最終話:春風は蜂の音と共に
女優の端くれたるもの、日頃の運動は欠かせない。
新学期も間近に控えた今の時期は、郊外の運動公園で新鮮な空気を取り込みながらジョギングに明け暮れるのも悪くない。
周囲が開放的だと、演技の練習にも力が入るというものだ。足の休憩がてら、次の撮影に必要な台詞を頭に刻み込んでおく。
「ハアっ!? あんたがそれでいいっていうから、私は今まで……こんなに……手を汚してまで……っ」
今のワタシには、カレの姿がはっきりと見える。
「ワタシのせいにばかりしないでよっ!」
カレの腕を振りほどく為に、勢いよく体を翻す。……そして、人がいることに気づいてしまった。
恥じらい、というモノは演技において取り払っておくべきものではあるが、いかんせんこうも不意にやってくる恥ずかしさにはなかなか慣れない。
しかも、その相手が他ならぬ蜂之音先生ならなおさらだ。
ワタシは私へと自我を引き戻すため、水筒で持参してきたブラックコーヒーを口に含んで思考をリセットする。うん、いつもながら苦い。
私は、先生を観察してみる。
上半身は、黒と白のストライプ柄のシャツの上から鮮やかな黄色のパーカーを羽織っている。下半身は、ダメージジーンズに薄灰色のスニーカー。実にラフな格好だ。遊歩道沿いのベンチの背もたれにだらりとよしかかり、視界はVRゴーグルで塞がれている。音楽でも聴いているのか、耳にイヤホンもしているようだ。
もしかすると、聞いていないかもしれない。
なんとなく気恥ずかしい。聞いていないのであれば、さっさとこの場を去るのが得策だといえるだろう。
しかし、不思議なもので。
ここまで無防備な姿を晒されてしまうと、ちょっとした悪戯心に駆られるのが人の性というものだ。
私はベンチの空いているスペースに腰掛ける。話しかけはしない。「好き」という感情を自覚してしまったばかりに、発言も、行動も、二の足を踏んでしまう。
意を決した。
少しずつ、ほんの少しずつ、ベンチの上に無造作に置かれた先生の左手に、自分の右手を近づけていく。
もう少しで……。
「っ!」
すんでのところで、目の前を一匹の蜂が横切った。驚いて思わず声が漏れる。
先生に聞こえないように、深呼吸。
もうやめ、やめ。こんなこと心臓に悪い。
そそくさと立ち去ろうとした。
「……コイツはただの独り言なんだが」
今日初めての、先生の声。上空から、ゆっくりと一台のドローンが目の前に降りてきた。
「何の用事か知らないが、話しかけにくいならドローン越しでどうだ?」
ずっと、上から見られていた……!?
まだ暑い季節ではないのに、顔中から汗が噴き出してくる。
恥ずかしい。今すぐ走り出したい。
……いや、でも、それよりも。
「……ふふっ、なんですかそれ。変な人みたいじゃないですか」
「いいじゃないか。日向ぼっこついでに話し相手になってくれよ。昼飯にハニートースト作ってきたし、一緒に食べないか?」
今は、先生と話せるこの状況が嬉しい。
「……いいですよ。ご一緒させていただきます」
ハニートーストと、ブラックコーヒー。
暖かな、新しい風に包まれながら口にしたそれらは、これまでに味わったものよりも断然甘い味がした。
〈完〉