6-24 死顔
修道女の朝は早い。
シスター・カタリナは早朝の祈りを済ませ、一日の勤めを始めるべく部屋を出た。
老いた体に冷気が辛い。薄らと白んだ東の空を焦がれるように眺めながら、早く日が昇らないかしらと細やかに願う。日差しが恋しい。老体を包む、穏やかな温もり。
今朝はやけに鳥が五月蝿いと、シスターは思った。
何かに耳元で囁かれてシスターは窓際へ向かう。カーテンを開けると、何かが視界を横切った。
黒い影。
嘲笑にも似た鳴き声に、シスターは耳を塞ぐべきだったと後悔した。
サン・ピエトロ広場。
左右対称に配置された噴水の間に、天を貫くオベリスクが立つ。
シスター・カタリナは悲鳴を上げて崩れ落ちた。その声を聴き付けて、他のシスターや侍者、見回りの衛兵が駆け寄ってくる。老女は侍者の腕に抱かれながら訴えた。指し示した先で、中世風の衣装を着たスイス・ガーズが二人、広場の中央へ走っていた。
噴水の水音すら掻き消すような黒い鳴き声。兵士が槍で追い払うと、バサバサと羽を散らして鴉が空へ飛び去った。
兵士はハタと立ち止まる。オベリスクの根基に一人の神父が立っていた。
ヴァチカンの悪魔に、死を。
鴉の羽ばたきを翼のように肩に背負い。フレデリック神父が死んでいた。
***
「フレデリックが死んだ?」
神官ラスイルは食器を置き、陰気なニュースを伝える女護衛の侍者を見た。メルジューヌは彼女の向かいでコルネットを千切っている。
「今朝方、サン・ピエトロ広場にて発見されました。神父は昨日下水道に続く地下通路にて拉致され、スイス・ガーズが市内を捜索中でありましたが、見つかった時には既に事切れていたそうです」
メルジューヌの侍者は主人と同じくらい得体が知れない。東アジア特有ののっぺりとした顔立ちで、切れ長の瞳は常に冷淡である。
「フレデリック神父って、あのちょっと毒々しい人よね? ねぇ、雲斌、彼がどんな風に殺されたのか知りたいわ」
メルジューヌは表情一つ変えずに要求し、ラスイルが嫌そうな顔をしたことにも気付かなかった。
「直接的な死因は頸骨の骨折。その前にかなりの拷問を受けていたようです。大腿部は両足共に酷い損傷、両眼は抉られていました。その他、発見までに鳥類に遺体の表層面を大部分啄まれてしまいましたので、細かい点は不明です」
「彼は今どこに?」
雲斌はぴくりと眉を動かした。
「遺体をご覧になるのは控えた方がよろしいかと。お嬢様にはショックが大きいかもしれません」
「止めないで。見たいの。隠したって無駄よ。手を下したのは『彼』なんでしょう? 彼のことは何だって知りたいの……彼がどんな風に、人を殺すのか」
メルジューヌはうっとりと頬杖をついた。ラスイルが露骨な嫌悪を顔に浮かべる。侍者はそんな主人の変わった言動にも耐性が付いているらしく、素っ気無く「そうですか」と言っただけだった。
「あなたの趣味はわからないわ」
「いつかわかる時が来るわ。雲斌、あたしをフレデリック神父の所に連れて行ってちょうだい。ラスイルは……ちょっと待っててくれるかしら……?」
ラスイルは深い溜息を吐いた。
護衛であり、看守であり、最近では妹のようにすら思えてきたこの少女を、ラスイルは何故か拒絶することができない。恐怖だとか憎悪だとか、そういった感情をもっと強く抱いてもいいはずなのに、なぜか。
「私も一緒に行く」
「よろしいのですか」
雲斌が言う。ラスイルは肩を竦めた。
「ええ。フレデリックには何の同情も湧かないけど、だからといって全く面識がないってわけじゃないもの。いい気味だわ……死顔くらい拝んでやる」
***
ひんやりとした冷気が通る廊下で、ラスイルは壁に凭れて呆然と立っていた。
遺体を乗せたストレッチャーが建物の外へ消え、どこかメディアには絶対に見つけられない場所で検死解剖されるのだろう。凄惨な遺体の有様を見た限りでは、改めて調べることなど何も無いと思われるのだが、ヴァチカン上層部はどうしても彼の体から加害者についての情報を得たいらしい。
あれだけ全身を傷付けられ、鴉に腹を抉られて尚、今度は手術台の上で体を切り開かれるのだ。
憐れなものだと、ラスイルは思った。
両目の無い神父の顔は、死顔と呼べるのかすら、彼女にはよくわからなかった。涙はおろか、胃の内容物さえ込み上げては来なかった。
あまりにも生前の彼とかけ離れた姿だったため、彼女が認識できたことは、それがかなりグロテスクな映像であったこと。そして、無傷で残った金の頭髪が繊細で美しかったことだけだった。
メルジューヌが言う。
「凄く綺麗な人だと思ってたのに」
「さぞや屈辱的でしょうね」
ラスイルは答えた。
フレデリックはとてもプライドの高い男だったから。
敵の手中に堕ち、いいように弄ばれ、死後は無残な姿を多くの人間の目に晒されてしまう。それも同情でも哀しみでもなく、ただの好奇心で。
「完全な敗北者じゃない……」
そんな最期は御免だと、思った。
「あんな風になってしまうの」
メルジューヌはぽつりと呟いた。その両手はワンピースの裾をきつく握り締めている。
咄嗟にラスイルは、自らも冷酷な殺人鬼のくせに何を言っているのだと、彼女を笑おうと見下ろした。ところが、垂れた黒髪が顔を覆い、唯一覗く赤い唇が微かに震えていることに気が付いた時、彼女は掛ける言葉を失った。
その唇が、くすりと小さな笑みを漏らす。
「……エアロンがやったのね。あれを。彼が、あんな風に……」
突然、メルジューヌ・リジュニャンは声を上げて笑い出した。
少女のものとは思えない高笑い。どこか自暴自棄なその声は廊下中に響き渡り、虚ろなラスイルの腹の中を容赦無く掻き乱した。
やがて笑い声は萎み、最後にはクスクスと柔らかい忍び笑いに変わる。
呆気に取られて見つめるラスイルの腕を、メルジューヌが掴んだ。
「あたしはおかしくなんてない。そのことがきっと、ラスイルにもわかったと思うの。ねえ、あたしに同意する気になった? あたしは正しいのよ。何にもおかしくなんてないんだわ。ねえ、ラスイル――」
少女が神官を壁に押し付ける。
逃げ場を奪われたラスイルは、ただじっと若い殺人鬼の瞳を凝視していた。
「あたしの言うことを聞いて。それだけがあなたを救う道だわ」




