第104話: 空白の五年と、再び動き出す運命
アンジーが去ってから、季節は幾度も巡った。
青々と茂る木々が枯れ、また芽吹くそのたびに、彼女の残した温もりは少しずつ遠ざかっていった。
――あれから、五年。
シュネ、ライカ、ニースの三人は、無事に魔法学校を卒業した。
それぞれが異なる道を歩みながらも、どこかで心の一部を、あの金髪の少女に縛られていた。
シュネは約束通り、王宮内の「魔法律省」へ勤めることとなった。
新進気鋭の魔法律家として、すでに大臣アルトゥルの補佐を務め、次期シュトゥルム家当主としての責任を果たし始めている。
重厚な机、深紅の絨毯、そして一面を覆う法典の棚。
新たに与えられた部屋の中で、彼は今日も静かに書類に目を通していた。
胸元に光る、銀の魔法律家バッジが微かに反射する。
その光を見つめながら、シュネは窓辺に立ち、透き通る青空を仰いだ。
「……俺は、彼女の記憶の一部になれたことを光栄に思うよ」
柔らかく響いたその声は、誰に聞かせるでもない独り言。
けれど、部屋の隅にいたライカがすかさず反応した。
「まーたそれかよ。五年も毎日聞いてりゃ、もう耳タコだっての」
「何を言っている。今の俺があるのはすべてアンジーのおかげだ」
シュネは机に手を置き、真剣な眼差しを向ける。
「俺は彼女がいつ戻ってもいいように、この地を天使にふさわしい場所にしておく。それが俺の務めだ」
その氷のように澄んだ瞳は、確かな決意を宿していた。
だが、ライカは耳をほじりながら、ふっと鼻で笑う。
「はいはい、立派な志だこと。けど、あいつが戻ってくる保証なんてねぇだろ」
「そんな天使がいなくなって、もう五年か……」
窓から流れ込む風が、彼女の黒髪を軽く揺らす。
ライカの声は、どこか寂しげだった。
「アンジーの痕跡は見つけられたのか?」
「本業に支障が出そうだから、ほどほどにしか探してねーよ」
「な、なんだと……! この恩知らずめ!」
「そう思うなら、お前が探せばいいだろ!」
ライカはシュネに負けじと返す。
「俺だって……そうしたい」
シュネは机に額を伏せた。
「だが……“行ってくれ”と言ったのは俺だ。自分で背を押しておいて、今さら探すなんて……柄じゃない」
「お前の美学なんて知らねぇよ、あほ!」
そんな時――
「シュネくん。いるかしら?」
ノックの音と共に、聞き慣れた女性の声が響いた。
「どうぞ、クラリス先生」
ドアが開き、現れたのは栗毛の長髪に魔女帽子を被った女性。
かつての担任、クラリスだった。
「“先生”はやめてくれる?もう生徒じゃないのよ」
そう言いつつも、どこか懐かしげに微笑む。
「久しぶりっすー。けどさ、あたしたちにとっちゃ永遠の担任っすよ」
「あら。あなたもいたのね。相変わらず仲が良いわね~」
クラリスは微笑みながら、二人に向き直った。
だが、その表情の奥にはどこか疲れの色が見える。
「なんか疲れてます?」
「そりゃそうよ。忙しいわよ………」
クラリスは深いため息をつく。
ライカは「あー」と察したように肩を竦めた。
「有名人になっちまいましたね、先生も。国王直々のご指名、“王立魔法研究 室長”だなんてさ」
先日の王都は、まるでお祭り騒ぎだった。
新王ニースが発した勅命――
“王立魔法研究の刷新と、新たな室長の任命”。
選ばれたのは他でもない、クラリスだった。
かつて教師として魔法教育を担った彼女は…今や王直属の研究者となった。
その名は王都中に広まっていた。
「国王命令ですもんね……」
「断れるわけないでしょ!!ほんっと、あの男……余計なことしかしないんだから!」
クラリスは歯を食いしばりながら天を仰いだ。
ライカは吹き出しそうになるのをこらえる。
「余計なことって言い方よ。名誉な話っすよ?」
「あ、あら……そ、そうね……おほほほ」
明らかにごまかした笑み。
公には知られていないが、ニースがクラリスを側に置きたいがための策であることを、彼女自身が一番よく分かっていた。
「……それよりも、承認依頼を頂戴」
「ええ、かまいませんよ」
クラリスはバサリと複数の書類を机に広げた。
内容は、王立魔法研究での研究内容について、魔法律省の許可承認を得るものだった。
シュネは、書類に目を通し、さらさらっとペンでサインをする。
「ちゃんと読んだ?」
「先生の依頼ですから。問題ありません」
「教え子がいると助かるわ。他の省に行くと、時間かかってしょうがないもの」
承認をもらうと、クラリスはくるりと振り返った。
「ああ、そうだ。ライカさん!依頼通り、ここ数日の“闇魔法”の痕跡を調べてきたわよ」
「早くねーっすか?」
「王立魔法研究ですから。こんなの朝飯前よ」
「助かりまっす!」
クラリスから手渡された複数の書類をライカは一枚ずつ確認する。
王都から遥か北西、深い森の奥にいくつもの赤丸が記されていた。
「……ここ、えぐいっすね」
「そうね。なにか怪しい動きでもあるみたいね」
シュネの瞳が鋭く光る。
「ライカ、行くのか?」
「まあ、2,3日後には…」
「それだと遅い。今すぐ行け」
「はぁ?人づかい荒すぎだろ?断る。お前が行け」
「俺は…」
言葉に詰まる。
「アンジーに会えるかもしれねーんだぞ?」
「ぐっ…」
心の底から会いたいと思っても、身体が素直に動かない。
やはり会うのは気まずい様子だった。
「べーつに元カノに久しぶりって挨拶するくらいなんてこたぁねーだろ?」
「”元”じゃない!現在進行形だ!」
「じゃあ尚更いいじゃねーか」
「だが…」
それでも、動こうとしないシュネにイライラしてきたクラリスは、元教え子に叱咤を飛ばす。
「まーーーったく!!うじうじうじうじしてんじゃないわよ!!会えるかどうかなんて分かんないんだから、とりあえず魔法律省として行きなさい!!これは緊急事態なのよ!国王命令にしてあげましょうか?」
「も、申し訳ありません!すぐに…すぐに行きます!」
二人は立ち上がり、ローブを羽織る。
その姿に、クラリスが呆れながらも微笑む。
「まったく……手間がかかるわー」
クラリスは軽く頷き、扉の外で小さく呟いた。
「……どうか、無事で」
扉が閉まる。
彼らは光を背に、王都の大理石の廊下を駆け抜けていく。
遠く、鐘の音が鳴り響く。
それは、新たな運命の始まりを告げる鐘だった。




