7-5 帝国語の手紙
それから何日が経ったか。
気怠い声が聞こえる。二つの部屋を隔てる扉は建付けが悪く、隙間から隣室の音が漏れていた。
男の言葉が息を引き摺る度に、煙草の煙も宙に溶けて漂ってくる。いちいち日付など数えていないが、監禁されている間に彼もその臭いに慣れていた。
一度、無理矢理それを咥えさせられたことがある。堪らず噎せ返って吐き出して、その痕がシーツに黒く残っていた。たまに指を突っ込んで穴を広げては、シーツくらい新しいものに取り換えてほしいと願う。
いつしか隣室の男は電話を置き、盛大な舌打ちの後に彼のいる寝室へ来た。ゴム草履が扉を蹴り開け、不機嫌そうな顔が覗く。
波打つ黒髪には編み込みが三本。その両眼さえ狂気に淀んでいなければ、さぞ夜の相手には事欠かないだろう、そんな容姿。
男はベッドの横に仁王立ちし、彼のことを見下ろした。
「ったくよぉ――……」
長い溜息。
「面倒掛けさせやがって……俺ぁ出るぞ」
男は随分短くなった煙草を床に落とした。ここは室内だぞ、と諫めることもなくなった。火事だけは心配になるけれど、吸殻一つなんてすぐ埋もれてしまうほどに、この部屋は既にゴミ溜めと化している。
「いい子にしてろよ? 身の回りのことはてめぇでしろ」
〈アヒブドゥニア〉号の船長は不満げに言い返した。
「……そもそも監禁なんてされなければ、自分のことは自分でやっている」
「嘘吐くんじゃねェよ。あの眼鏡小僧がいないと洗濯もできねぇじゃねえか――食べ物は棚ん中だ。水もその辺に転がってんだろ」
「珍しく待遇がいいな」
「あ? いつだって手厚くもてなしてやってんだろうが」
棚にはいつのだかわからないシリアルや、石のように硬いパンしかないことを知っている船長は、それ以上何も言わないことで遺憾の意を示した。
アラストルはボストンバッグに必要な物を放り込み始めた。
「……アラストル」
男の背中を呼び止める。
「手紙を、〈アヒブドゥニア〉に。頼む」
差し出された封筒はまだ封がされていない。なぜならアラストルが見るからだ。
「変なことは書いてないな?」
「商売上の指示だけだ」
「――そうみてぇだな」
口では同意しつつも、目線は紙面を離れない。きっちり手紙の検閲を済ませ、アラストルは二枚目以降の紙束を捲った。
「んで? こいつぁなんだ?」
そこには二行ずつ短い文章が書いてあり、上の行は英語、下の行には丸みを帯びた独特の文字が紙面上をのたくっている。何度も書き損じたのか二重線が目立ち、その文字を船長自身も使い慣れていないことが見て取れた。
「新しい部下に英語を勉強させるための教材だ」
アラストルには読めない文字。彼はふんと鼻を鳴らしつつ、それでも最後まで目を通した。
「自作したのか? 暇な奴だな」
「退屈凌ぎにはなった。頼むぞ」
「高くつくぜェ――……?」
アラストルは部屋を出て行った。
船長は牢獄に残された。
***
ジェノヴァ駅にて。
一等車両から背の高い青年が降り立った。
もう夏と呼んでもいいだろうこの季節、糊の効いた白いシャツが目に眩しい。人混みを見回す眼差しはどこか明るく、この約半年間に彼の瞳を覆っていた厚い雲は、地中海の熱い日差しに溶かされて消えてしまったようだった。
これまでなら苛立ちを買っていた喧騒も、今のエアロンには小鳥の囀りほどに気にならない。
「病院の方はどんな感じ?」
出発前の電話にて、数百キロ離れた場所にいる相棒が溜息を吐く。
『撃沈。何度行っても面会拒絶だ。ヴィズは相変わらず病室に閉じ籠っているらしい』
「お前の人相が悪すぎて、看護師に信用してもらえなかっただけじゃない? いつこっちに帰ってくるつもり?」
『もう暫くここに残る。ほっとけないだろ』
「程々にしなよ。ああ、シスター・エウラリアが孤児院を出て行くかもしれないって。今のところはセメイルの介助に勤しんでるけど、彼が生活に慣れたらローマに戻ろうかって言ってる」
『あの人がいると怖いからな……椿姫主任とは連絡取れたのか?』
「聞いてよ! こないだ電話があってさ、当分戻らないから自分のことは気にするな、だって。気にするも何も、どこで何してるかわからないんだから、どうしようもないじゃんか!」
『ふーん』
