7-6 囚われの
〈アヒブドゥニア〉号の船長は耳を澄ませていた。窓の外では車が行き交い、街が日常を送る喧騒が聞こえる。
それらの音に混じり、こちらへ近付いて来る足音があった。
足音が止まる。扉の前で耳を澄ませたのだろう、束の間の沈黙。金属が擦れる微かな音が聞こえたのち、それを叩き付ける激しい音が鳴り響いた。何度も何度も打ち付け、やがて錠前が壊れて落ちる。
扉を封じる鍵という鍵をすべて暴力で抉じ開け、ついにその部屋は封印から放たれた。
籠った空気と煙草の残り香、悪臭が廊下へ流れ出す。来訪者は小さく咳き込み、眼前に広がるゴミ溜めに顔を顰めた。食料品の包装紙や縮んだ吸殻、空き瓶、得体の知れない器具類を踏み締め、そっと後ろ手に扉を閉める。
もし彼がそこでキッチンを振り返れば、食器の山を通り過ぎる黒い影を見てしまったかもしれない。悍ましい牢獄へ足を進めることに躊躇い、彼は小さく主を呼んだ。
『ナーヴィカパティ』
船長は上体を起こした。
『……ここにいる』
足音が近付く。寝室への扉が開かれ、ターバンを巻いた若いイエニチェリが顔を覗かせた。
寝室は食べ物の悪臭こそしないが、隣の浴室から洩れた湿気が別の臭気を催している。
藍色の髪の男は潰れた枕に背中を預け、殆ど開かない双眸で部下を迎えた。腹の上で組んだ指。その右手首には枷が嵌まり、長い長い鎖の先がベッドの背凭れへと繋がっていた。
「アクバル」
名前を呼ばれた忠臣は小さく歓喜の声を漏らし、跪こうと駆け寄った。船長はすぐさまそれを押し留める。
「いい、よせ。こんな所で膝をつこうものなら、何で足を切るかもわからない」
彼の言う通り、床には小瓶やパイプの破片が散らばっている。
「ご無事ですか」
代わりにその傍らで腰を折り、主が身を起こすのを介助する。
久しぶりに見るその顔は監禁生活の間にやつれてしまい、元々細かった体は更に軽くなっていた。
乱雑な髪も幾分伸びた。もはや威厳も風格もない姿に羞恥を覚える気力もなく、船長はただ部下の為すがままに身を任せる。彼の体に栄養失調以外の異常がないことを確認すると、アクバルは周囲を見回して手錠の鍵を探した。
「鍵は……」
「ないかもしれない。アラストルがいつも持ち歩いていた」
「では、叩き切ります」
「頼む」
アクバルが刀を抜く。それは前の主から――今は亡きバーブル帝から――譲り受けた極東の刀だった。
繋がっていた鎖はそれほど太いものでもなかった。玩具のような代物で、刀を垂直に振り下ろすとあっさり断ち切れる。右手には手枷が残ったままだが、漸く船長は拘束から解放された。
「歩けますか?」
「ああ、一応」
ヨレたシャツにスリッパという服装はまさに病人だ。ゴミの山を踏み越える足取りは覚束ない。アクバルはいつでも支えられるよう傍に控えた。
「あまりご無理はなさらぬよう。このまま外へ出るのは難しいでしょうか?」
「いや、すぐにでもここから出たい」
アクバルは船長を浴室に連れていき、彼が身支度を整えるのを待った。冷水のおかげでいくらか顔付きはさっぱりしたが、明らかに不健康な様は拭えない。病棟から脱走したと思われてもおかしくはないだろう。
「ナーヴィカパティ、あなたには湯浴みと清潔な衣類、あとは栄養が必要です」
「それから苦い珈琲と極上のワインも」
「酒はまだ控えた方がよろしいかと」
船長が元々着ていた衣類は窓際に畳んで置いてあった。畳み方は丁寧なのに洗濯せず埃をかぶったまま異臭を放っている。辛うじて上着だけを救い出し、それを羽織って外へ出た。
アラストルのアパートは老朽化が激しく、壁の塗装は剥がれ落ち、剥き出しの配管からは水が滴っていた。埃と黴の匂いがムッと鼻を突き、視界の隅を虫やネズミが走り去っていく。それでもあのゴミ溜めのような牢獄よりはずっといい。船長はひんやりした外気を吸い込み、久々の臭いに激しく噎せた。
「階段です。気を付けてください」
アクバルが先に立ち、数段下で彼を待つ。船長は湿った壁に手をつきながら慎重に下り始めた。しかし、監禁生活による肉体の損傷は甚だしかった。萎えた筋力は彼の体重を支えることができず、あと少しの所でガクンと膝から折れてアクバルの腕の中に倒れ込んだ。
眉間に皺を寄せて覗き込む部下の顔を、船長は気まずそうに見上げた。
「すまない。ここまで体が使い物にならなくなっているとは思わなかった」
「失礼を承知で申し上げますが、脱出を試みるからにはそれだけの備えが必要だったかと」
