと目を閉じる。
すると、黒と白の模様が、まるで二つの力が争っているかのように、わずかに揺れた。
「どうでしょうか?」
「うーん……これは、封印じゃないわ。むしろ“接続”ね」
クラリスが呟く。
アーキスフィアからは読み取れないほどの情報量が書き出されていた。
その一つ一つの文字をなぞりながら、クラリスは目を細める。
「接続?」
アンジーが小首をかしげる。
「ええ。闇の源と、光の根源。あなたの中でそれらが繋がり、ひとつになろうとしてる。つまり――この紋章は“リリーとの繋がり”そのものよ」
部屋の空気が凍りついた。
アンジーの瞳が大きく揺れる。
「リリー……と……?」
「アンジーさんの中でリリーと共鳴したようだわ。今後…あなたはリリーから送られてくる感情が手に取るように分かってしまう…」
リリーの感情がアンジーの心に流れてくる。
怒り。悲しみ。憎しみ。
そんな感情とアンジーは真正面から向き合うことができるのだろうか。
シュネは一抹の不安を覚える。
「それにね、あなたの身体の中には闇と光、どちらの属性も宿っているようだわ。通常では耐えられないくらい禁忌の融合ね」
「そんな状態だったとは…アンジー、身体は大丈夫なのか?」
まさかアンジーがそんな危うい状態になっているとは思っていなかった。シュネはすぐに彼女の身体を確認する。
「大丈夫よ。それを安定させるために紋章として現れたようだし。彼女の中で、闇も光も…どちらも安定しているわ」
「よかった…」
その言葉を聞いて、シュネは胸を撫で下ろす。
「それに、そんなに悪いことじゃないわ。リリーを救う鍵は、その紋章の中にある。あなたが“彼女の願い”を叶えることで、彼女の闇をも溶かせるはずよ」
「リリーの……願い……」
アンジーはそっと胸に手を当てた。
頭の奥で、幻影のリリーの最後の微笑みがよぎる。
――……この魔法は――あたしの、もう一つの願い
「分かりました」
彼女は小さく息を吸い、顔を上げた。
琥珀の瞳に、確かな決意が宿っていた。
「この紋章の意味、私が確かめてみせます。リリーさんを、必ず……」
シュネが静かに立ち上がり、アンジーの肩に手を置く。
「……無茶はするなよ。お前がいなくなったら、俺が困る」
「はい」
彼女は優しく微笑んだ。
クラリスはそのやりとりを見て、ふっと口元を緩めた。
「若いっていいわ〜……これからもこの紋章について、調査を進めるわ。分かったことがあったら、すぐに知らせる。逆にアンジーさんも異変を感じたらすぐに教えてね」
「わかりました!ありがとうございます」
その横で、ニースが紅茶を啜りながらぼそりと呟く。
「リリーは……生きてるよ。しぶといからね」
彼の瞳には、確信めいた光があった。
アンジーは小さく頷いた。
――ならば、もう一度、会いに行かないといけません
その腕の紋章が、かすかに光を帯びた。
闇と光が、再び共鳴を始める。
それが、彼女の“運命の代償”であることを、まだ誰も知らなかった。