グウィードは心底興味がなさそうに返した。
『あとはー……ああ、〈アヒブドゥニア〉は?』
「〈アヒブドゥニア〉はね――」
そして、エアロンは今ジェノヴァにいる。
突然、連絡が取れなくなった。否、取ること自体は可能で、実際彼は船員の一人と連絡を取り、現在〈アヒブドゥニア〉号がジェノヴァ港を中心に活動していることを突き止めた。
電話に出た船員は律儀に経営状況まで伝えてきたが、それがどうも様子がおかしい。本来その役目を負っている『あの男』が話題に出ず、腹心の部下である航海士さえも、電話口に姿を見せない。
なんだかわからないが、変だった。
とりあえず、港の方へ行ってみる。帽子とサングラスが必要だ、と忌々しげに細めた視線はジェラテリアへと彷徨い、水気を求めて喉がごくりと大きく鳴った。
面倒な仕事は早く終えよう。ついでにジェラートはおっさんに奢らせよう――そんなことを考えて歩くうち、ついに視界が開けて青が飛び込んできた。
海鳥が騒ぐ。荷降ろしのクレーンが唸り、小型のトラックが荷物を積んで横切って行った。客船用の桟橋付近は観光客が右往左往。煙草を咥えて歩く船乗りは身形もきちんと整っており、馴染のナポリ港よりも近代的な港に見える。
さて、〈アヒブドゥニア〉号は、と桟橋を見回し、そういえばもう木造船ではないのだったと顔を顰めた。新しい船は小振りだと言うこと以外に大した特徴があったとは思えない。見つけられるだろうかと心配したのも束の間、代わりに「船」の方が彼を見つけた。
「あれっ、もしかして副主任じゃないですか?」
駆け寄ってきた船乗りに見覚えはないが、彼の自己紹介に〈アヒブドゥニア〉という単語が出て来たので、エアロンは笑顔で彼の後に付いて行った。
「ミナギ! 副主任がお見えだぞ!」
新〈アヒブドゥニア〉号の甲板に上るなり、船乗りは船長室に向かってそう叫んだ。
エアロンはキョロキョロと船を見回すが、一番に彼を迎えるであろう藍色も、この船へ送り出した異国の青年も現れはしなかった。程なくして彼は船長室へ通され、書き物机で頭を抱える若い航海士と対面した。
「……副主任」
航海士ミナギは虚ろな瞳で彼を見る。そこに緑の光が戻るなり、机についた手を視線が降りる。いつもの生意気な態度はどこへやら。一方のエアロンは航海士よりも室内の生活感の無さに興味があるようで、寝た形跡のないベッドや整列した戸棚のワイングラスを眺めていた。
「あれ、船長は?」
途端に俯いてしまうミナギ。汚れが目立つ眼鏡のレンズを金の巻き毛が覆い隠した。
「……いません」
「いないの? もしかして、まだ病院から戻ってない?」
「いえ。船長は、船長は……俺のせいで……」
拳がきつく握られる。何か強いストレスが彼を揺さぶっていた。
そのはっきりしない様子にエアロンは苛立ちを覚え、腕を組んで足を踏み変えた。
「何かあったの?」
それは説明しろという脅迫だ。ミナギはオロオロと視線を泳がせながら話し始めた。
「船長がアラストルを連れて戻ってきた次の日でした。港の管理事務所から帰ろうとしたら、黒髪の女の子が現れたんです。俺、何が何だかわからないまま人質に取られちゃって。船長は何もできなくて……俺のせいなんです、俺が……」
耳がある単語を捉えた時、エアロンは呆然と脳裏に浮かぶ甘い笑みを思い返していた。
黒髪の、少女。
彼女は藍色の剣士の懐に飛び込み、そして。
「――船長は、腹を裂かれて」
エアロンは叫んだ。
「まさか! 無事なのか? 彼は、船長は!」
ミナギは辛うじて首を縦に振って見せたが、自責の念に駆られているらしくまた頭を抱えてしまう。煮え切らない返事に痺れを切らし、エアロンが乱暴に肩を掴む。
「おい、ミナギ!」
「ぶ、無事です! ――ちゃんと処置して、今は療養中です」
エアロンは一先ず溜息を吐く。
「そう……」
だが、その顔はすぐに強張った。心拍数が上がるのを感じていた。
「それで、『あいつ』だったんだろ? そんな芸当ができる女の子なんて、そんなことを仕出かしそうな奴なんて、メルジューヌしかいないんだから――……!」
思い出されるのはローマの聖戦。
窓から飛び去る前に、あの愛らしき殺人鬼は言ったのだ。
――きっとまた会いたくなるわ。