「動ける範囲でできることはしていたつもりだったのだが」
それでも、と船長が続ける。
「アラストルがいつ帰ってくるかもわからない。できるだけ早くこの街から脱出しなければ」
その時、ハッとアクバルが身構えた。主を庇うように一歩前へ踏み出し、腰に備えた刀剣の柄に手を掛ける。
何事かと視線を辿ったその先には、廊下の角から片目を覗かせる若い娘の姿があった。
「何者だ!」
アクバルが怒鳴る。娘はヒッと声を上げ、廊下の向こうへ頭を引っ込めた。
『アクバル、大声を出すと誰かに気付かれる』
船長が嗜める。幸い、その声に対する他の反応はないようだった。
再び娘が顔を覗かせる。
奇妙な容姿の娘だ。少なくとも欧州人ではない、アジアでも極東寄りの顔立ち。艶のある黒髪を揃えて切っており、所々に鮮やかな紐を編み込んでいる。丸い輪郭と丸い瞳は一見地味な印象を与えるのだが、目尻に挿した化粧の色が、いかんせん彼女の童顔に似合わないビビッドな色なのである。
怯えた態度の中に好奇心を押し殺し、おずおずと踊り場の二人を窺っていた。
「あのぉ」
発せられたのは英語。発音はぶつ切りで特徴的な訛り方をしていた。
「何か、お困りですかぁ……?」
奇抜な化粧のわりには控えめな物腰の娘である。奇抜な髪色の男と奇抜な服装の青年は顔を見合わせ、その光景は傍目にも奇妙な瞬間だった。
「あー……いや、その、困っていない」
言語に不自由な娘でもわかる程の嘘である。
「えっ。いやぁ、どう見ても困ってるでしょ……具合、悪いんですか? お医者さん呼びますか?」
「結構だ。少し躓いただけだ。何でもない」
船長は上着の前を掻き合わせながら顔を背けた。
娘は諦めがつかないようで、物言いたげな表情のままじっと二人を見つめている。彼女が声を掛けた理由は好奇心よりも善意の方が強かったのだろう。派手に塗られた爪を口元に持っていき、情けなく唇を動かしていた。
『……始末しますか?』
アクバルがぽつりと呟く。船長は噎せた。
『待て。ただの若い娘だろう』
『姿を見られましたが』
『何もしていないのだから危害を加えるわけにはいかない』
「ええっとぉー……もしかして、もしかするとだけど――隣の部屋から出てきた人?」
「あ?」
娘は恐る恐る指差した。彼らが出て来たアラストルの部屋は、千切れた鎖もそのままに、鍵が壊され扉が半開きになっている。
船長はまじまじと娘を見上げた。
「あっ、やっぱりそうなんですね。ガッシャンガッシャンうるさいから何事かと思ってたんだけど。そうかぁ、ついに扉の封印が解かれたのかぁ」
娘は神妙な面持ちで頷いており、男二人は目を見合わせた。
『やはり始末しておきましょう。例の男と繋がっているかもしれません』
『まさか。あんな娘は一度も――いや、どんな可能性も否定はできないか……』
『怪我をさせるわけではありません。すぐに連絡されないよう、軽く拘束して転がしておくだけです』
『念のためだ、止むを得まい……そうすることにしよう』
船長は娘に向き直った。
「すまないが、少し聞きたいことがある。話をさせてくれ」
娘は無邪気に微笑んだ。
「あっ、はい。もちろんどうぞ」
船長が階段を上る。アクバルが一歩遅れてそれに続く――が、ゆっくりと三段目に足を掛けたところで、船長は脳が機能のすべてを停止したのを感じた。
ぐにゃりと歪んで回ったのは、視界か、内臓か。吐き気が込み上げると共に視界が外枠から白く浸食されていき、堪らず壁に縋って蹲った。
『ナーヴィカパティ!』
咄嗟にアクバルが肩を抱く。上階の娘も慌てて駆け下りてきた。
「大丈夫ですか! 吐きますか!」
船長は蒼白い顔で娘を見上げた。
「問題ない、立ち眩みがしただけだ」
「おじさ……ええと、お兄さん貧血ですよ、それ。部屋に戻って少し休んだ方がいいんじゃないかなぁ? よかったらアタシの部屋来ます? カモミールティー淹れますよ」
これ幸い、と男二人は目を見合わせた。
船長が頷く。
「それは有難い。すまないが、少し世話になってもいいだろうか」
「いいですよ。ゆっくりで平気だからね、気を付けて」
船長は壁についた手に力を込めて、フラついた体を支えるため踏ん張った。まだ脚に力は入らず、その努力は意味を為さない。
すかさずアクバルが屈み込み、痩せた長身を抱き上げた。
「うわぁ」
「……案内を」
船長は心をむにして娘を急かした。




