第10話:その魔力、規格外につき
屋敷の空気が、妙に重い。
シュネ・シュトゥルムは机に積まれた魔法律の書類に目を落としながら、ふとペンを止めた。
ページをめくる音が途絶えると、部屋にはただ、静寂だけが残った。
──風もないのに、カーテンがふわりと揺れる。
──窓硝子が、ごくかすかに震えるような音を立てる。
まるで屋敷そのものが、息苦しさを訴えているような、そんな気配。
「……また、か」
低く呟きながら、椅子を離れる。
この屋敷は古いが、それ以上に“精緻”だ。
廊下の温度、空気の流れ、結界の律動──そのすべてが、魔力の揺らぎに呼応する構造をしている。
(魔力が……揺れている)
それは一時的な魔力量の増減ではなかった。
もっと深く、根源的な“本質の波立ち”。
この現象を引き起こせるのは、限られた存在だけ。
──アンジー。
彼女の魔力は“異質”だった。
構造も性質も、何よりその“純度”が常人のものではない。
魔法の訓練を受けたことがないにもかかわらず、無意識に抑え込もうとする力が、時折その器を突き破りかける。
シュネは書斎の扉に視線を向ける。
遠くの廊下の気配すら、わずかに歪んでいるようだった。
「……ライカ。いるか?」
呼びかけに応えるように、本棚の影からぬるりとライカが姿を現す。
月明かりに照らされたその目は、相変わらず鋭かった。
「いるぜ」
無愛想に返すライカ。
「……最近のアンジーは、元気か」
ぽつりと落ちた言葉に、ライカは思わず眉をひそめた。
「は? お前がそれ言う? あたしらから距離取ってんの、バレバレなんだけど」
棘のある声をぶつけるも、シュネは顔色ひとつ変えずに続ける。
「お前には分からんだろうが……屋敷の様子がおかしい。魔力が、揺れている」
その一言に、ライカの表情がわずかに曇る。
「へぇ、魔力探知も出来ないバカなあたしにご丁寧な説明、どうもありがとうございます。感動しすぎて涙が出てきそうだわ」
「無駄口が多いな。緊急事態だということが分からないのか?」
「そりゃあんなに距離取られてるんだから、嫌味の一つや二つ、小言以上に言わせろや」
「………」
「はいはい。分かったよ。やりゃいいんだろ、やりゃ…」
ライカは一度舌打ちした。
そっちにはそっちの言い訳があると、ライカは悟る。
長年従者として仕えているのだ。
シュネと…彼の父親の関係性も深く理解していた。
「ったく……久々に名前呼んできたと思ったら、雑用かよ。ほんっと貴族様ってやつは」
「お前しか頼めない」
「……自分の非力さ、呪っとけよ」
ため息混じりに呟きながらも、ライカは背を向けて書斎を出ていく。
足音も立てずに廊下を進むその背に、彼女自身にも説明のつかない胸のざわつきがあった。
(アンジーの、あの目)
無邪気に笑うくせに、ふとした瞬間にすべてを拒むような、あの瞳。
(……不安定、だな)
ライカの直感は、鈍くはない。むしろ、こういうときほど鋭く働く。
そして今回、その直感が囁いていた。