――だってあたし、近いうちにもっとあなたに嫌われるようなことをする予定なんだもの。
それが、これだ。
「彼女は他に何をした? 何人殺られた! 何を奪われて、何を――」
「それだけ、それだけです! 運良く『あの人』が戻ってきて、その子と連れを追い払ってくれたんです」
ミナギは弁解するように叫び返した。
「なんだよそれ! なんだって彼女が船長を狙う? 絶対何か目的があるはずなんだ。そんな、ただ僕に嫌がらせをするためだけだとか――」
激昂したエアロンは、項垂れるミナギを見て我に返った。
どうせ考えてもわからないし、今急いで考えることでもない。本題はそこではないのだ。
「……で? 船長は今どこに?」
「アラストルの所です」
吐き捨てるように、答えた。
エアロンはフラフラとベッドに歩み寄って身を沈めた。主不在のマットレスが柔らかく彼を受け入れる。怒りや戸惑いが頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回し、彼は込み上げた吐き気をなんとか抑えた。
「なんでもっと早く僕に報告しなかった? 〈アヒブドゥニア〉の上司は僕だ。船に何かあったんなら、僕にも連絡を入れるのが筋じゃないの?」
怒りの籠った声で言う。
航海士の表情は見るに堪えない。眉尻と共に口角も下がり、緑の瞳は今にも泣きそうなまま彼を睨み付けている。噛み締めた唇から震える息を吐き出して、彼は憐れな反撃に出た。
「会社なんてもうなくなったじゃないですか! うちはうちでちゃんと商売を続けてる。船を不在にしてたって、俺たちの船長はあの人だけです。あんたに一々指示を仰ぐ必要なんかない」
エアロンは自分の中でブツリと何かが切れる音を聞いた。感情がスッと引いていき、冷たい怒りに脳が支配されていく。
「……それじゃあ、船長からの指示はあるわけか」
辛うじて、怒りを押し殺した声で言う。
ミナギは手元に広げられた紙面を指差した。
「手紙が来ます。船のことや得意先のことが書かれてます。それに、自分が船を離れていることを誰にも言わないように、と」
「ふん。あの人自身が僕に隠したがってるって?」
エアロンは鼻を鳴らした。
「船長は命を狙われたんですよ。安全な場所に身を隠す必要がある」
「アラストルの所が安全? どうだか。きっと碌な目に遭ってないだろうね」
エアロンは手紙を懐に入れると立ち上がった。唖然とするミナギを見下ろす。
「船長の所に行ってくる。隠れ家の場所が僕の知ってるのと変わってたらそれまでだけどね――その間、〈アヒブドゥニア〉には長期休暇を言い渡す」
「はっ?」
「休暇だよ。船員みんな、金だけ持ってどっか行っちゃえ」
副主任の指示は半ば投げやりで、航海士は理解できないと抗議した。
「えっ、どうして? 仕事の指示はもらってるって言ったじゃないですか!」
「お前たちの身の安全のためだよ。メルジューヌは――いや、僕らのことが大好きな『アイツら』は、なんでか知らないけど船長のことを狙っているんだろう? 本人が見つからないのであれば、次は彼と結びつく誰かを人質に取ろうと思ってもおかしくない。あのおっさんのことだよ、誰かが捕まったらすぐにのこのこ助けに行くのさ」
そう言うエアロンの目は、ミナギに責任の一端を思い出させることで責めていた。
「そういうことは困るから、〈アヒブドゥニア〉の船員は全員どっかに行っちゃえって言ってるんだ」
ミナギは暫くじっと彼を見つめていたが、結局彼の言う事が正しいと受け入れたようだった。若い航海士は肩を落とし、震える声で小さく言った。
「……わかりました。全員に伝えます」
「取引相手に断りを入れて……うーん、やっぱりおっさんと直に連絡が取りたいな」
エアロンは新たな仕事に考えを巡らせた。
ミナギはのろのろと扉へ向かった。元々溌剌とした若者ではなかったが、船長の不在は彼の心の支えの一切を取り去ってしまったように見える。
失って崩れてしまう支えならば、その関係は「依存」と呼ぶ。航海士ミナギは依存するまでに信奉していた主を失い、そのために自分の意思や考えると言う行為さえも忘れてしまったようだった。
ふと、エアロンが目を上げる。彼は航海士を呼び止めた。
