第9話:この屋敷に許されないもの
「ねえ、聞いた? 坊ちゃん、最近さ……使用人と一緒に食事してるんだって!」
「えっ、墨黒と…あと、もしかして、あの冴えない“新入り”とも?」
「そう、あの変な子……なにあの距離感」
「普通の使用人への接し方じゃないわよね。それに、前はもっと冷たかったのにね。今じゃまるで……庇ってるみたい」
「片田舎のどヘンピなところから来たらしいわよ。でも素性は分からないって、怖いわ~」
「怖いわー」
ひそひそとした声が、厨房の空気にじっとりと貼りついていた。誰も否定しない。誰も止めない。面白がるように、噂はさざ波のように広がっていく。
***
その夜、応接室。
「……シュネ」
低く、抑えた声だった。怒ってはいない。ただ、冷たい沈黙をまとっていた。
「家の品位というものを……考え直す時ではないか?」
シュネは顔を上げた。アルトゥル・シュトゥルムー…父の目は揺るがない。試すように、裁くようにまっすぐだった。
「使用人と食事を共にする。それが、貴族のとるべき行動か?」
「……食事に身分は関係ありません。誰と食卓を囲むかは、俺の自由です」
短く返したその言葉に、父の眉がわずかに動いた。
「理想を語るには、まだ若いな」
父は机に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
「そういえば……お前の従者だったか。墨黒の一族の娘、ライカ。あれは元気にしているか?」
その名が出た瞬間、シュネの喉が小さく鳴った。
「……それは、脅しですか?」
「事実を言ったまでだ。私の一声で、あの娘の立場など……いくらでも変えられる」
「……っ」
「それで? 今度は何を隠している」
沈黙。シュネは何も言えなかった。
「屋敷の空気が変わった。重く、歪んでいる。主である私が、気づかないとでも思ったか?」
ギシリと歪む音が窓から聞こえる。
「もう一度、問う。貴族のとるべき行動とはなんだ?」
シュネは目を伏せ、ぎゅっと拳を握った。
***
翌朝。
「シュネ坊ちゃんの従者、アンジー殿とライカ殿は……本日より雑務係といたします」
執事長の無機質な声が、屋敷の廊下に響いた。
「掃除・洗濯・下働き中心に。なるべく、人目につかぬよう……それが我が屋敷の主人からの通達です」
要するに――「表に出るな」ということだった。
裏廊下を、二人の足音だけが静かに響く。光の差さない、冷たい通路。
「……シュネ様、お一人で……寂しくないでしょうか」
ぽつりとアンジーが言った。
ライカは肩をすくめたあと、ふっと笑ったような顔をして、俯いた。
「……あたしのせい、かもな」
「えっ?」
「……あたしがそばにいたから。今まで黙ってた奴らが、動き出した。……あいつも多分、分かってた。けど、それでも――あいつは……」
言葉が途切れる。
アンジーは、静かにその背中を見つめていた。
(……私が事の発端……?)
自分がこの屋敷にいて、普通じゃない自分が、シュネと食卓を囲んだから――?
「……ご、ごめんなさい。あのとき……私が“みんなで食べましょう”なんて、言い出したせいで……」
声が震える。胸の奥に押し込めていた不安が、にじみ出てくる。
「私のせいで……シュネ様に、ライカさんに、迷惑を……」
そのとき。
「……バカ」
ライカがぽつんと呟いて、アンジーの手から一部の荷物をひょいと取った。
「……あんたのせいじゃないよ」
それだけ言って、また黙って歩き出す。
重いはずの荷物が、少しだけ軽くなった。けれど、そのささやかな優しさは、胸を締めつけるほど切なかった。