「そういえばさ」
「はい」
「アクバルはどうしたの? 彼、無事にここに着いたんでしょ?」
そこでエアロンは、またまずいことに気付いてしまったのだと悟った。
「……さあ」
「さあ? 知らないの?」
振り返ったミナギに表情はない。
「知りません。昨日……いえ、一昨日くらいまではいたんですがね。気付いたら姿を見なくなっていました。一足早く休暇に行ったのかもしれませんね」
「馬鹿」
胃の底からギリギリと這い上がる痛み。エアロンは鋭く睨み付けた。
「ねえ、君ってそんなに頭の悪い奴だったっけ? アクバルを独りにするのはまずいってわかるだろ。まだアバヤ人への不信感は完全に払拭されたわけじゃないんだから!」
「大丈夫ですよ。どうせ独りじゃ遠くにも行けないでしょ――いつも船長にべったりで、この辺の言葉も碌に話せやしないんですからね」
「だからこそ、独りにできないんだろ! この馬鹿!」
エアロンは苛々と親指を噛んだ。
「くそっ、せっかく問題事から解放されたと思ったのに……ミナギ、船長からの指示は手紙だって言ったな。アクバル個人に宛てたものはあった?」
ミナギは相変わらず生気のない瞳で、何が問題なのか理解できないようだった。
「はぁ。そういえば、ありましたね。手紙と言えるかはわかりませんが。英文に帝国語の訳が付いた、学習教材みたいなやつだったと思います」
「それだ。そんなのわざわざ同封する必要ある? アクバルは英語なら問題なく読める」
「でも、書かれていた英文は本当に当たり障りのないもので……あっ」
漸くミナギが思考力を取り戻した。
その目が徐々に開かれていく。
「……他に帝国語、読める人いないんだっけ?」
「いません。嗚呼、副主任!」
ミナギが悲嘆の声を上げる。
船長とアクバルを除いて、この船に帝国語が読める者はいない。つまり、翻訳として書かれていた帝国語が本当に英文と同じ内容だったのか、確かめられる者はいないのだ。
アラストルの目を掻い潜り、船内の誰にも知られずアクバルだけに意思を伝える方法。
船長は一体何をアクバルに託したのか。
「その紙はまだここにある?」
「アクバルの部屋にあるかもしれません。見てきます」
航海士が早足で去った後、エアロンは苛立ちを長い溜息として吐き出して、卓上に残された手紙に指を走らせた。
確かにこの癖のある筆跡は船長のものだ。さらさらと流れるように文字を綴り、繋がった単語は一見すると転がったバネのよう。それでいて小文字の点は必ずきちんと必要な場所の上にある。速筆さと書き手の律儀な性格が鬩ぎ合っているような文字だった。
ミナギが戻ってくる。
「これです、たぶん」
「ありがと」
英語で書かれた用紙には、海運業でよく使われる一般的なやりとりが記されていた。操船時の指示や各部の名称、港湾事務への手続き、銀行で両替する時の頼み方など。彼がその手紙を書いたということ以外に、彼の無事を伝える内容はない。
一方で、帝国語が書かれた紙はというと。
エアロンは開くなりそれを後悔した。ミナギが眉を寄せる。
「副主任、読めるんですか?」
「全然」
航海士は理性と共に生意気さも取り戻していて、心底馬鹿にした目でエアロンを見上げていた。
「どうするんです?」
「あの人だって勉強したんでしょ。部屋を探せば辞書か参考書くらいあるんじゃない?」
不在の人間にプライバシーなどあったもんじゃない。
語学書が収められた本棚はミナギが場所を知っていたが、帝国語の教材は見当たらない。仕方なく二人は部屋中を物色し、品の良い書類入れの中からそれらしき紙束を発見した。
筆跡を見るに、それらは複数の人物によって書かれていた。一部は紙質もインクも異なる異国の文字。付け加えられた繊細な筆跡。そして、それらを基に学習したであろう船長自身の書き込みだった。
「へぇ、やっぱり主任が仕込んだんだ」
エアロンは興味深くそれらを眺め、これまた見慣れた上司の筆跡に目を細めた。
「んー、文字の違いが厄介だけど、単語や数字の対応表はありがたいかも」
ミナギが横から覗き込む。可愛らしくデザインされたようなアバヤ文字は、彼には奇怪な文様にしか見えなかった。
「使えそうですか?」
「なんとかね。うん、これは面白いな。船長がどうやって言葉の勉強をしているのかって、前からずっと気になってたんだ。僕なんか体罰付きのスパルタ教育で叩き込まれたのに、あの人って自力であっさり覚えちゃうじゃない? なんかムカつく」
「ああ見えて、船長も航海中は勉強のしっぱなしですよ」
やっと本調子に戻ったミナギが、案の定ムッとして船長の肩を持った。
「じゃ、とにかく僕はこれを読むことに専念する。ミナギくんはいらないから、船員たちに長期休暇だって言ってきて。できるだけナポリやジェノヴァに寄り付かないようにしてほしいけど、行く先は把握できるように僕らとの連絡手段は共有しておいてね」
「了解しました」
扉が閉じる音を合図にエアロンは解読を始めた。先程の怒りは身を潜め、今は目の前の仕事だけと向き合っている。
解読はそれ程難しくない。時制や格変化など、詳しく読み込めばもっと時間が掛かるのだろうが、単語だけ拾って全体の意味を汲むことなら彼にもできそうだ。
学習用の資料はよくできていた。基本文法とは別に希望や命令などの必須フレーズを抜粋してあり、よく使う動詞の使用例が充実している。筆者である船長の語彙力も乏しいためか、手紙に書かれた文が稚拙なことも助けになった。
だから、エアロンにも読み取れた。
船長が何を考え、何を望み、忠臣アクバルに何をするよう指示したのか。そこには彼の居場所と境遇が綴られ、このことを誰にも言わないこと。今すぐに彼のもとへ参上することを命令していた。
エアロンは呻いた。これは嫌な予感というより確信だ。
また厄介事に巻き込まれるという確信。
本当は何も終わっていなかったのだという確信。
アクバルは行ったのだ。主のもとへ。今は囚われの身となっている〈アヒブドゥニア〉号の船長のもとへ。
つまり彼も行かなければならない。アクバルを追い掛けて、彼らを捕まえなければならないのだ。徒労に終わるかもしれないけれど、厄介事の襲来を防ぐために。
その紙をポケットに突っ込み、エアロンは荷物を持って甲板へ出た。ミナギが彼を呼び止める。
「副主任」
振り返ったエアロンには表情がない。熱い日差しへの高揚した気分はどこへ行ってしまったのだろう。瞳は憂いに沈み、とにかく彼は、疲れていた。
「アクバルは船長の所へ行ったんだ。僕もそこへ行ってくるよ。船長を連れ戻してくる」
「俺は――俺は、どうしたらいいですか」
「好きにしなよ。休暇中でしょ」
ミナギは途方に暮れた顔をした。
「そんな、俺には行く所なんてないんです。俺の居場所はあの人の所にしかないんです。船長がいなかったら、俺はどうしたらいいのか、わからないんです……」
この若い航海士がどういう経緯でこの船に乗っているのかなんて、エアロンにはどうでもいいことだった。ただ日差しが暑くて堪らず、とても疲れていて、潮騒がやけに煩いと感じるだけだった。
「僕に聞くなよ。君は船長の指示にしか従わないんだって、さっき僕に言ったじゃないか」
ミナギはハッとする。緑の目を伏せ、結った巻き毛が肩に垂れた。
「……そうでしたね」
迷子だなぁ。
この歳になっても、独り立ちして何年経っても、迷子のままだ。
しかし、エアロンは迷子になった時の選択肢が二つしかないことを知っている。
待つか、探すか。
前者がいつだって適切だ。けれども、待ち続ける時間が保障されないことも、不安と焦燥で息が詰まりそうになることも知っている。だから、彼はいつも後者を選んだ。
「アクバルは、船長の所へ行ったんだ」
迷子の航海士がどちらを選ぶかは知らない。
迎えに来てくれるのを待ち続けるか。
自ら道を探しに行くのか。
「――俺も」
ミナギは真っ直ぐにエアロンを見た。今この瞬間、二人の間には怒りもなければ嫌悪もない。ただエアロンの中には、諦めに似た感情だけが残っていた。
「俺も、行きます。一緒に行きます」
「そう。じゃ、支度しなよ。僕を待たせないで」
「すぐに」
ミナギは船室へ走った。程なくして、小さな鞄と細長い包みを手に戻って来る。興味深げに見守る鉛の瞳の前で、金のレイピアが日の下に晒された。
「……へぇ。船長はそれを持っていかなかったんだ」
「はい。だから届けないと」
二人は船を降りた。
追い掛けるのだ。もう二日も遅れを取っている。




